西国街道と防空壕
西国街道の続きを歩きに行ったのは、2月の半ば。
阪急箕面線桜井駅へ向かった。桜井は箕面市の入口のへんだった。少し南は豊中で、少し西は池田市。
改札を出るとデイリーヤマザキがあって、その前の道を北上するとすぐ西国街道だった。
アンリなるパン屋を見つけて、名物らしいアップルパイなどをゲット。
西に進んでいった。東には広い道だったけれど、ここから西には急に狭くなっていた。住宅地ではあったけれど、旧道の感じのする素敵な道だった。蔵のある大きな旧家がいっぱいあった。
浄圓寺なるお寺の前には「蓮如上人御由緒地」とあった。京都の赤井(綴喜郡)ってところ出身の赤井某さんが、富田にいた蓮如上人を招いて出家し、おうちを道場としたのが寺の始まりなのだって。
なんだか雰囲気のある箕面自動車教習所があって、その前に説明があった。「瀬川・半町立会駅所と本陣跡」だって。本陣跡が教習所になったのかな?
「立会」は共同ってことで、「駅所」は駅のあるところってことみたい。
ここには古くから山陽道が通っていたけれど、江戸時代に制度改革があって、山崎から西宮までは東海道の脇道、山崎道と位置づけられたのだって。
山崎道には宿駅(宿場)も置かれて、それが山崎駅、芥川駅、郡山駅、瀬川駅、昆陽駅、西宮宿。宿駅というのは、公用の人のための宿や馬を用意するところなのかな? それぞれ本陣も置かれて、宿場町となっていた。
枚方宿や守口宿は京街道にあった宿場で、山崎からは大阪に向かう京街道と、大阪に向かわない山崎道があったってわけね。西国街道は西宮まではこの山崎道で行く。
瀬川と一緒に、隣町の半町も一緒に駅の業務を行うようになって、「瀬川・半町立会駅所」と呼ばれたのだって。
本陣になっていたのは梶山家だったらしく、それがここだったのかな。
西国街道を進み、もう少し先で北にある瀬川神社に寄るつもりだった。
けれどこのあたりの雰囲気にひかれて、教習所を過ぎたところで右折。北に向かってみた。
右手に寺(願正寺)があり、左手に地蔵たちが集められていた(瀬川の地蔵)。じぐざぐ行くと、元は川が流れていたのだろうなって道がいっぱいだった。
瀬川というだけあって、川でいっぱいのところだったのだろうな。
瀬川宮橋を渡ると瀬川神社だった。渡った川は箕面川。もっと東の方では箕川のそばを通ったけれど、ここは箕面川。
住宅密集地の中にある神社だったけれど、このあたりはずいぶん静かだった。裏にはかつては森が広がっていたのだろうけれど、今では少し残っているだけだった。
神社の西には石澄川が流れていて、すぐ南で箕面川に合流。石澄川って、この北の呉服街道を歩いていて、池田市畑と箕面市新稲の境になっていた川だった。
瀬川神社は通称名で、本当はアメノコヤネ神社というのだって。アメノコヤネは中臣氏の祖ね。
創建は不詳で、ここもまた平安時代に春日神社となったところなのだって。元はどなたを祀っていたかは不明。
蓋をされているけれど井戸があった。ここから龍が出たと言われ、龍の宮とも呼ばれていたのだって。
瀬川宮橋をひきかえし、西国街道に戻った。
瀬川2丁目交差点を過ぎて、箕面川にかかる橋が見えてきた。そのまま橋を越えて行けば池田市で、井口堂、鉢塚のあたり。
けれど橋の手前で左折。ここからしばらくは西国街道は南に進んでいくみたい。箕面川のあたりは低湿地で、そこを避けたとかかなあ? それか大きな池があったとか。
瀬川からひきつづきこのあたりも、川がいっぱい流れていた感じがあった。
箕面市、池田市、豊中市の市境が複雑なことになっていた。
上を高速が走り、地上には阪急電車(箕面線)が走っているところを踏切で渡った。地名は石橋麻田町(豊中市)だった。麻田藩の飛び地だったみたい。
畝狭さんなんていうお宅があった。川の合間の狭いところに畝をつくったとかかな。
すぐ瀬川5丁目交差点で、国道423号線(新御堂)に合流。
このあたりは国道も複雑なことになっていた。423号線と171号線と176号線と。
東はすごい急坂になっていて、これは待兼山かな。マチカネワニの骨が見つかったところ。
423号線を少し進み、すぐに右手に分岐する水路沿いの道へ入っていった。
左手の高いところになにやらあって上ってみると、石仏がいっぱい集められていた。「玉坂新池弁財天供養塔」もあった。ここは玉坂という地で、新池があったけれど埋め立てられて、そこに祀られていた弁財天も壊されたから、それをここに祀った、とかかしら。
石橋阪大下交差点に至り、ここは賑やかなところだった。
国道171号線と国道176号線が交差するところ。すぐ西が石橋駅(阪急宝塚線)のようだった。
前に刀根山から阪大門前に行ったとき、こんなところに学生はどうやって来るんだろうと思った。そこは中央環状線と中国自動車道の走るところで、坂の上にあって、ちょっと通学しにくそうだった。あれは広いキャンパスの、南端部分。この東すぐのところにも門があって、学生さんたちは石橋駅からその門に向かえばいいようだった。
