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大阪を歩く犬6  作者: ぽちでわん
10/42

五月山と

源立寺の梅がきれいだった。レトロな「池田ビリヤード」があった。

槻木交差点、寿命寺、西本町交差点。

「いけだピアまるセンター(企業育成室)」には「旧池田実業銀行」とあった。

池田はかつて一帯の中心的な都市だったんだって。このあたりはそのメインストリートだったのかな。銀行なども並んでいたみたい。

地蔵なんかもいて、古かった感じが色濃くしていた。

後で寄った歴史民俗資料館の白黒写真で見たのだけれど、西本町交差点で交差した道は「薬師通り」で、かつて商店などの建ち並ぶ通りだったみたい。

前に歩いた能勢街道で薬師堂があった(中には平安時代の薬師立像。暗くて全く見えなかったけれど)。そこに至る道だから薬師通りなのだろうな。


北に向かうと、新町交差点では右手に城のようなものが見えた(後で知ったことには城跡公園の展望台)。

古い商店だった感じの建物がいくつかあり、その奥も古そうだった。

左手には「能勢菊炭・池田炭」の店、その奥には川。

中橋交差点から、その川に出てみた。中橋がかかり、このあたりが「唐舟が淵」だそうだ。クレハ、アヤハの姉妹がムコから船でやって来たところ。ここに機織りの館をたてて二人を迎えたのだって。

川は猪名川だった。

その向こうにきれいな道路が見えた。阪神高速で、北の方でカーブする猪名川に大きなきれいな橋がかかっていた。

中橋交差点に戻って、東に向かっていった。すぐに左手に鳥居が現れた。長い階段があって、リュックの人が上っていった。ここは、市街地そばの五月山。ウォーキングというよりハイキングね。わたしたちもそれに続いた。

「犬のふんは持ち帰って」みたいな注意書きが書かれていたから、散歩はOKなのかなと、階段は自分でとんとんのぼった。

さっきから名をよく目にした伊居太いけだ(いこた)神社だった。呉服神社が下の宮なのに対して、上の宮と呼ばれたところ。

門は山門のようで、左右には武士の人形が飾られていた。

池田市で最古の神社がこことされているそうだ。別名を穴織社といい、祀られているのは呉服の妹とされる穴織あやは。地名も綾羽あやはだった。

姫室塚もあった。呉服神社にもあったけれど。いろんなことが、本当なのかどうかも、どこに何塚があるのかも、全部分からなくなっているのだろうな。

仁徳天皇の時、穴織媛が亡くなり、仁徳天皇が翌年にここに祀ったと伝わるそうだ。

ふと思ったけれど、弟媛はどこに行ったんだろうな。


山中の境内には為那都比古大明神も祀られていた。アチノオミとその息子を祀る神社だそうだ。「使主おみ室」があった。

一帯には古墳がいっぱいあったのかな。クレハとアヤハの伝説をもとにして、小さな古墳にいろんな「〇〇室」って名がつけられたのかな。

神社の参道は五月山への南の傾斜部で、そこではいろんなものが見つかっているらしかった。

旧石器時代のものと思われる石器や、縄文時代のサヌカイト製の石器、周辺では弥生時代や古墳時代の集落の跡。古墳も普通にあっただろうな。

伊居太神社は、式内社の伊居太神社ではないかとされている神社の1つだそうだ。もうひとつ尼崎にも論社があって、そこも伊居太いこた神社というのだって。

どちらが式内社伊居太神社なのか、どちらでもなくて他にあったのか、なにも分かっていないそうだ。

ここはどうして伊居太と書いて「いけだ」と読ませるのかな。式内社の伊居太神社かもってことで「伊居太神社」を名乗り、「いけだ」と読んでみたのかな?

