表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大阪を歩く犬6  作者: ぽちでわん
11/42

呉服神社と穴織神社

小林十三記念館の入り口を過ぎると、右折して東に向かっていった。高台で、大きなおうちが多かった。地名は建石町。

下の能勢街道に星の宮があったあたりだったけれど、下とは雰囲気が違っていた。下は庶民的だったけれど、ここらは庶民じゃない。

もう少し行くと、前方に大きな半分裸のような山が見えてきた。勾配の途中にあり、山を囲って柵があり、公園(茶臼山公園)になっていた。公園にたどり着いても入り口はなくて、左折してみた。

右(南)には下り、左には上りだったけれど、下ってみたものの入り口がなくて倍上らないといけないというのは避けたかった。けっこうな勾配だった。くるっと北側に回ると入り口があった。

池田茶臼山古墳で、てっぺんまで上っていけるようになっていた。

上ってみると、風がびゅーびゅー吹きつけてきて、顔の相が変わるくらいだった。でも見晴らしはとってもよかった。他には誰一人いなかった。

昭和30年代、五月山が開発されて、この古墳も壊されるところだったんだって。けれど地元の人たちが残すように運動をして、公園として残されたそうだ。今や周辺は住宅だらけで、壊されていたら跡形もなくなっていたのだろうな。

4世紀半ば、竪穴式石室を持つ前方後円墳らしかった。全長62m。石室の長さ6.35m。

だいぶ分かってきた。おおまかに言ってだけれど、4、5世紀は古墳時代の前半で、たいていは竪穴式石室をもつ。上から縦に掘った穴にお棺を安置して上から石で塞ぐ方式で、王一人用であることが多い。前方後円墳の多く造られた時代でもある。

時代を下ると権力が分散していくのか、大勢が入れる小規模な円墳が多くなる。亡くなった人を順番に埋葬できるように、横に穴を掘り、埋葬後も横穴から繰り返し出入りできる構造になっている。それが横穴式石室で、海外から伝わった埋葬方法だとされている。


池田茶臼山古墳は猪名川の東側一帯では一番古い前方後円墳だそうだ。

次につくられたのは、娯三堂ごさんどう古墳だって。4世紀後半のもので、径27mの円墳だって。もう既に権力は弱まっていた感じかな。

それを最後にこの地方で古墳はつくられなくなり、この2つの古墳を築いた勢力が衰退したのだろうってことだった。

4世紀後半は神功皇后や応神天皇の時代かな。

そして5世紀になり、突如として桜塚古墳(豊中駅の南あたり)がつくられ始め、そして6世紀に入ると桜塚古墳群の時代も終わり、横穴式石室の墓が登場するんだそうだ。それが前に行った二子塚古墳(石橋駅北あたり)など。

そして6世紀後半には小規模な古墳が多くつくられるようになり、7世紀初めに、鉢塚古墳(池田駅の南東あたり)がつくられたのだって。


公園には「失業対策事業おわり()記念植()」と碑があった。()の部分は土に埋もれていて読めなかった。

なんのことかと思ったら、後で行った歴史民俗資料館で知ったことには、戦後、失業対策として五月山公園を造ったらしく、そのことかな?

ほぼ山一つが整備されて、大きな五月山公園になっているのは、失業対策だったそうだ。それでこんなすごいことができたんだなあ! ハイキングコースとかも整備されて。

その一環で茶臼山古墳が壊される予定だったのが残されることになり、失業対策としての五月山開発の終了時にここに記念植樹されたのかな?

後世の人が、こんな公園を前史の人たちが造ったと知ったら、大勢が長年働かされたのだろうなあと思うだろうな。大きな天皇陵と同様に。

それならもしかしたら天皇陵も、ある意味、失業対策だったなんてこともあり得るのかもしれないな、と思った。食べ物のとれなかった年などに、労働と引きかえに食べ物がもらえたのかも。渡来してきた人々も、従事することで定住できたのかも。

茶臼山公園の東の道を南下していくと、左手の高台に新規分譲中の工事現場があった。

その向こうに高台はつづき、この丘が五月山緑地(第3号)。ここに図書館と歴史民俗博物館があるらしかった。「丘の上の図書館」は今年、閉館してビルに移転すると書かれてあった。


