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大阪を歩く犬6  作者: ぽちでわん
13/42

三島と中臣

トンネルをくぐると右手に八幡大神宮。

もう少し行くと闘鶏野神社だった。前に行った闘鶏野つげの神社は参道が名神高速の上を横切る橋になっているという忘れがたいところだった。

闘鶏野神社から八幡大神宮、阿武山古墳と歩くつもりが、闘鶏野神社で雨が降りだしてUターンしたことがあり、今回はそのリベンジだった。

八幡大神宮は立ち入り禁止になっていた。土のうが積まれ、バリケードされていた。北部地震や台風で危険な状態になっているままなのかな?

トンネルの続きの車道を進んでいった。ゆるい上りの道で、そこに普通に住宅が続いていた。

今までは名神高速の向こうは別世界というパターンが多かった。神社だけがあったり、古墳と霊場のある山だったり。けれど、ここは南からそのまま、住宅地が続いていた。

左手の高い位置に池があるようで、そこに上がっていった。池の周りを歩けるようになっていて、池の左手へ。池を半周したところに左に細い道が現れて、そこを進んでいった。

まわりは大きな新しいマンションだらけだった。

池の多い山のふもとが開発されて、広い道も通されているけれど、こんなふうに通り抜けの細道も残されているんだな。そうでないと、巨大なマンションを大きく迂回しつつ歩くことになるし。


公道に出て、目の前には公園が見えた。新池ハニワ工場公園だった。

また雪がちらつきはじめたけれど、ほかにもちらほらと人の姿があった。周りを取り囲むように存在している大きなきれいなマンションへの通り道にもなっているようだった。

この公園が素敵なところだった。さすがだな、高槻市。

どうやらここは、その名の通り、埴輪をつくっていたところらしい(新池埴輪製作遺跡)。古墳時代の先祖と一緒に古代にタイムスリップするという内容の漫画での説明が随所にあり、池のほとりに実物大の埴輪も並べられていた。

再現された高床式住居(工房)と窯には、どちらにもカヤもふかれていて、素敵だった。

説明によると、1つの窯で一回に45個の円筒埴輪が焼けたそうだ。3つの窯で焼いたら、相当数焼くことができた。

1つの窯につき1つのグループが従事。

前に歩いた岸辺(吹田市)あたりの七尾瓦窯跡(聖武天皇の時代の難波宮に使う瓦を焼いた窯跡)でも、複数グループが一緒に作業していた跡を見ていたから驚かなかったけれど、聖武天皇の時代より古い古墳時代から、既に複数グループが従事していたんだな。

ここで埴輪を焼く人々を、複数のグループから誘致してきたって感じなのかな。

100年間にわたり、総数18の窯で数万本の埴輪が焼かれたそうだ。それらは太田茶臼山古墳、今城塚古墳に運ばれ、それだけじゃなく、大和のほうにも供給されていたのだって。

800~900度の高温で焼かれていて、須恵器の技術を応用していると思われるそうだ。

それより前に和泉の泉北丘陵で須恵器を焼いて流通させる大規模工場(仁徳天皇陵などに供給されていた)があったから、お手のものだっただろうな。

古市・中百舌鳥のあたりで造られていた大王の古墳が三島に移っていったから、同時にいろんな職人たちや専門家たちも三島に移っていったのだろうな。

幾人か専門家を送りましょう、そんなことを中央の役人的な人が決めていたのかな。陶器づくりの名工、在庫調整の達人、大勢を相手に采配をとれる人、土を採取する人、木こり、舟を出せる人、鍛冶職人。

重要人物たちも三島に集まり、中臣氏もその中にいたのかな。

5世紀半ば頃、千里丘陵でも須恵器が焼かれるようになり(吹田窯跡群と桜井谷窯跡群)、ここには埴輪工場が誕生。

須恵器や埴輪は坂につくった登り窯で焼くので、谷と丘陵が連続し、坂が多い泉北丘陵や千里丘陵は好適地だったのだって。燃料の木々も豊富だったろうし、運搬のための水運も確保できたろうし。


窯跡には煙出しの穴も再現されていて、登り窯の感じがよく分かった。

作業場の竪穴式住居(工房)は3つあって、日本最大の大きさなんだって。

そしてハニワ工房館があった。一番保存状態のいい窯をドームで保存し、資料館としたらしい。登り窯の上に大きなドラム缶みたいな覆いがされて、その中が展示場になっていた。

ハニワ工房館の奥(館の入口方向)にも池と公園が続いていて、そちらに進んでいった。池は中ノ池。公園の西側を土室川が流れていて、そこからいくつかの池に取水しているようだった。もしかしたら、焼いた埴輪を運搬する船が係留したところとか?

