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大阪を歩く犬6  作者: ぽちでわん
14/42

呉服街道と池田

2月初めの頃、次には、箕面にあるらしいイナツヒコ神社へ行くことにした。

式内社イナツヒコ神社の論社は、1つは猪名津彦神社(池田市)で、これは前に行った。もう1つが箕面市にある為那都比古神社らしく、前に歩くつもりで時間切れになった呉服街道で箕面まで行ってみよう。

呉服街道は池田から箕面まで。

何度目かの池田駅(阪急宝塚線)は改札を出ると、正面の窓の向こうが山(北)だった。やっとそんなことに気がついた。

2階にある改札を出て右に進んで下に下り、信号を渡りつつ駅前公園へ。でも駅前公園には、駅から歩道橋でつながっていたみたい。

公園のバス通りを隔てて向かいは池田市役所だった。バス通りを北へ向かった。そのまま行くと、前に行った城跡公園方面だった。

すぐの警察署前で右折して、東の辻ヶ池公園に向かっていった。

道は上り坂だった。辻ヶ池って、高いところにあったんだな。というか、駅あたりが低地なのかな。猪名川に近いぶん。

いくつ目かの信号で左手に辻ヶ池公園が現れ、左折して、あわんど地蔵の前を通って公園へ。

公園はこの日はカラフルな園帽をかぶった小さな子どもたちと、ゲートボールをする年配者たちでにぎわっていた。

公園の北東からさらに東へ。

右手には産業技術総合研究所が見えていた。まだ道は上り続け、左手に呉服神社。駅近の呉服神社とは別の、穴織神社に近い呉服神社のほう。

呉服神社から北に丘が続いて、五月山などの山々とつながっているのが見てとれた。山々は北摂山系というやつ。大阪平野を取り囲む山々のうち、北の部分。


呉服神社や穴織神社の北の府道9号箕面池田線が呉服街道だった。伊居太神社の下から西に向かう道。

せっかくなので、前回少し歩いて古そうだった渋谷を通って9号線まで北上することにした。

呉服神社の東には八王寺川が素敵に蛇行しながら流れていて、その川を過ぎ、まだ上りが続く道を東に進んでいった。秦野小学校前バス停があった。ここはかつて秦野村だったところ。更に昔には秦野郷で、秦氏の住んだ一帯だと思われるってところ。

信号があり、荒堀川なる川が北から南に流れていた。この川沿いを北上することにした。

荒堀川って、荒く掘った川? それとも川上に荒木さんの旧家がいくつかあったから、荒木さんが掘った川なのかな?

ずっと上りの道で、そこにずっと住宅が続いていた。

「川は水害を防いでくれます 池田市」と古そうな看板があった。

けれど前の集中豪雨で、荒堀川でも被害が出たそうだ。荒堀川と八王寺川との合流地点あたりがひどかったらしく、地図で見るとそこは鉢塚だった。前に行った鉢塚古墳と猪名津彦神社の間あたり。

そのあたりもずっと秦野郷だったあたり。それで鉢塚古墳は秦氏の墓か?といわれているんだな。

川沿いの道では、風が吹いて、いい匂いがするところがあった。ピンクの梅と白い梅が咲いていた。

道が途中から川から外れていき、そこを右手に行ってみると、渋谷公園だった。あたりには大きな家ばかりだった。古いおうちもあった。

公園は元は原池だったところなのだって。この東も古そうで、地名は畑だった。

公園の北側の道から南を見ると、見晴らしがよかった!

寺や山城があるにふさわしいところだなあ。駅からここまで、ずっとてくてく上りの道を上がってきたものな。

元は竹林や田畑の中に池があり、ほとりには寺が建ち、そんなところだったんじゃないかなあって感じがした。


元の道に戻って北上を続けた。道が細くなり、つきあたりを右折。

ここが呉服街道だった。この少し西で9号線から分かれて、9号線と平行に東に向かう旧道だった。

自性寺なる寺があった。新しそうに見えたけれど、江戸時代に開かれたお寺だそうだ。阪神淡路大震災で被災して、リニューアルしたのだって。

「西国巡礼道」の案内があって、巡礼道でもあるらしかった。西国巡礼道って、小林十三記念館あたりでも見たな。西国三十三カ所(の観音さま)を回る道なのだって。

1番は和歌山の南端にあって、そこから大阪湾岸へ。北上して、4番葛井寺。東の奈良に進んで、また北上。京都にいっぱい札所があって、西に行って亀岡、南に行って、22番総持寺。23番が勝尾寺で、24番が中山寺だって。