五月山緑地に入っていった。

図書館があり、歴史民俗資料館があり、古墳への道があり、南に丘を下って、緑地を出られるようになっていた。

まずは歴史民俗資料館に行ってみた。わたしはバッグに入って。

無人で、コンパクト。さらっと池田の歴史を知るのにいい感じかな。石器から埴輪、須恵器、江戸時代の書類や書なんかが陳列されていた。

そういうのは他でも見たことがあったから、戦前のランドセルや戦時中の千人針、「出征の日」の白黒写真などが目を引いた。その日々を過ごした人々のことが、身近に迫って感じられた。

次は古墳の案内に沿って歩いて行った。柵で囲まれた中に石室があり、棺の複製が置かれていた。

五月丘古墳で、秦氏の墓じゃないかと言われているそうだ。

石室も棺もコンパクトで、棺は陶棺だった。陶器の棺もあったのかとびっくりした。陶棺は他にもいくつか見つかっているらしく、前に行った信太や玉手山などでだって。


南に丘を下り、バス通り出て、左折するとすぐ呉服神社だった。丘のふもとに鎮座していた。

姉の織姫、呉服くれはどり(とりは第一人者のことだって)を祀る神社だった。

秦野村にあった信空谷と呼ばれた空の澄んだところで、桑の木も多く育ち、感激した呉服さんが住み暮らしたのだとか。

室町にも呉服神社があるけれど、呉服さんの墓(室)のあったところと住んでいたところとが呉服神社として伝承されているんだな。

「とりは第一人者のこと」という説明はどうなんだろう。

一般的には「機織り」から「はとり」となったといわれているみたい。服部と同じね。

日本にも服部はとりがいて、その外来バージョンが「くれはとり」「あやはとり」だったのかな。

桑の木って自生するそうだ。秋になるとときどき桑の実を見つけて、何度か食べたことがある。好みじゃないけど。

その木が多く自生していたのかな。それとも服部がいて、桑畑があったのかな。

前に行った服部天神(豊中市)には、こんな話があった。

昔むかし、朝鮮半島経由で秦からやって来た人々は、機織りに堪能で、はた氏となった。彼らは服部にも住み暮らし、崇敬していた少彦名を祀っていた。19代の允恭天皇のとき、服部を服部連の本拠地とした。

服部にも住み暮らしていたけれど、秦野村だったこのあたりにも住んでいたのかな?

古くは服部や池田や箕面は同じ豊島郡だったところみたいだし。


参道の階段を下りると、前方には八王寺川(江原川)が流れていた。このすぐ南が能勢街道で歩いた研究所のところ。

左折して、川沿いの車道を北上していった。

すぐに、今度は穴織神社があった。呉服神社と同じような説明が、「呉服」を「穴織」に替えてされていた。すぐ横は池だったようなのだけれど、埋め立てられて工事中だった。

東側は渋谷しぶたになるところで、なかなか古い感じだった。ちょっと散策すると、古い家や井戸なんかも普通にあった。渋谷も秦野村だったところ。

八王寺川は畑ってところから流れてきて、穴織神社そばを通り、呉服神社そばを通り、産業技術総合研究所を通って、鉢塚古墳と猪名津彦神社の間を通り、箕面川と合流して猪名川に注ぐみたい。


ここから北の9号線に戻って呉服街道を箕面まで歩くつもりだった。けれど、時間が微妙だった。

前は微妙でも行ってしまっていたのだけれど、この頃は断念することにしている。強行するとたいていへとへとになって、帰ってからも時間に追われることになるから。また機会があったらとして、池田駅に向かうことにした。

呉服神社まで戻って、西へ。能勢街道歩きでも通った辻ヶ池公園にたどり着き、ここを左折して駅へ向かった。

その名の通り、辻ヶ池公園も埋め立てられた池だったのだろうな、と思いつつ進むと、公園の横には「あわんど池の辻地蔵」がいた。

「あわんど」は阿波堂のことだって。江戸時代につくられ、昭和40年に埋めたてられた辻ヶ池の別名が阿波堂池だったそう。

阿波堂は平安時代の作だと思われる薬師像のある薬師堂の別名らしく、前回、辻ヶ池の北の道を西に向かった能勢街道にあった薬師堂のことらしかった。「薬師堂通り」の薬師堂ね。

これが本来の姿じゃないんだ、古い古いところだったんだ、と思いつつ街中を歩いていった。

今の池田は、発展途上の街って感じがした。高槻とは違って、ローカル色が強い。

駅には「落語の町」「卓球の町」と大きく書かれていた。

卓球の町というのは、昔、なみはや国体が行われた時、池田が卓球の会場になったからだって。

落語の町なのは、桂三枝の自宅があったのを縁に、ということだった。

「クレハ・アヤハの町」というのはもう古いのかな。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