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大阪を歩く犬6  作者: ぽちでわん
19/42

西国街道と伊丹

地下道を出るととりあえずそのまま前進。すぐ左折。

大きな旧家が並び、その合間に新しい家々も建っていた。少し行くと、左手に西宝寺、右手に受楽寺。

受楽寺には春團治の碑がたっていた。落語と縁のある(題材になっている)池田に春団治の碑をたてようじゃないかとなった時、受楽寺の住職が3代目春団治と親交があって、寺にたてられることになったのだって。

道は国道2号線(中環)の下をくぐり、箕面川沿いを南に向かっていた。この道が西国街道だったのだろうな。箕面川は猪名川に注いで、西国街道は猪名川を越え、さらに東に向かっていく。

けれどそこには今は猪名川を越える渡しも橋もないので、橋のある171号線にここで移動し、171号線の軍行橋で猪名川を越えていく。

中環や171号線やその他の道や歩道橋が複雑なことになっていた。

よく分からないままいっぱいある歩道橋をはしごして171号線を目指した。

とりあえず自動車道(中環)をくぐる手前の右手の階段を上り、年季の入った箕面川歩道橋で箕面川を越し、大きな新開橋交差点に至ると交差点を歩道橋で渡った。

ときどきあることだったけれど、敷かれたタイルが外れかけていて、歩くとガタガタいって怖かった。

飛び立つ飛行機が間近を通って、歩道橋の上でそれも怖いくらいだった。

このすぐ南が伊丹空港だった。

わたしは勝手に猪名川を越えると伊丹で、伊丹空港は猪名川の向こうにあると思っていたのだけれど、ここはすでに伊丹市で、空港は猪名川のこちら側だったみたい。

東は豊中、北は池田で、伊丹空港はその境目にあって、伊丹、豊中、池田の三市にまたがっているらしかった。


歩道橋で171号線の反対側まで渡り、左手に下りて、171号線を西へ向かっていった。

171号線の車道の上を青い道路が走っていた。これは2号線(中環)で、この先で171号線に下りて合流していた。

歩道の横には長く続く旧家の外塀なんかも見えて、古そうなところだった。

ちょっと道を入って行ってみると、大きな大きな旧家と田んぼと水路とだったのだろうなって感じのところだった。

けれど117号線の反対側はもっと古そうだった。この先で現れた歩道橋でわざわざもう一度反対側に戻ってみた。

淨願寺、入江家住宅、中村家住宅、増田家住宅と並んでいた。「伊丹市都市景観形成建造物」とあった。

伊丹には飛行場のイメージしかなかったのだけれど、古いところなんだなあ。このあたりの地名は下河原だった。

それから長い軍行橋で、川幅のある猪名川を渡った。軍行橋というのは、明治時代によくあったらしい軍の大演習が行われたからみたい。散歩していると、時々「ここで大演習があり」って話を聞いた。

空が広くて、右手遠くに山々が見えた。猪名川流域の王がどんなに大物だったか、物語るような景色だった。

後方(東)と左(南)は平野だった。このあたりがかつては湾だったのかな。

それでムコにやって来たクレハ、アヤハさんを乗せた船は猪名川を遡り、池田に上陸したのかな。


川を越えると左折して、川沿いに南へ向かっていった。

猪名川を渡るために本来の西国街道を離れていたから、本来の西国街道まで南下。

川の向こうに、飛び立っていく飛行機を何機か見た。

2つ目の信号で西に向かうのが続きの西国街道だった。

ここで堤を下りて信号を渡りたかったのだけれど・・・そして信号はあるのだけれど、歩行者は通れないようになっていた。歩行者のために車を止める信号が存在しない。そして車は途切れない。

なんなんだあ。仕方ないからちょっと移動して横断。

道路の向こうにはコーヒー専門店ヒロコーヒーがあって、妙ににぎわっていた。

そのほかは、一帯が工場地帯だった。

その間を抜ける西国街道は、工場(特に松谷化学)専用道路みたいな感じでさえあった。

それでも西国街道の碑と説明があった。

猪名川は川幅が200m余りもあったけれど橋はなく、松尾芭蕉もここを歩いて渡ったのだって。下河原に渡しもあったけれど、徒歩で渡るのもありだったようで、気候が良ければざぶざぶ歩いたのかな。ワイルドだなあ。


JR(福知山線)を宝剣堂踏切で渡った。

このあたりにお寺があって、その宝剣堂に続く道だった、とかかな?