公園のこちら側には人はいなくて静かだった。

公園を北から出て、そばの信号を渡ると、今度は「上の池公園」。ここも広さのわりに人のいない公園だった。公園の中を北上していくとダイキ(ホームセンター)があり、ダイキ前を左折してすぐの緑道を進んでいくと阿武山図書館の横を通り、公道に出た。ここを左折。すぐの信号で右折。

道なりに進んでいった。

途中「阿武山古墳」への道標があった。地名は奈佐原。ずっと上り道で、尾根の部分のようだった。

奈佐原って名や地形から、古いところの感じはあったけれど、すっかり新しくなっていた。

車道はぐねぐね、かなり遠回りしていて、ずっと車道を歩くのは辛いな、安満宮山古墳みたいに山の中の散策道でショートカットできないかな、と思いつつ歩いていった。

新阿武山病院があり、「晴耕雨読」と書かれた素敵なシルバーエイジ用の遊び場みたいなところがあり、「阿武山古墳」と案内されたゲートの中に入っていった。


ゲートからの道は、住宅街を離れて山に入っていった。

「観測所見晴らし台」に到着。ベンチなんかもあって、見晴らし台というだけあって、見晴らしもとっても良かった。ここは阿武山地震観測所らしい。京都大学の施設で、なんでも観測所を建設中に阿武山古墳は発見されたのだとか。昭和初期の頃だって。

そしてさらに上り道を行くと、小さな小屋のようなところがあり、その横に「阿武山古墳」への案内が、細い山道をさしていた。

切った細い丸太を使って階段がつくられていて、荒れていないし、快適な上り道だった。

ちょっとぬかるんで滑りやすいところがあり、木が倒れてトンネルになっていたり、切られた木が転がっていたりもしたけれど、全然大丈夫。

前に行った安満宮山古墳とは違ってイノシシの気配もなかった。

安満宮山古墳は3世紀後半、卑弥呼にも関わりがあっただろうという人の古墳。高槻駅そばの安満遺跡公園(弥生時代の集落跡などの遺跡)の北にあったから、茨木市との市境に近いここよりもっと東に位置する。


途中、山中の分岐点に出て、右には阿武山(山頂だろうな。ここから600m)、左には桑の原橋(1.2km)と阿武山古墳(150m)だって。

阿武山古墳方向にフェンス沿いを行くと、阿武山古墳の説明板があった。

けれどなにもなかった。ただの落ち葉の散った山中の地面があるだけ。

阿武山古墳が発見されたのは昭和初期。調査してみると、やんごとなき位にあった人の墓とみてとれたので、皇室につながる人の墓かもってことで、それ以上探るのは不敬だとされ、埋め戻されちゃったのだって。

ミイラ化した遺体も残っていたというものな。

ちょうど尾根のはりだした部分で、見晴らしはよかったのだろう。けれど今ではそうでもなかった。木が茂っていたりで、さっきの見晴らし台ほども見えない。

本当に藤原鎌足の墓なのかな? こんな高台の辺鄙なところに?と思うようなところだった。

後に大和(談山神社)に改葬されたらしいけれど、いったんは阿武山に埋葬されたという藤原鎌足の墓かも、と言われるのは、残っていた遺体のX写真による見立てが鎌足の死因(落馬による負傷が元)と一致すること、頭のあたりに散らばっていた金糸が、鎌足だけが賜ったのかもしれない大織冠のものではないかとされたこと、かららしい。

大織冠は冠位十二階の最高位で、それを賜ったのは記録に残るのは鎌足さんだけなのだって。

ただ金糸が用いられていたのが大織冠だけだったとは限らないし、貴人ならば落馬で負傷して亡くなる老人は他にもいただろうな。

改葬したのは息子で僧の定恵だったそうだけれど、もしここが鎌足さんの墓ならば、遺体はそのままに、神社で言う勧請(分霊を他の地に移すこと)を行ったってことかな?