このあたりは昔は呉服と呼ばれていて、鎌倉時代の終わり頃に池田となったということだった。

和泉発祥の池田家に、後に清和源氏の人が養子に入り、摂津豊島郡と美濃池田郡はそれぞれ摂津池田氏と美濃池田氏のものとなったそうだ。豊島てしまの国人となった摂津池田氏は室町時代に池田城を築いたそうだ。

池田氏が豊島に鎌倉時代の頃にやって来たか、台頭してきたかで池田とよばれるようになったとかかな?

美濃池田氏は池田輝政がいて栄えたけれど、摂津池田氏は荒木村重に下克上されて没落したそうだ。


参道の階段を降りて東に進み、途中で左手の道に入っていった。

左手に五月山公園への入り口に向かう階段が見えた。それから地蔵なんかが集められて、階段の上に祀られているところがあった。

そのまま進んでいくと、五月山公園前交差点で広い道に出た。府道9号箕面池田線で、南の池田駅からやって来て、五月山公園前で右折し、東の箕面に向かっていく。これが呉服街道で、この道を箕面まで歩くつもりだったけれど、その前にまだ回るところがあるのだ。

とりあえず9号線を東に進んでいった。左手には大きな五月山公園があって、そこには動物園やたくさんのハイキングコースなどがあるらしかった。

五月山は一説によると、元は佐伯山といったのだって。佐伯山が五月山となったのだとか。日本書紀に猪名県の佐伯部が仁徳天皇に云々の記述があるらしい。失礼があって、安芸郡に移されたのだって。

佐伯部って、警護や戦闘に従事した人たちだったみたい。蝦夷からの捕虜などで構成されていて、それをまとめた土地の有力者は「佐伯」と呼ばれたのだって。

佐伯さんは大伴さんと同族とされているそうだ。アメノオシヒの末裔なのだって。

佐伯さんや大伴さんのことはまだ詳しくないので分からないのだけれど、神功皇后が住吉神社や新屋神社を祀った頃から、河内や摂津の地は着々と大和朝廷の(というか応神天皇の、かな)ものになっていったのだろうなあって感じがした。

都合の悪い者は排除したりして。

大工の元祖みたいなイナ部の人たちが住まい、服を織る人々もここに住まい、ここは渡来人たちを多く住まわせた、港に近い、大和朝廷の国際的な都市だったのかな。神功皇后は亡き夫の他の女性が産んだ皇子たちを排除することでそこを手に入れたのかも。

ムコから船でやって来れるイナの地は要所で、警護も必要で、佐伯部を置き、佐伯部を率いる者としてアメノオシヒの末裔である人を派遣したのかな?


左手に陽春寺の墓地の案内や「大広寺」の碑が現れて、そちらに左折していった。

急な坂道だった。五月山に向かってぐんぐん舗装道を上っていく。

まずは陽春寺、それからさらに上にある大広寺たいこうじにたどり着いた。立派なお寺だった。かなり高い位置にあって、南に見晴らしもよかった。けれど寺のすぐそばまで住宅が迫っているのに驚いた。

池田氏の菩提寺で、創建したのも室町時代、池田氏によってと伝わるそうだ。池田氏は荒木村重に下剋上されたから、その頃に荒廃。けれど池田氏によって再建されて、江戸時代には子院も多くある大きな寺院になっていたそうだ。その1つで唯一残っているのが陽春寺。

しばし眺望を楽しんだ。

それから下の9号線に向かって下っていった。

9号線の向かいにはきれいな体育館があった。その体育館の東には下りの階段があり、「城跡公園」の案内が出ていた。ここを下っていった。

さらに下の方を杉ヶ谷川が流れていて、そこを橋で渡った。

素敵な田舎だった感があった。北摂山系(五月山たち)の南麓あたりの杉ヶ谷。この橋も元は谷にかかるつり橋とかだったのじゃないかな、と思えた。

けれど谷を越えると、もう家やマンションでいっぱいだった。比較的最近開かれたのだろうなって感じがした。

ここを下っていくと逸翁美術館があり、池田文庫があるという道だった。更に下ると能勢街道と交差する。


下っていく途中、城跡公園が現れた。けれどペットNGだって。わたしはバッグに入って、荷物と化した。

そのまま進むと大手門(東門)だったようなのだけれど、わたしたちは北門から入っていたみたい。北門への道はまだ開発されていない鄙びた中にあり、蛇行して上って行く道の感じがお城っぽくて素敵だった。