公園(北伊丹第1公園)があり、ここで休憩。アップルパイなどいただいた。

ベンチに座っていると、飛行機が45度の角度で飛び立っていくのが見えた。一日に何機も飛び立っていくのを見ていると、遠くに行くことが当たり前に思えてきそうだった。

ずっと見ていたい気もしたけれど、再出発。

それからすぐ坂口橋で渡った川は駄六だろく川。

すぐ遊歩道みたいな道と交差した。「辻のいしぶみ」などがあって、説明や案内が設置されていた。

ここは多田街道との辻で、摂津の中心にあたるあたりなのだって(地理的にかな)。八坂神社跡ともあった。

多田街道って、伊丹を出発して北へ、多田神社(川西市)に向かう街道なのだって。その道が素敵に演出されていた。

多田神社は源氏の神社で、清和源氏(多田源氏)発祥の地らしい。前に行った河内源氏の地にあった壷井八幡みたいなものかな。

源満仲なる人がいて、住吉大社で神託を受け、多田を本拠に武士団を形成。その息子の一人が摂津源氏の祖、源頼光。一人が河内源氏の祖、源頼信。

源義仲は源義家にはひいおじいちゃんってことだな。


水車への案内もあった。地元の人たちが再現した水車があるらしい。

気になりつつスルーして、先に進んだ。

車も人も少なくて、前方には坂の向こうに緑の帯が見えていた。右にも左にも緑が続いていて帯みたい。なんだか雰囲気があった。

ゆるい上り道を進んでいくと北園1丁目交差点で、田舎の感じのバス通り(兵庫県道13号尼崎池田線)を渡った。

この先が伊丹坂だった。

左手には「伊丹坂トンネル」と書かれたところがあった。13号線の幅半分だけにトンネルがあって、その上には緑が茂っていた。行ってみると階段で上がっていけるようになっていた。上がってみると「伊丹緑道」が左右に続いていた。木陰の道で、それが南北に続く緑の帯になっているんだな。

階段を上ってしばらく南に歩いていってみたのだけれど、緑道は終わらずに続いていた。暖かい日で、園のお散歩でやってきた園児たちや、木の下でランチする老母と娘がいた。

途中でUターンして、西国街道に戻った。

この西には伊丹段丘って丘陵があり、そこに上って行くのが伊丹坂。伊丹坂トンネルは段丘の端にあって片方の車線は段丘をえぐる感じでトンネルが走っているみたい。

後で地図で見てみると、伊丹段丘の周囲ぐるりを縁どるみたいに丸く(半円くらいだけど)緑道があり、その緑道近くには、南には猪名野神社、北にはひじ岡天満宮、西には昆陽こや池があるようだった。東にあるのが伊丹坂。

西国街道は伊丹坂を上り、段丘を突っ切っていく感じかな。

左手に「伝・和泉式部の墓」と案内されていて、寄り道して上っていってみた。

丘の上は新興住宅地になっていた。けれど、少し左手に行ったところに古そうなものが残されていた。

段丘の端にあって高台で、平屋の古い集合住宅も小さな庭があって、なんだか素敵だった。

そこに五輪塔の一部だけが保存されていた。鎌倉時代のものだって。

和泉式部は和泉守だった橘某さんと結婚して和泉式部と呼ばれるようになった人らしい。平安時代の中小貴族で、紫式部の同僚の女流歌人。藤原某さんと再婚し、宝塚あたりに住んだのだって。

そんな関係でこの五輪塔が和泉式部の墓と伝えられるようになったのだろうってことだった。

鎌倉時代のものでも、とってもきれいだった。鎌倉時代なんてすぐそこだったんだな、と思った。


急な下り坂を下りて元の道に戻り、続きを歩いた。敷地の広々したおうちが多かった。

信号まで進むと、2つに分かれる道のうち左に進むのが西国街道だったのかな?

どちらの道も古そうだったけれど、なんだかひかれて右側の道を進んでいった。2つに別れた道は、少し先でまた1つになるようだった。

「竹塚」と書かれたところがあり、妙宣寺があった。

低い位置に並んだお地蔵さんたちがいた。

このあたりも地蔵の位置が全体的に低かった。前に歩いた下高野街道も低い位置に地蔵がいて、狭山池に通じていた。この道も低い位置に地蔵がいて、昆陽池に通じるんだな。

新しい家の建つあたりに「お塚」があった。経塚だそうだ。

左右に分かれていた道が1つになり、近くには大鹿コミュニティーセンターがあった。「西国街道」と書かれた駐車場(元は大きな旧家だったのかな)もあった。

地名は大鹿だった。なんだかただものじゃないところの気配がした。しかもそれを知っていて、守っている、みたいな。コミュニティーセンターにはいろんな説明が書かれていた。

