表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大阪を歩く犬6  作者: ぽちでわん
12/42

三島と鴨

少し前、何度か茨木方面に通っていた。

茨木や高槻、島本町(三島郡)あたりは古代には三島(三嶋)と呼ばれていた地域で、初めて足を踏み入れたのは亀岡街道とか枝切街道とかを歩いていてだった。

そして三島と呼ばれていた地域の古さを知った。

散歩していて大阪の意外な古さを知るようになり、柏原市や和泉市が面白いところだなあと思うようになっていたのだけれど、北は茨木や高槻だった。面白くて何度か通ったけれど、まだ気になるところがあって、その1つ、鴨神社などに行くことにした。

以前、三島江(高槻市)にある三島鴨神社に行った。三島江は淀川のそば、古代の豪族、三島県主や官衙(昔の役所)に関わる港があったところってことだった。そこに鎮座する神社は、式内社の三島鴨神社ではないかということで三島鴨神社を名乗っていた。

けれど論社(候補地)がもう1つあって、それが鴨神社(高槻市赤大路町)なのだって。


阪急総持寺駅からのスタートにした。日差しがあって、明るい冬の日だった。

阪急京都線は、梅田を出ると左手に空中庭園を見ながら北上し、淀川を越えて、十三駅へ。1月末のその日、十三駅にはホームドアが設置されていた。前にはなかったように思う。

前回行った池田は十三から宝塚線で北に向かったけれど、京都線は東寄りに、淀川の右岸を京都に向かう。左岸には京阪本線が走っている。

南茨木駅、茨木市駅、総持寺駅、富田駅、高槻市駅、どこもそれぞれに古く、面白いところだった。新興住宅地になって古さの跡形もなくなっているところも多かったけれど。

総持寺駅は西口を出ると右折。左手に道が2本現れるところで右側の北上する道へ。

なんだかしっとりした道だった。青葉ヶ丘公民館を越えると総持寺公園。

この公園には覚えがあった。前に総持寺から東に向かう途中で通った公園だった。この東は急に低地になっていた。西には総持寺。平安時代、藤原某さんが創建したというお寺。

そのまま北上を続けた。ゆるい上り道で、あたりは新興住宅地だった。

JR(京都線)の踏切があって、カンカンと遮断機がおりていた。「遮断機が長く下りたままになることがあります」と注意書きされていた。

2本の電車待ちをして、遮断機が上がったと思ったら、次の瞬間にはまたカンカンカン。急いで渡った。

踏切を越してすぐ右手に鳥居が見えていて、子安天満宮だった。


地名は赤大路町。赤大路にはやって来たことがあった。

菅原道真が太宰府に左遷されていったとき、菅公(菅原道真公)の子を宿した女性(側室)がここまで追ってきたものの、大出血。その血で道が赤く染まったから赤大路という、というところだった。

その後、女性は亡くなり、祀られたという話だったけれど、それがここなのだって。

「菅公御旧跡子安天神社」とあった。

このあたりでは実際に赤い土が発掘されているらしい。それで赤大路と呼ばれていたものが、菅公の側室の話につくりかえられていったのかな。

家やマンションにとり囲まれた神社だったけれど、神社内だけは少し鄙びたままだった。手水所には小さな屋根がついていた。

元の道に戻って北上を続けた。左手には大きなUR。右手には大きな旧家や蔵なんかも見えた。この道が茨木と高槻の市境になっているみたいだった。

三島丘交差点で国道171号線に交差した。

三島丘の地名にも覚えがあった。西河原公園(安威川が流れていたところ)近くの新屋神社や疣水神社に行った後、東にどんどん上っていったところの地名だった。

この総持寺駅からの北上の道はずっと高台になっていて、尾根道とかだったのかもしれない。それでその道が市境になっているのかな。


三島丘交差点を渡ってしばらく進むとつきあたり、市境の道はしばらく途切れるので、一本東側の道で北上。右手に赤大路町西公園が現れた。

その東にある鴨神社に向かっていった。

ここは赤大路町(高槻市)だけれど、すぐ西は東太田(茨木市)。東太田も前にやって来たことがあって、太田廃寺跡などのある高台だった。前に歩いた西国街道が通っていて、その北には太田茶臼山古墳や太田神社があった。