わたしたちも向かってみた。待兼山に登れないかと思って。
交差点を東に向かい、阪大の博物館のある門から入ってみた(わたしはバッグで)。博物館の右側に遊歩道が山に向かって伸びていた。「イノシシ注意」とあった。
進んで行ってみると、途中で行き止まりの分岐もあったりしつつ、あっという間に山頂あたりにたどり着いた。
まあまあ展望のいいところもあった。ほぼただの山で、他には誰もいなかった。プチ贅沢を味わって下山した。
構内には待兼遺跡もあるようだったけれど、よく分からなかった。犬だからそう歩き回るわけにもいかないし。キャンパスの工事の時だけに発掘調査しているそうで、工事中じゃないときはただの駐輪場とかになっているのかな。
弥生時代の土器や、古墳時代の古墳、ハニワなんかが見つかっているそうだ。馬と、馬をひく人とのハニワセットなんかもあったのだって。
発掘調査で出てきたものを博物館で見られるらしかった。この時は知らずにいてスルーしたのだけれど。
石橋阪大下交差点に戻り、南下を続けた。
このあたりで複雑な市境も過ぎてしっかり池田市に入ったみたい。
176号線を玉坂公園の反対側(西側)に渡り、すぐ右手に分かれる道へ入っていった。
ここで進む道を確認しているおかあさんに、女性が「どこかお探し?」と声をかけてくれた。
箕面からこっち、車は多いけれど、けっこう止まってくれたり、お先にどうぞと合図してくれたりだった。池田市も、がぜん印象がよくなったなあ。
右手に大きなおうちがあった。ずっと塀が続いて、しばらくして現れた門のあたりで分かったことには、ここは「がんこ石橋苑」。
加美の平野郷屋敷、岸和田の五風荘(この年の1月に閉店したそうだ)と同じように、古い大きな屋敷を利用したがんこの店舗だった。ここは北摂のニュータウン建設を担った企業の1つ、中井エンジニアリングの創業者宅だったのだって。
これで散歩していて見つけたがんこ屋敷、3つ目。
しばらくして渡ったのは阪急宝塚線。
踏切のそばに西国街道の碑がたち、高札場跡の説明のあるここは、前に能勢街道でも歩いた、能勢街道との辻だった。道なりに西へ。
歩道部分が緑に塗られた道が続いていた。この先ずっとこのグリーンベルトの道を進めばよかった。南下の道は能勢街道に変わり、西国街道はまた西に向かっていった。
左は高台で、右は低地。途中、豊能朝鮮会館があった。このあたりに「朝鮮〇〇」があるのは、かつて大工事に朝鮮半島からやって来た人々も従事していたとかでかな?
地名が住吉になり、道も下りになった。
住吉というからには住吉神社が近くて、住吉神社というからには元は港にあって、つまりは低地なんだろうか、と思いつつてくてく歩いていった。
左手に「北轟木」の文字が見えた。トドロって箕面あたりに多いな、と感じていた。止々呂渕に止々呂美。箕面の北あたりはかつて豊島(豊野)郡止々呂美村だったらしく、その名残なのだろうけれど、ここには轟木。
北轟木あたりにはゴーグラ跡があったらしいのだけれど、ゴーグラって何だろう?
このあたりでは弥生時代の集落跡(宮の前遺跡)も見つかっているのだって。旧石器時代の石器も。
バス通りに交差して、左手、バス通りに鳥居が見えていた。そちらに進んで、小さな階段を上ると亀之森住吉神社だった。
表参道は南にあって、その南側には中国自動車道などが走っていて、かなりの低地になっているようだった。そして地図によると、中国自動車道の向こうは池だった。
昔、港があったにふさわしいところだった。
たとえば、猪名川や箕川の支流がこちら方面にも流れていて、もしくはこの南はみんな湖で、海(河内湾)とつながっていたってことはないかな?
するとやっぱりこのあたりまで湾になっていて、応神天皇の頃、亀の形の島が現れたってことだった。
神社は奈良時代の創建と伝わるそうだ。
西国街道の続きを進んでいった。幼稚園や、順正寺なるお寺があった。
国道176号線と中国自動車道が立体的になった道が北にカーブして、目の前を横断していった。暗い地下道への入り口があって、ここを通って国道&中国自動車道を越していくらしかった。
その手前に神社があり、寄ってみると駒の森十二神社だった。道路ができて狭くなったのだろうけれど、まだ広さのある神社だった。
祭神は十二大神で、天神七代(イザナギ、イザナミまでの7代)、地神五代(イザナギ、イザナミの子のアマテラスからウガヤフキアエズまでの5代)の神のことなんだって。
駒の森というのは、西国街道を行く大名行列が馬を休めた森だったから。
創建などについては不詳・・・かな。
境内に防空壕があった。残ったままだった防空壕が保存されているみたいで。
神社に防空壕をつくるって、分かるなあ。他の神社も、むかし防空壕があったってところもあるのかもしれないな、と思った。
それから地下道に入っていくと、国道176号線&中国自動車道の向こう側に渡った。