梅なんかが庭園風に植えられた気持ちのいい公園だった。やぐら展望台があって、上っていけるようになっていた。こんな高台のちょっと辺鄙なところにあるのがもったいない。

梅の季節にはもっと増えるのかもしれないけれど、寒かったこの日、他にはほとんど人もいなくて、展望台の階段には昇降機までついていたけれど、利用者は皆無。

全体的にミニチュアの造りもの感がやや強く、展望台からの眺めも中途半端ではあった。もっとずっと高い大広寺からの眺望を見た後ではなあ。

けれど公園の西側が崖のようになっていて、そのあたりは迫力をもって城跡を堪能できた。西には猪名川が流れていた。

ここに池田城があり、城の西側は崖で、北には杉ヶ谷川、東と南には堀があったそうだ。

城主の池田氏は、織田さんから摂津三守護の一人として重用されるも、下克上されて荒木村重の家臣に。摂津の守護は荒木村重が1人で任されることになった。

荒木村重が信長に反旗をひるがえした後は、池田城は織田信長の陣となり、その後は廃城とされたのだって。


もう少し南に下ったところに池田回生病院があって、病院を過ぎたところで左折して、小林一三記念館方面に進むつもりだった。

けれど逸翁美術館の手前、右に下りていく細い道があって、ここが山道の感じを残して素敵だったので、ついそちらに。

「日初和尚遺蹟」の石碑があり、だいぶ下ったところには「愛宕神社」と書かれた祠と地蔵たちが固まってあった。

高台に置かれたっていう愛宕神社も、地蔵たちも、他の場所にあったのを、まとめてここに置かれたのかな。日初和尚というのは江戸時代の学僧で、このあたりにあった蓮秀庵に住み暮らしていたのだって。

細道が普通の公道になり、左折するとすぐ能勢街道だった。

能勢街道を東に向かった。池田園なる古い茶道具店があって、建物が昔のままの作りになっているみたいで興味深かった。

池田文庫下で左折。北上して、坂を上っていった。後ろには法園寺ほうおんじ、峠茶屋福助堂なんかが見えていた。福助堂は創業天保12年。名物の大福は小林一三翁(阪急の創業者)の好物だったのだって。

回生病院手前を右折。小林一三記念館の案内が出ているところ。

道はジグザグして、どちらを向いて歩いているのかも途中で分からなくなったけれど、「小林一三記念館」の案内を目印に歩けばよかった。ジグザグしているのは、池田城の堀の跡なんだって。

「西国巡礼道」と書かれていた。


それから小林一三記念館が現れた。

小林一三は明治6年に生まれ、日本で初めての田園都市型新興住宅地(室町ね)などをつくり、そこに阪急電車を走らせた人。阪急百貨店、六甲ホテル、宝塚歌劇団、東宝などもこの人がつくったそうだ。

雅号は逸翁で、この人の美術品のコレクションを集めたのが逸翁美術館だって。

ここに来る前に行った五月山の大広寺には、小林一三夫妻の墓もあるそうだ。

山梨に生まれ、慶応大学を卒業。東京で働いていたけれど、新しい事業に誘われて大阪に。けれど世界恐慌が起き、早々に失業。知人の阪急電車を走らせる計画が頓挫しかけているのを引き継ぎ、手を広げていった。当時一帯の中心的な都市だったという池田市に住み、亡くなったも池田市。

そして今は、高いところで池田を見守っているんだな。

小林一三記念館には雅俗山荘などがあり、そこが夫妻の住んでいたところだそうだ。

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