ここは総持寺から勝尾寺に向かう道なのだろう。新稲、畑を通って、滝道で勝尾寺に向かったのだって。

中山寺の次は姫路まで行き、日本海側まで北上。東に向かって琵琶湖を回り、岐阜県で終わる。


途中、左手の高いところに赤い鳥居が見えてきた。

左手はきつい上り道と見え、すぐ近くなのに、ずいぶん高い位置に鳥居が見えた。

9号線を横切って、鳥居を目指して上っていった。参道の階段を上る前、鳥居の左手に赤いお堂があった。

中にはいろんなものが祀られていて、ちょっと怖かった。

愛宕神社も祀られていた。字「女郎垣内」から移したんだって。「女郎垣内」って、気になる地名だな。

赤いお堂の左手に道があって、ここから行けるかもと進んでいってみたのだけれど、途中で荒れて草ぼうぼうで断念。このあたりは山って感じだった。

素直に参道の階段を上っていくと、畑天満宮だった。「畑」の地名も、「秦」からきたのだろうな。このあたりから鉢塚の南の方までが秦野村だったのだって。

畑天満宮は平安時代後期(11C)、白河上皇の頃の創建だそうだ。

階段を上り切った右手が展望台のようになっていて、最高に見晴らしがよかった。家々がごまんと並ぶ向こう、遠くの山々が見えていた。金剛山や葛城山なんからしかった。

ここまでずっと住宅が続いていた。北の山に向かってどこまで続くかと思ったけれど、神社の裏で住宅地は終わりみたいで、そこは山中だった。

南下して、呉服街道の続きを東に向かっていった。

左手に天理教攝豊分教会。「KBC神戸屋」とあるシックな黒い看板なんかを見た。いつの時代のものなんだろう。

堂九本どうくもと川手前で石造物がいろいろ集められたところがあって、一番目立っているのが「青高(高じゃなくて面かな?)金剛」と書かれたものだった。

堂九本川を渡り、またすぐ小さな橋で石澄いしずみ川を渡ると、地名が新稲にいなに変わり、住宅が減って、いきなり田舎の様相だった。池田から箕面に入っていた。


貸農園らしき田舎の風景が続き、けれど左上の方でたくさんの犬のけたたましい鳴き声がしていた。

それから小さな祠があった。「新垣の庚申塔と一本杉」とあった。

大きかったという松の根元部分があり(でも幹はそんなに太くない)、「青面金剛」と書かれた石などがあった。

今まで散歩で見てきた庚申塔には「庚申」と書かれてあったけれど、ここでは「青面金剛」みたい。青面金剛は庚申の守り神のことらしい。

あたりには古い家々も見えた。古くからの集落で、昔にはやった(?)庚申塔があるんだな。

新稲は「猪名」からきているのかな? 「稲」のつく表札のお宅が多かった。

けれどそんな古い集落が、住宅密集地になっていた。この先は、ほぼずっときちんと整った道に住宅が建ち並んでいた。

箕面って、もっと田舎かと思っていたら、駅はあまりないのに住宅密集地で、しかも梅田からもそう遠くはなかった。電車で30分もかからないくらい。

左手に児童公園(新稲児童遊園)と地蔵堂があって、電柱にはもう終わった「阿比太神社」の節分祭の案内がはられていた。

阿比太神社は道を南に下っていった先にあるらしく、名前も気になって行ってみることにした。

途中振り返ると地蔵堂がちょうど見えていた。この上り坂を上りきったところに地蔵堂がたてられたんだな。その感じがなんだかよくて、何度か振り返った。

住宅密集地だけれど、古い雰囲気の残るところだった。左手に謎の祠が2つあった。

新稲あたりは古墳群のあったところで、秦氏の墓ではないかとされているみたい。もっと古くは縄文時代の土器や石器も見つかっているそうだ。


けっこう下っていったところで、右手に阿比太神社が現れた。

いろいろ見て回れるほどに広く、歩ききれないほどには広くない、ちょうどいいサイズ感の神社だった。

式内社で、祭神はスサノオ。応神天皇の時(即位して2,3年)の創建と伝わるのだって。元は箕面駅の南東の芦原公園あたりに鎮座していたそうだ。そこに豊島てしま牧ができることになり、移転。一時は牛頭天王を祀っていたそうだ

物部系のアビタ連の関係か?ってことだった。

応神天皇の時って、葛城氏とかが有力者だった時代だと思う。

けれど神社を回っていると、いつも「中臣系の○○連」「物部系の○○連」が関係してるのでは?って話ばかりだな。応神天皇の頃の神社さえ「物部系アビタ連」だって。

その地を大和朝廷が開拓したり治めたりするにあたり、まずは神様を祀ったのかな。祭る役目を担っていたのが当初は中臣氏や物部氏で、それで中臣系、物部系の名がよく出てくるのかな。

他にその土地の有力者がいたけれど忘れられ、中臣系○○、物部系○○の名だけが残っている、とかかな?

それか応神天皇の頃の創建なんていうのはもう分からない話で、物部系にアビタ連がいたから神社をそれに関連付けてみただけかな。


神社を出ると、今度はもう少し西側の道で元の呉服街道まで上っていった。稲〇さんの旧家の並ぶ道だった。昔の感じを残していて、素敵だった。

周囲はもうほぼ新興住宅地なのだけれど、この一帯だけ頑なに古いままだった。

呉服街道に戻り、東に向かっていった。途中、左の高台に寺が見えた。気になったけれどスルー。

近くには新稲古墳もあったみたい。6世紀後半の円墳だって。

中池公園もあって、その向こうが大阪青山大学だった。

それからすぐ9号線に合流して、呉服街道は再び9号線に。

すぐ左には北摂山系の山々が見えていた。というか、切り拓かれていて分かりにくいけれど、ここも元は山中で、北摂山系のただ中なのだろうな。

南には下りで、見晴らしがよかった。

第一中学校の手前を右折して、ちょっと寄り道。中学の裏手にある八幡太神社へ行ってみた。

中学校には車と、けっこうな量のバイクが止まっていて、地元あたりではあまり見ない光景だった。このあたりでは車とバイクが不可欠ってことなのだろうな。確かに自転車の人なんて見かけなかった。坂でできているような箕面では、これが学校のスタンダードなのかな。

八幡太神社は公園と一緒になってあった。一時、阿比太神社に合祀されていて、小さくなって戻ってきたそうだ。東南東を向いた神社で、東南東に見晴らしがよかった。箕面川を見下ろし、横には池もあった。

ただものじゃなかったはずだ、という感じがした。

道を下っていった南には大きな公園が見えていた。箕面西公園(箕面川親水公園)だって。気になったけれど、ここもスルー。

鳥居の前の道を下っていって、「参道」とあるところで左折。9号線(箕面第一中学校前交差点)に戻って、また9号線(呉服街道)を東へ向かっていった。

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