中国街道と香具波志神社
左手に太融寺の塔などが見えた。こちらは裏口なのかな、お寺に入ってはいけるのだけれど、おうちの一画を通り抜けて入るようになっていた。
太融寺は空海が嵯峨天皇の勅願で創建したらしい。
嵯峨天皇が兎我野にやってきたこともあって、天皇の死後、皇子(嵯峨源氏)の源融が天皇を偲んで七堂伽藍を建てたのだって。
けれど大坂夏の陣で全焼。空襲でも燃えてしまったんだって。梅田も難波も焼け野原になったらしいからな。
太融寺を過ぎると、なにやら急に暗い空気になった。信号を渡ると消えたけれど。
阪急東通り商店街と交差して、右手に綱敷天神社が現れた。地名は神山町。
綱敷天神社は、いろいろ説明書きしてくれている神社だった。意外に田舎の神社の雰囲気で、きれいに整備されていた。
土中にあったのを掘り出したという従軍記念碑、筆塚、紅白の梅、まだきれいなモミジ。狭いけれどきれいだった。かつては裏に山があり、「神山」と呼ばれていたのだって。
ここも源融が太融寺の伽藍を建てた翌年に、寺の境内に父を祀って建てた社に始まるそうだ。後に菅原道真も祀るようになり、別名は喜多埜(喜多野)天神。
横には喜多埜稲荷があった。ここは北野村だったところで、「喜多埜」とも書いたのかな? 散歩していて知ったことには、地名とかの漢字表記が定められたのはけっこう最近のことみたいで、かつてはかなり自由に表記していた。道標の文字なんか見ると、「達磨寺道」が「だる満じミち」だったりする。
後には左遷されていく菅原道真が立ち寄って梅を愛でたと伝わるそうだ。
そして重臣たちをここに残して去ったのだって。重臣たちは道真の死後、神社に道真公も祀り、神職となったのだって。
怨霊とされていた菅原道真が、いつの間にか学問の神様になったのには、そういう人たちの陰ながらの運動があったのかもしれないなあ。
そのまま北上するとセブンイレブンがあって、道がその左右に分かれていた。左手の道に進むと都島通。
このあたりは面白いところだった。結構古くて、町工場や古いアパートなんかがあった。都島通にはレトロな「バッティングドーム」なんかがあって、昭和の雰囲気だった。
都島通を渡ってそのまま進み、すぐの新御堂まで出ると右折。JRの高架下を2つ通った。
最初の高架は環状線のようで、納得だった。環状線あたりって、昭和の雰囲気のところが多い。エストなんかもあり、思い切り梅田の中心地だったけれど、少し横道に入ると、けっこう古かったりするんだな。最近「化けた」と言われる阿倍野と変わらないのかも。
2つ目の高架は京都線(東海道本線)。
それから2つ目の信号を左へ、すぐを右へ。
そして小雨が降ってきた。傘はなくても大丈夫なくらいだったけれど。
聖パウロ教会があり、NU茶屋町の間を通った。そしてつきあたりに「かっぱ横丁」。阪急電車の高架下にお店が並んでいて、魅力的だった。
右折して、高架沿いに北上していった。
東宝タクシーが上品な老夫婦を拾っていた。(老夫婦がタクシーを拾った、が正しいのかな?)