太田茶臼山古墳は26代継体天皇陵ということになっているけれど、実のところはもう少し古い時代の古墳で、三島に継体天皇より前にいた大物の墓だと思われるところ。もう少し東の今城塚古墳が真の継体天皇陵じゃないかとされている。

どの天皇陵がどの古墳か、決めていったのは明治時代のことで、後に「真の〇〇天皇陵」はここじゃないか、とか、ここは〇〇天皇陵どころか古墳でさえないのでは、とかいう話が後になって出てきたみたい。明治時代のころまでの長い歳月の中で、天皇陵はあまり顧みられなくなり、所在も不明というケースが多かったというから仕方のない話。


太田といえばオオタタネコ。10代崇神天皇の頃の人で、鴨氏の祖とされているけれど、太田の近くに鴨神社が祀られていることとなにか関係があるのかな?

左手に鳥居が現れて、その奥に南向きの神社が見えた。鴨神社(犬の散歩NG)だった。

周りは住宅地で、左手の大きなマンションからは、完全に見下ろされていた。

周りをフェンスで囲まれて、参道以外からは入れないようになっていた。周辺に新興住宅が迫ってきている神社って、こういうところが多い。

祭神は大山祇と鴨御祖大神だった。三島神云々とも書かれていた。白玉稲荷もあった。

葛城からやって来た鴨氏がここに住み、その祖を祀ったとも伝わるのだって。

葛城からやって来た鴨氏ってことは、「鴨の大御神」ことアヂスキタカヒコネの末裔ってことかな。アヂスキタカヒコネはオオクニヌシの息子で、葛城の高鴨神社に祀られる人。妹はシタテルヒメ。

上町台地を開拓したという話もあって、産湯稲荷神社(天王寺区)にはアヂスキタカヒコネが掘ったという井戸跡なんかがあった。

息子はアチハヤオ。放出あたりに港をもっていたという人。

その子孫がオオタタネコ。10代崇神天皇の時、国が乱れ、我を子孫であるオオタタネコに祀らせたらいいとオオモノヌシから告げられた。オオタタネコが探し出され、オオタタネコは三輪山の神、オオモノヌシを祀った。

その子孫に鴨氏がいる。


参道を引き返していると、ヤマダ電機だろう派手な建物が見えていた。

赤大路町西公園に戻って、その西側の道を北上していった。

左手に「ねこバス図書館」があった。「11ぴきのねこ」(馬場のぼる)の絵の描かれたバスで、もう引退しているみたいに古く見えた。引退して小さな図書館になったのかな?

ここも市境になっていて、道の右と左で「ペットの糞は持ち帰りましょう」のポスターが違っていた。左は見覚えのあるかわいい茨木市のポスター、右は高槻市のちょっといかついポスター。

このあたりはなにか吹く風が違っていた。かつては丘のてっぺんのようなところで、そこに一本の大きな木がたっていた、そんなところを吹く風のにおいがした。

そしてこのあたりで市境が東に移り、道の東側も茨木市に。

今度は左手に女九神社があった。でもここも新興住宅との間には塀があって行けず、ぐるっと西の参道に回らないといけなかった。「さんすい学園」なる施設の前を通って、大回りして行った。

そして到着した女九めぐ神社は、小さい神社だった。ここも手水所に屋根があった。由緒など、何もかかれていなかった。詳細は不詳らしい。

継体天皇が亡くなった時、12人の妻のうちの9人が殉死したのを祀った神社と伝わるそうだけれど、本当かな? 赤大路といい、ホラー好きな人が考えた物語みたいに思えるけれど。


さんすい学園の西側の道に戻り、南下。次はこの近くの加茂神社に行くつもりだった。

雪がちらちら降りだした。今季初めての雪だった。昨年も、何度か雪の中、散歩をしたなあと思いつつ進んだ。

「東太田新田自治会」の名が見えた。新田だったところなのかな。

ダイキ(ホームセンター)手前を右折。細い道を進んでいくと、右手には旧家がいっぱいだった。

地蔵のいる細い路地道があって、そこに入っていくと、新田集会所と小さな神社があった。

ここが加茂神社だった。説明書きなどは何もなかった。新田開発にあたって鴨神社から分祀したとかかな?

