梅田スタート
クリスマスが迫ってきていた。
わたしも犬生6度目の冬だからだいたい分かってきていた。寒い頃、町のパッケージがいろいろ変わる。黒と紫のハロウィーン、白と赤のクリスマス、少し静かなお正月。
正月になると1年が生まれ変わる。
おかあさんは言う。「昨年はいろいろ行ったねえ。今年もいろいろ行こうねえ」
「今年」が「昨年」に変わる前に、最後かもしれない散歩(ロングVer.)に行った。年末はさすがのおかあさんも少々忙しいからなあ。
短い散歩にはこれからも大晦日の日まで行く。けれど朝から家を出て、知らない土地をいろいろ歩き回り、夕方近くに家に帰るという散歩は今年はもう最後かも。
その日、天気はぐずついていた。でも最後に行っておきたいな、と、傘を持って強行した。
このところよく雨に降られていたけれど、傘が必要なくらいでもなくて、今回もそれくらいだといいなあ、と期待しつつ。
そんな日にそう遠くまで行く気はなくて、中国街道を歩くことにした。
中国街道は、前に能勢街道を歩いていて知った道だった。
わたしとおかあさんの散歩(ロングVer.)はそんな感じ。歩いていて、他の街道との交差点に説明板が設置されているのを見たりでまた別の街道を知り、新しく知った街道を歩いてまた別の街道を知り・・・。
そもそもの始まりも説明板だった。まだ小さかった頃、普通の犬らしく近所の散歩が日課だった。
近所には住吉大社があって、住吉大社界隈を何度も歩いているうちに気がついた。「紀州街道」や「熊野街道」の説明が設置されていることに。最初気づいたのは紀州街道の説明だったかな。
なんでも住吉大社の西側には紀州街道が、東側には熊野街道がはしっていて、南へと続いていっているらしかった。近所の散歩コースには飽きてきていて、ちょっと紀州街道を南に歩いて行ってみた。
安立があり、大和川を越えて堺に行けた。その頃はそれで満足していた。大和川は元々は北西に、大阪城方面へと流れていたのが江戸時代、人の手で流れを変えられて、西に流れるようになった川だとか、堺がかつては栄えた環濠集落だったとか、そんなことはまだ何も知らなかった。
熊野街道も南に歩いてみて、それからその先がどうなっているのか気になってきた。けれどその先はもう徒歩圏内ではなくて、歩きたい地点まで自転車に乗って行くようになった。おかあさんのこぐ赤い自転車の前のかごに乗って、あの頃はよく出かけていた。それから自転車で行ける距離でもなくなってきて、電車に乗って、歩きたい地点まで行くように。で、今に至る。
中国街道は大阪からから西宮に行く道らしく、その前半、大阪から尼崎まであたりを今日は歩こうかな。
大阪は高麗橋からの出発のようだったけれど、江戸時代、いろんな街道の出発点だったという高麗橋はもう何度も行ったし、昔の面影はもうないし、梅田からのスタートにした。
梅田あたりは行ったこともあるけれど、電車の乗り換えとかで、お母さんのバッグの中でビルの中を通るくらいだった。外に出るのは初めて。
梅田は歩いてみたかったし、うわさに聞く「お初天神」にも行ってみたかった。というわけで、梅田~お初天神~中国街道と歩いてみよう。
お初天神には東梅田駅(大阪メトロ谷町線)が最寄り駅らしい。
とりあえず東梅田駅は7番出口から出ていった。初めての梅田の土。
地名は「曽根崎」とか「兎我野」とか書かれていた。都会の梅田らしからぬ名前だな。だいたい「梅田」というのもそうだけれど。
田舎だったけれど、たまたま都会になったんだろう。かつての都会は船場のあたり。最初は「大阪市」ってそのあたりだけだった。電車が走ることになったとき、まだ蒸気機関車だったからその音はうるさく、煙は黒く、田舎に駅をつくって、それが梅田すてんしょだったというものな。ステーションを当時の人々は「すてん所」と呼んだのだって。「所」のほうがしっくりきたのだろうな。
地下からは階段をぐるぐる上って地上に上がったので方向が分からなくなっていたけれど、上がった右手が北のようだった。右も左もビル群なんだけれど、右手が明らかに派手にビル群だった。東梅田や西梅田ではない、梅田の中心地、梅田ね。
反対方向に左折した。
ここは御堂筋で、車がどんどん走って行く横を南下していった。
最初の信号を左折すると「お初天神通り」と案内されていた。
そちらに進んで、商店街と交差してすぐ、右手にビルと同じような質感の玉垣が現れた。玉垣の向こうはビルで、ビルの間を通っていくと、そこがお初天神だった。さすが都会の神社だなあ。
正式名称は「露天神社」。