芝田町歩道橋(済生会病院前交差点)で線路から離れて右手の北上して行く道へ。この広い道は東寄りに進んでいくけれど、そこから分岐する北上する細い道へ。
しばらく行くと前方のローソンに、前に能勢街道を歩いた時に見た古い大きな石碑が見えた。「元荻之橋」とある石碑。かつて水路が流れていて、近くには「萩の寺」と呼ばれたお寺があったそうだ。そこにかかっていた「萩之橋」の跡地。
ここを左に行くと、「中国街道架道橋」と書かれたJR(梅田貨物船)の高架の下をくぐって、保育園のある永照寺の横を進み、中津商店街に。このあたりも古さを少し残していた。
商店街は昭和な感じのお店が寂れていく中に、個性的な新しいお店も混じってきていた。行列の出来ている店があって、ソーマ(インドカレーのお店)だって。
そのまま進んでいくと、右手に堤が見えてきた。堤の向こうは新淀川。
道なりに進むと、なにかの屋根の下を歩くことになった。上には阪急電車と十三筋が通っているらしかった。
屋根の下は暗くて、閑散とした作業場になっていた。元は市場があったけれど、今は解体されてしまったのかな、という感じがした。
中津浜交差点あたりだったし、ここにかつて港があって、ここで荷揚げしていたとかかな? 暗さも相まって、相当雰囲気があった。
そのまま進むと明るいところに出て、右手に上って行くところがあって、中津浜橋があった。
かつては下を川が流れていたのだろうけれど、今は下は歩道になっていた。橋を渡ると、その向こうが新淀川で、かかる橋は十三大橋。
土手のところに古そうな大きな道標があった。
南には高麗橋一里、東には長柄二十丁、北には伊丹二里半、池田四里だって。
一里はだいたい4km、丁は100m強。
この日の十三大橋は曇り雲の下だった。
右側を阪急電車が走っていた。
自転車と何度も通り過ぎた。淀川に架かる橋の距離には慣れてきたけれど、やっぱり途中、歩いても全然進んでいないような錯覚はした。
向こう岸にたどり着くと、土手に十三の渡し跡の碑と説明。前に山田街道歩きで通ったことのあるところだった。
新北野交差点を左折。地名も新北野で、ここは北野村から新しくできた町とかかな?
この広い道路は淀川通だった。能勢街道歩きではもっと東の木川あたりを歩いた道。
最初の信号で、自転車がいっぱい危ない通り方をしていくのが気になった。信号の手前、南から合流してくる道があるのだけれど、信号が変わってしまいそうなとき、南からやってきた自転車が急いで信号を渡っていくのだけれど、信号のところまでいかず、道の続きで自転車を飛ばしていく。
でもそこは信号からは微妙に離れた車道の部分で、危なっかしいなあと思った。
それからそこに、たくさんの花やジュースやスナック菓子が置かれているのに気がついた。
「12月16日にここで起きた大型バスと自転車の事故を目撃した人は連絡してください」と警察の看板が立てられていた。
大阪シティバスと自転車の小学6年生の女の子が衝突した死亡事故の現場だったらしかった。
新北野交差点を北上してすぐ十三一番街と交差した。
中国街道はこの先しばらく十三筋を行くみたい。十三筋はこの北で左折し西に向かう。
十三一番街は少々怪しい感じの商店街で、十三筋の代わりにここを西に向かってみた。
「関西一の大型キャバレーJUSO」(閉まってる?)、遊楽館なる大衆演劇なんかがあった。
高架道路(十三バイパス)が走り、その向こうには公園が見えていた。古そうな大きなお寺もあって、信正寺だって。
バイパスの下にもちょっとディープな感じのお店が建ち並んでいた。西側は普通のお店のようだったけれど、東側はディープな感じがあった。
ここを北上していくと、賑わう商店街に交差した。庶民的で素敵なところだった。チキンのお店が多かったような気がする。みかんは一盛100円、白菜半切れで100円、下仁田ねぎまで1束100円で、おかあさんは鍋の前にはここまで買い出しに来たいくらいだなあって。
パン屋さんもあったけれど、賑わう商店街の中、地味なお店で、お客さんも入っていなかったからスルー。
少し北の十三筋に出て、西に向かった。
神津小学校とか、神津の名が目立った。「神崎川」と「中津川」からとって神津町となっていたことがあるそうだ。