周りには吉井さんのおうちがいっぱいだった。

おうちがここに固まっている小さな集落で、周囲は一面田んぼだったのだろうな。

ダイキからの細道に戻り、西に進むと、急に西に展望がひらけた。

ずっとここまで丘の上を歩いてきたけれど、この西側はいきなり低地になっていて、自転車の人がえっちらおっちらと西から上がってくる。遠くの山まで見えて、素敵なところだった。

ここが前に西国街道でやって来た太田廃寺跡あたり。東西の高低差が激しくて、この北側には西国街道の雲見坂がある。実際に歩いて東に向かうと、空と雲しか見えなかった坂。

西には崖のような段差があって、段差下の低地が東芝町だった。東芝跡に追手門のキャンパスがやってくる大規模工事が行われているところ。

西には安威川が流れていて、遠い昔にはこの段差の向こうは海だったのだろうなと思われた。

縄文時代、海面が上昇していた時期があり、上町台地の西側に崖のような段差があるのは「縄文海進」によるものだそうだ。阿倍野区が崖上、西成区が崖下、区の境が崖のようになっているのだけれど、縄文時代には西成側が海の中で、阿倍野の西端に波がざぶ~んざぶ~んと押し寄せていたのだって。そして削られて崖になっていった。

上町台地は南で大陸にくっついた半島になっていて、その東側は河内湾と呼ばれる大きな湾になっていたそうだ。その湾がこの西側まで続き、東芝町が海の中で、東太田に波がざぶ~んざぶ~んと押し寄せていたのかも。


工事現場を左手に見下ろしながら、崖の上の部分を北上していった。

工場はだいぶ進んでいた。北側の建物は完成していて、南の建物も形ができてきていた。船みたいな形の建物だった。

絶対この向こうも見晴らしがいいのに、建築中の建物でよく見えなかった。

太田廃寺跡の説明があった。この西の低地には大きな池があったことが想像されるし、その池などを見下ろす寺だったのかな。

飛鳥時代終わりころに建てられ、中臣系の太田氏の氏寺だったと思われるってことだった。

ニギハヤヒとその息子のウマシマジの子孫たちが物部系と呼ばれるように、アメノコヤネの子孫たちが中臣系と呼ばれる。有名なのは中臣鎌足。中大兄皇子と一緒に当時最高権力者だった蘇我入鹿を天皇(中大兄皇子の母)の目の前で暗殺し、大化の改新を推し進めた人。

物部氏(物部守屋)は蘇我氏(入鹿の祖父の蘇我馬子ら)によって滅ぼされたけれど、その蘇我氏も中臣氏らによって滅ぼされたわけね。

中臣鎌足は暗殺事件の前、別宅のある三島に暮らし、死後にもいったんは三島に葬られたらしく、三島にゆかりの深い人らしい。

大昔、ここはオオタタネコの親戚が住んでいたかなにかで太田と呼ばれていたのかな?

そこに中臣系の人がやってきて、土地の名を名乗って太田氏になったのかな?

中臣氏はおおむかし、祭祀を行う役を担っていたらしく、各地の祭祀、各地の神社や古墳に携わって、各地に土着していったのかな。

それで和泉地方を歩いていても、大鳥氏や殿木氏など中臣系の人々がそこらじゅうにいたのかな。三島でも他に知っているところでは、安威あい(茨木市)にいたあい氏が中臣系ってことだった。


雲見坂からの西国街道と交差して、西国街道をしばらく東に向かって歩いていった。

右手に八坂神社があって、藍野大学があって、左手にパン屋があった。このあたりはまだ記憶に新しかった。

水路を越えると高槻市になり、地名は土室はむろ。この水路がここでは市境になっているみたい。南には、鴨神社の東あたりを流れていく。

信号まで進んで左折して、バス通りを北上していくつもりだった。そちらに阿武山古墳がある。けれどその手前(西)の道が面白そうだったので、予定変更してこの道で北上してみた。

阿武山古墳は中臣鎌足の墓か?と言われる古墳。

中臣鎌足はいったん三島の阿武山に葬られたとされていて、かつて、ここではないか?とされていたのが、前に行った将軍塚古墳だった。けれどその後、阿武山古墳が本当の中臣鎌足の墓ではないかと言われるようになったのだって。

ゆるい上りの道で、なんだか素敵だった。そのうち田んぼや、池の跡(かな?)や、トラクターのある旧家なんかが現れた。

土室川横を歩いたりしながら北上し、道なりに進むと、バス通りを横切った。このあたりも寺なんかもあって、古そうなところだった。すぐ上を名神高速が走っていて、少し東側にトンネルがあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