「天神」だし「お初」だし、そう古い神社じゃないと勝手に思っていた。ところが1300年ほどの歴史を持つらしい。
今まで散歩してきて知ったことには、淀川や大和川ってかつてはもっと川幅はあり、支流は多く、中州(島)もいっぱいあるような大河だった。
大昔、大阪平野はみんな海の中で、陸は上町台地くらい。上町台地は南で本州につながった半島になっていて、そこから東に生駒山地あたりまでは内海。河内湾と呼ばれる大きな湾になっていたのだって。けれど気候が変わったり、運ばれる土砂が堆積したりで河内湾は河内湖となり、もっと小さく草香江(古墳時代にそう呼ばれていた)になり、そのうち幾多の川と池とになっていった。
1300年程前の奈良時代、ここは島だったのだって。後に土砂の堆積でみんな陸になっていったのね。
そして重要な祭りの「難波八十島祭」が行われていた社の1つがあったところで、祀られていたのは住吉須牟地曽根神と伝わるのだとか。それで今の地名が曽根崎。
須牟地曽根神社は前に長尾街道を歩いていた時、堺市(住吉近く)で知った。元は須牟地曽根神社が祀られていたというところに、今は勝手明神が祀られていた。住宅街の中の小さな一角だった。
住吉界隈にはスムジ神社が3社あった。スムジ曽根の他、神スムジと中臣スムジ。
古すぎる話で、今はもうあまり分からなくなっているみたいだけれど、スムジ神は道中を守る神で、古墳時代とかに住吉にあった磯歯津道に鎮座していたのじゃないかと言われている。
ファンタジーか??って話でしょ。
わたしは散歩している中でいろんなことを知るうち、何度も思った。
ファンタジーか? おとぎ話か? なに言ってるんだ?
けれど古い書物(古事記とか日本書記とか)にもシハツ道については記載があり、雄略天皇(21代天皇で、仁徳天皇の孫)のとき、住吉津(住吉大社あたりにあった港)で上陸した、海外から渡航してきた人々の都に向かう道だったそうだ。
何も知らなかったわたしは、そんな大昔に「港」「渡航」「都」って~、と、半信半疑だった。
けれど更に散歩しているうちにいろんなことを知った。大阪ではいろんな遺跡が見つかっていて、古墳時代どころか弥生時代から、物を専門的に作る集団がいて、それらを船を使った交易でやりとりしていたらしいこと、仁徳天皇陵とかが現実に残っているけれど、それはただの大きな土盛りってだけじゃない、石で固め、排水溝なども設置し、崩れないように高度な工法で築かれたものであることなんかを。
そうして今では少しは想像できるような気もする。住吉津に上陸した人々がシハツ道を行き、そこに設けられた3つのスムジ神社でお神酒を受ける様なんかを。
中臣スムジ神社には中臣氏が関係していたのではないかと考えられている(というか名前から想定されるって感じかな)そうだ。中臣氏は中臣鎌足(中大兄皇子と共に大化の改新を行い、天智天皇となった中大兄皇子から藤原の名をもらった)が有名だけれど、どうやらもっと前から天皇の重臣だったみたい。
中臣スムジ神社が中臣氏なら、スムジ曽根は曽根氏なのかな?
曽根氏は物部氏の系統と考えられているみたい。物部氏は物部守屋(蘇我氏によって殺害された)が有名だけれど、元をたどれば天皇家より先に近畿にいた氏族。
神スムジ神社についてはヒントも残っていなくて全く何も分からない・・・のかな。
散歩をしていて、古いことは分かっていないことばかりということも知った。歴史はずっと続いてきたけれど発掘や研究の歴史は浅く、もう失われた遺跡もいっぱいだから。気づかれていない遺跡もまだまだいっぱいあるみたいだし。
露天神社の今の祭神は少彦名と菅原道真だった。
また出た、少彦名。
菅原道真は有名かな。学問の神様で、あちこちで祀られている。平安時代、宇多天皇に重用されていた優秀な人だったけれど、宇多天皇の隠居後、藤原氏の陰謀でか大宰府に左遷され、左遷されて1年後に亡くなった人。その後、都ではいろんな事件があり、道真公の祟りかと噂された。ついには皇居に落雷して重職にあった人が何人か亡くなり、祟りを鎮めるべく道真公らが祀られた。
陰陽師とかが「これは祟りです」と言ったのかなあ。
陰陽師も、ファンタジーか?って話だよねえ。けれど陰陽師は明治時代になるまでずっと国の機関として存続し、廃止されてからは暦をつくったりしていたらしい。陰陽師たちの住む村だったってところが歩いていても2カ所あった。額田(東大阪)と藤田(守口市)。
だいたい江戸時代の有名な陰陽師、安倍晴明の一族は元々は大阪にいて、それが阿倍野だっていうんだからなあ。