前に能勢街道歩きで見かけた「神津」もこのあたりだったのだろうな。このあたりまでは能勢街道と中国街道はほぼ平行に進み、600mほどしか離れていないみたい。
ここから能勢街道は北に進み、中国街道は西寄りに進路を変えて、離れていくみたい。
バス停の名は「十三元今里」だった。東成区にも今里があるから、こちらは「元今里」としたのだって。
右手の教会を過ぎて少し行くと、右手に旧道っぽい道が現れて、そちらに入っていった。またすぐ十三筋の信号のところに出たけれど。
すぐまた右手に旧道っぽい道が現れて、ここを進むと、しばらく十三筋から離れて北上。「薬師如来」とか彫られた石の道標があって、道が2つに分かれていた。
ここを右手に行くと長楽寺のようだった。気になったけれど、スルー。中国街道は左。
少し行くと上には新幹線が通り、下にもJRが通っていて、遮断機が下りていたので待っていたら、貨物列車がやってきた。長い列車がゆっくりと進むので、かなり待った。
踏切の名は三津屋中国街道踏切。この先は、工場と住宅の密集地ではあるのだけれど静かなところだった。
古いツシ2階の旧家があったりして、お寺も見えていたりして、古くからの集落だったのだろうな。
十三筋(三津屋南2丁目交差点)に戻り、またすぐ右手に分かれる旧道に入っていった。
ここも住宅密集地ではあるけれど、祠や旧家なんかもあった。
道なりに進み、米屋で2つに分かれるところでは右へ、電気屋さんで2つに分かれるところでは左に。
工場がいっぱい建つところを道なりに進むと、右手に三津屋霊園が現れた。
それから久しぶりの十三筋(美津島中学前交差点)。
三津屋に美津島、このあたりはミツと呼ばれたところだったのかな?
三津屋は元は「三社」と書いていたそうで、八幡神社が3つあったことに由来するのでは?ってことだった。
中学校、小さな郵便局、団地。その集まり方が、小さな集落だったんだろうなって感じを醸し出していた。
地名は加島で、小さな島の小さな集落だったのじゃないかな。
郵便局前の交差点を右折して、また十三筋を離れて北上。左手では工事が行われていた。市営住宅を解体しているのかな?って感じがした。
雨が少し強く降りだして、傘が必要なくらいになってきた。
高速(阪神高速)の下を通った。このあたりは大阪市内といっても、はしっこのほうの寂れ感があった。
市内にはなったけれど、いまいち発展はしなかった感じ。
高速の向こう、細い路地みたいなところに鳥居がたっていて、鳥居をくぐって進んでいってみた。香具波志神社の裏参道のようだった。
前に知らずに寄った神社が新興宗教的なところだったので、ここもそうかもと思いつつ進んだ。まさかこんなところで古い大きな神社に出会うとは思っていなかった。
香具波志神社という名は、孝徳天皇が行幸して「香ぐはし・・・」と詠んだことに由来するんだって。孝徳天皇は中大兄皇子の叔父で、難波の豊崎を宮にしていた人。
大化の改新も一時期はそこ(難波長柄豊崎宮)で行われたそうだ。少しして中大兄皇子が飛鳥に戻るよう言ったけれど聞き入れず、中大兄皇子ら主だった者たちはみんな飛鳥に帰ってしまい、難波にとりのこされたみたいになって翌年に亡くなったそうだ。
本殿は西向きで、西には山門のような門があった。その向こうに鳥居があり、ここで雨に降られて、しばし考えた。
わたしは時々おかあさんにだっこしてもらいつつも歩いたので、お腹がびちゃびちゃだった。体が低い位置にあるので、はねた水がかかってすぐびちゃびちゃになるの。どうしようか。このすぐ北から西を神崎川が流れていて、川を渡ると尼崎。
尼崎駅(JR東海道本線・東西線)から帰る予定にしていたのだけれど、雨がひどいし、体も冷えていく。
この近くには尼崎駅の1つ手前の加島駅(東西線)があるようで、そこからもう帰ろうかな。加島駅はこの鳥居を左折して、まっすぐ行けばいいだけのようだった。
傘をさしたおかあさんのだっこで駅に向かっていると、思いがけずパン屋さん(パン屋のナカマ)もあって、お土産にゲット。
きんぴらごぼうのパンが、よくあるごぼうサラダパンよりあっさりしていて、おいしかった。
雨に降られたけれど、いいこともあったな、と乾かしてもらった体とパンでうれしくなった。