大鹿の地名は、坂上田村麻呂がしとめた大きな鹿に由来するそうだ。

坂上田村麻呂は桓武天皇に仕えた征夷大将軍。クレハ、アヤハ姉妹を連れ帰ったアチノオミの子孫で、金色の髭をしていたという人。

当時の征夷大将軍は、その名の通り夷(蝦夷)を征する大将軍。当時、蝦夷は朝廷の支配下にはなく、アテルイという人(アイヌの頭)が王だったみたい。

手こずっていたけれど、坂上田村麻呂がアテルイを降伏させた。周りで次々人が死んでいくので、アテルイが自ら投降したんだとか。坂上田村麻呂はアテルイの人となりを認めていて、その助命を平安京で嘆願するも、願いは聞き入れられなかった。

そしてその同じ年、田村麻呂はここで大鹿を射止めたんだそうだ。大物浦に舟を泊めて狩りをしていて、ここまで来てやっと鹿を射止めたのだって。

後に南北朝時代には、日照りで難儀しているとき、妙宣寺に来ていた大覚なるお坊さんに雨ごいをお願いして、雨が降ったそうだ。そこで村中で法華宗に改宗したのだって。

その後、妙宣寺が村の中心になった。「竹塚」や「お塚」もそれに関する話のあるところみたい。

酒つくりについての説明もあった。

大鹿は伊丹郷と同じく伊丹酒で有名なところの1つだったのだって。

伊丹は一時は日本酒で栄えていて、剣菱も元は伊丹のお酒、財閥になった鴻池も、元は伊丹の造り酒屋だったそうだ。

この一帯には、坂上さんや藤原さんがやけに多かった。坂上さんが多いのは、ここに狩りでやって来た坂上田村麻呂が部下が残って坂上を名乗ることを許したから・・・なんだとか。

伊丹坂から始まった丘陵地帯の、一番の高台なんじゃないかと思われるところがコミュニティーセンターの近くにあった。不思議な風が吹いていた。


続きを行き、また信号を過ぎると、地名は千僧せんぞになった。

行基が先祖供養ならぬ千僧せんそう供養を行ったので「千僧」という地名になったと言われているそうだ。

千僧供養って、多くの僧に読経してもらい、彼らに食事などをふるまう法事を言ったのだって。

この先にある昆陽こや池は行基が造ったと言われているから、行基の名が出てきて不思議はない。

右手は自衛隊の施設みたいで、ジープが何台も止まっていた。

それから千僧天神社が現れた。

前に行った久米田池(和泉)のそばには久米田寺と神社があった。久米田池もまた行基がつくったと言われていて、久米田寺が池の管理を行っていたところ、神社はその守り神だった。

同じように、昆陽池の管理に当たっていたのが安楽院、守り神だったのが千僧天神社だそうだ。

天神社には元は行基によって猪名権現が祀られていたのだって。

安楽院はこの北西で、昆陽池は北西に数百メートル。久米田寺や神社は池のほぼほとりにあったけれど、ここは遠い。なんでも昆陽池はかなりの部分が埋め立てられたそうで、元はこの近くまで池が続いていたのかも。

久米田池を造るのには橘諸兄の尽力があったらしかった。橘諸兄に近しい大物が久米田にいたのだろうな、と思ったことがある。ここにも大物がいて、それはたとえば猪名津彦の名を賜ったアチノオミの子孫、坂上さんだったのかもしれないな。


まだ西国街道を歩いていくつもりだった。

けれど問題発生。公衆トイレがない。散歩の途中は公園に行けば、どこかにはトイレがあるものだ。けれどこの日歩いた範囲では、公園にことごとくトイレはなかった。コンビニとかも無くて、おかあさんはトイレに寄らないままここまで歩いてきて、もうそろそろ限界。

一番近い駅に向かうことにした。南東の伊丹駅方面へ。

南下するとバス通り(県道334号寺本伊丹線)に出て、ここを東に向かっていった。

金剛川を渡り、行基町に入り、てくてく歩いて、阪急伊丹駅へ。駅は大きなビルの中だった。

トイレ問題を解決した後、改札近くにパン屋があって、お土産にゲット。ハースブラウン伊丹店。ヤマザキが展開しているパン屋さんだって。

ちょっと尻切れトンボで終わった散歩だった。後で思えば昆陽池の周辺は大きな公園になっていたから、昆陽池を目指してもよかったな。

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