藤原鎌足は三島の別邸に住み、乙巳の乱で中大兄皇子らと共に蘇我氏を倒す。

難波宮で大化の改新が始まる。都が飛鳥に戻る。中大兄皇子が即位して天智天皇となる。56歳、落馬した怪我がもとで亡くなる。その直前に天智天皇から大織冠位と藤原の姓を賜る。

亡くなるとき、5年ほど前の白村江の戦いでの敗戦が心残りだったらしい。勝てなかった日本を残したままなのが気がかりだったのかな。

白村江の戦いは日本軍が朝鮮半島まで行って戦った戦い。

その頃、中国大陸には唐、朝鮮半島には新羅、高句麗、百済があった。

高句麗と百済VS.唐と新羅という感じになっていき、唐と新羅が優勢に。大化の改新のただ中で日本は遣唐使を送りつつ過ごしていたみたい。

けれど古くから親しい関係の百済から援護要請があった。百済はもう滅亡しようとしていて、なんとか盛り返しをはかっていたみたい。中大兄皇子は難民を受け入れるなどし、援護の水軍を送った。

50000人くらいが従軍したみたい。けれど大敗。(白村江の戦い)

結局、百済と高句麗は滅んでしまった。

唐・新羅連合軍が次は海を越えて日本にも攻めてくるのじゃないかと、天智天皇は九州から関西まで砦を築いたりしたそうだ。高安(八尾市)にも都への最後の砦として山城を築かせたらしい。

百済に味方して怒りを買っていたし、朝鮮半島は近いし、現実的な恐れだったのだろうな。その後、唐と新羅が仲たがいしたかで、日本に襲来することはなかったようだけれど。


来た道を戻り、ゲートを出て、道を下っていった。

来た道より少し北側の道に進んでいたようで、途中、下の方に四角い人工池のあるきれいな施設(奈佐原浄水池)が見えた。その南側の道を過ぎて左折。

女瀬川を4号橋で渡って道なりに進むとバス通り(府道115号萩谷西五百住線)に出た。ここを駅方面に戻るべく南下していった。

女瀬川は佐奈原から南流し、今城塚古墳のすぐ西を通り、西国街道あたりで土室川を合わせ、五百住いおずみを通って津之江で芥川に注ぐ川。

途中、左手に神社が見えて、行ってみると殿岡神社だった。公道をはさんで南に八幡や大神宮もあった。

間の公道を東に行くと埋葬文化財調査センターだって。バス通りを北に行くと摂津峡公園。

境内には古墳もあった。古墳時代後期の横穴式のもの。

破壊行為があったのでと施錠されているトイレや、盗難が相次ぐのでと書かれた賽銭箱など、荒れている感じのところだった。

創建は不詳だけれど、元は稲荷神社だったのだって。阿武山の殿岡峰ってところに位置するらしかった。


115号線は走っているけれど、このあたりは田舎で、田んぼがいっぱい残っていた。車通りもそんなに多くない。

西側の女瀬川沿いの道の方が素敵だったから、途中からはそちらで南下していった。川をレトロな橋で渡ったりしつつ。

途中、115号線側がいきなり都会になり、そのまま川沿いを行きたいところだったけれど、パンをゲットすべく115号線に戻っていった。

地名は南平台だった。大きな新興住宅地。すぐに道沿いに小さくて地味なパン屋レヴェイユが現れた。

それから115号線を南下していったのだけれど、左手の住宅地に緑が見えていて、その中に向かう小道があって気になった。

そんなところが続けざまに2か所あって、ここが弁天山古墳と岡本山古墳だったみたい。弁天山古墳群、もっと広くは三島古墳群に属する前方後円墳。

三島の王の墓で、岡本山古墳が3世紀後半、弁天山古墳がその後の3世紀末のものと思われるのだって。

女瀬川と芥川にはさまれた佐奈原丘陵の南の端に位置し、岡本山古墳は三島で最初の前方後円墳だそうだ。箸墓古墳との類似がみられるらしい。

太田茶臼山古墳が5世紀半ば、今城塚古墳が6世紀前半のもの。

巨大なそれらの前方後円墳に至る5世紀前半頃まで、弁天山古墳群に王墓がつくられつづけていたみたい。

初期の古墳は弁天山古墳などで、低地部に造られた、と説明されていたように思う。新池ハニワ工場公園でだったかな。けれど低地ではなかった。安満宮山古墳なんかが高すぎるだけで、ここも十分に高台だった。南へと、道はまだまだ下っていった。


岡本町名神下交差点で名神高速の下をくぐった。

右手に池が続いていた。その向こうが、前に行った闘鶏野神社や観音寺跡。

左(東)側には白山しらやま神社があったみたい。後で知ったことには、雄略天皇の時、どうのこうのって神社らしかった。

このまま115号線を南下していった。女瀬川を横切り、そこから車幅が狭くなった。

左手にちょっとだけ見えている緑は今城塚古墳で、古墳公園にちょっと寄って休憩。けっこうな時間になっていたし、少し急いでパンもいただいた。おいしかった。

それからは、狭すぎて、歩道もあまり確保されていないなじみの115号線を南下。宮田春日神社があって、大畑町交差点があって、次の信号を少し東に行くと摂津富田駅(JR京都線)。

今日もいろいろ行ったなあ、と帰途についた。

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