落雷との関係でか、多くの天神も道真公を祀るようになったらしい。他、左遷されて行く途中、道真公はいろんなところに立ち寄ったみたいで、その跡地にも道真公が祀られていた。江戸時代には淀藩の藩主になった人が道真公のファンだったとかで、淀川沿いの神社を次々道真公を祀る天満宮に変えていったりもしている。そんなこんなで道真公を祀る神社は多い。
スクナヒコナは道真公みたいに有名じゃないけれど、わたしには今やおなじみの人。
服部天神(近くには服部住吉神社)、生根神社(近くには住吉大社がある。別名「奥の天神」)などの祭神だった。高井田駅(JR大和路線)そばの白坂神社は、近くの天湯川田神社に祀られる天湯川田ナの先祖を祀るとかって話で、その祭神もスクナヒコナだった。
現代の露天神社には「恋人の聖地」といっぱい書かれ、神社の姿をした恋人の聖地スポットみたいになっていた。
お初とその恋人がここ露天神社の森で心中する事件があり、近松門左衛門が「曽根崎心中」なる戯曲に書いて大ヒット。神社は「恋人の聖地」になり、心中が流行したりもしたそうだ。
今はビルに囲まれているけれど、当時は森があったりしたんだな。
神社の南側が表参道だったみたいで、そちらから出て、東に向かっていった。中国街道はもっと東を北上する道なので。すぐの信号で広い道と交差して、ここは新御堂。このすぐ南で御堂筋から分岐している道。
御堂筋は西寄りに進んで十三筋になり、新御堂筋はこれから先、大阪メトロ御堂筋線を引き受ける。車はごうごう走っていた。
新御堂だけじゃない。そばには御堂筋、すぐ南には曽根崎通(国道1号線)。頭上にも道路が走っていた。
新御堂を過ぎると、盛り場って感じのところだった。怪しい店などがあって、その合間にゲストハウスや味のあるお店もいろいろあった。
歩いていて、コンビニと寺社と信号の多いところだった。そしてこのあたりって、車のマナーの悪いところだったなあ。歩行者がいても一時停止もせずに歩行者より先に角を曲がっていく高級車とかが目立った。
じぐざぐ北東に進んでいった。法清寺(かしく寺)、圓通院(古そう。江戸時代の創建で、同じく江戸時代に再建だって)、龍渕寺(ここは新しい)なんかがあった。
かしく寺って、どうしてそんな名前なのかと思ったら、かしくさんのお墓があるのだって。かしくさんは江戸時代の遊女で、酒乱だったそうだ。兄が見かねていさめると、逆上して思わず兄を殺害。死刑になったんだって。
曽根崎心中と同じく、この事件も劇になって、人気に。かしくさんの墓石をちょっととって煎じて飲むと酒乱が治るとかいわれ、参詣人でにぎわったんだって。
変なことがブームになるなあと感じるけれど、当時は大阪各地の墓地をめぐるのが人気だったりしたそうだからなあ。劇やちょっとしたツアーで、日常から少し離れるのを楽しむ時代だったのかな。
龍渕寺の西側の道を北上するのが四国街道だったみたい。
けれどもう少し東に神社があって、まずはそちらに行ってみた。
堀川戎神社だった。29代欽明天皇(継体天皇の息子)のとき、蛭子を祭ったのだそうだ。元は富島にあり、祀ったのは止美連だって。
富島というのは、前に歩いた能勢街道で、中津にあった富島神社あたりかな。島というだけに曽根崎と同じく島だったのだろう。
止美連は豊城入彦命(10代崇神天皇の息子)の子孫らしい。
吹田街道を歩いていると豊津駅(阪急千里線)近くに垂水(吹田市)ってところがあり、そこでは弥生時代の頃から垂水氏の祖が住んでいたのだろうって話だった。その垂水氏も豊城入彦命の子孫ということだった。
豊城入彦命の子孫が止美村の呉(中国かな?)の女性を娶り、その子孫が欽明天皇のとき、止美連の名をもらったとかなんとか。
戎神社のそばには榎木神社もあった。地車を本殿としているみたいだった。
ここから北西に、四国街道に戻っていった。
低湿地だった感じの残るところだった。墓地があり、野崎公園があった。公園でブランコに乗っていたのは、韓国語でしゃべる青年たちだった。
公園からライフの方向に進んでいった。途中の車道の、思い切り車の通り道に木が残されていた。車道の真ん中にある木をよけて車は通らないといけない。「龍王大神」とあった。
道路をつくるにあたり、邪魔になる木を切ろうとすると事故が起きたりして、結局残されることになった木々がけっこうあちこちに残っているのだって。ここもそうかな。
信号を渡ると右手に寺が、前方には太融寺が見えた。
太融寺の東の道を北上。ここが四国街道のようだった。