第十三話 レノンの根源―5 (レノン7歳&???)
朝、日も上らぬ時間。
泥沼から引き上げられるような感覚で、レノンはまぶたを開いた。
ユグはずっと手を握ってくれていた。手のひらに感じる暖かな感触が、心の淀みを取り払ってくれているようだった。
レノンはユグを起こさないように、そっとベッドを抜け出す。目をつぶっても歩けるほどに、すっかり慣れ親しんだ家の中を歩いて外へ出た。
活動期中の森はぼんやりと明るかった。
玄関からニ三歩進んだ先で、裸足になって目を閉じる。
大地を覆う苔の脈動や、植物に通う水の音に耳をすませるのがレノンは好きだった。精霊の森、そのすべてが見えているように感じるからだ。
でも知ってしまった。
どんなに世界が狭かったのか。どんなに世界が広いのか。
到底及びもつかない強さの前には、萎縮すら起きないことを知った。
でも。
「守ってもらってばっかりじゃ駄目だ。精霊を守りたい。期待に応えたい!」
一度気付いてしまえば楽だった。あとは目指すもののために進むだけ。
例えこの道が楽ではないとしても、惰性で日々を過ごすより遥かにいい。
いつかこの森で育った意味を、自分なりの答えを、見つけたいと強く願う。
レノンは目を開き、前を見据える。
その決意に呼応するように、さわりと、森が少しだけ揺れた。
「レノン、か?」
声をかけてきたのはノームだった。
彼は目を瞠るようにしてレノンを見た。
「こんな時間にどう……、いや、聞くのは野暮か。眠れなかったんだろう?」
「うん」
「俺も人のことは言えない、か」
「……うん」
ノームはレノンの隣に腰を下ろす。それに倣ってレノンも座った。
二人はしばらく黙っていた。
世闇に舞う羽虫、くぐもって聞こえる動物の鳴き声。そして、時折聞こえてくる誰かの微かな囁き。
精霊の森だけの、心地よい夜の音に全身の感覚を預けていれば、いつの間にか空は白んでいた。
ノームはそっとカーテンを引くように、沈黙を破った。
「なぁ、レノン」
「……ん」
長時間喋らなかったからなのか、レノンの声はかすれていた。あるいは、緊張しているのだろうか。
小さな膝を抱え、静かにノームの問いを待っていた。
「レノンは、どこまで知ってるんだ?」
「…………」
何を、とは聞かなかった。
それは、ノームとユグのこと。そして、オノウムとユトネのことだと、直感的に悟ったからだ。
レノンは浅く息を吸った。
「知ってるよ。でも、知らない」
矛盾した言葉。
その真実を知っているのに、知らないでいるという決意。けど、何故彼らは正体を隠し続けるのか、その理由を知りたくないというわずかな反抗。
レノンの瞳の奥は、これ以上に多くの思いを湛えているように見えた。例えノームでも、複雑な心情すべてを推し量ることはできなかった。
「そうか……」
ノームはあえて深く追及しなかった。
レノンはきっと覚悟を決めた。それだけは、はっきりと分かったからだ。
「ねぇ、ノーム」
「なんだ」
「俺、いろんなことが知りたい。もっと強くなりたい」
「ああ」
「そのためには、ここを出なきゃいけないと思うんだ」
「……!」
まさかレノンからそんな言葉が出てくるとは思わなかった。
確かにレノンなら、この出来事を乗り越えてくれると思っていた。そして、精霊の力になりたいと考えるだろうことも。
しかし、なら尚更精霊のそばにいたいと思うものじゃないのか。
あまりにも早急な発言に、ノームが危うさを感じていると。
「だからさ、これから十年、俺を今まで以上に鍛えてほしいんだ」
「っ! レノンお前は……」
否。レノンはさらに前を見据えていた。
(ああ、私は今、心の底からこの子が歩む道を見たいと思っている。願わくば、その果ての景色を共に……)
静かに闘志を燃やすレノンだったが、いつしかこっくりこっくりと船をこぎ始めた。
やがてレノンはノームに寄り掛かるように眠ってしまった。
「今はゆっくりおやすみ、レノン」
地平線から顔を出した太陽が、森を大地を白く染め上げてゆく。
ノームは新たな世界への黎明を、穏やかに眠るレノンの姿に感じたのだった。
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転章Ⅰ 1 ???、九歳
わたしは森の茂みに隠れながら、ひたすら機会を待っていた。
握りの部分がボロボロになった弓を構え、決して集中を切らさない。
「あと一年で、冒険者に……!」
誰かの役に立ちたい。立たなきゃいけない。
もう少しだ。十歳になれば冒険者になれる。冒険者になれば、より多くの人を助けることができる。
約束したんだ。それにわたしには……。
「だめだよわたし、集中しないと」
目を閉じ短く息を吐いて、解けそうになった緊張を繋ぎとめる。
そうして逸る気持ちを抑えていると、ついに目当ての獲物が姿を現した。
そいつは、まるで敵などいないかのように悠々と森を歩いていた。背中には不気味に光る大きな瘤があり、瘤のせいで安定しない重心を支えるためなのか、体幹や筋肉が異様に発達している。
通称ハンプベア。冒険者すら殺す、強力な魔獣の一種だった。
わたしは冷静でいるために、あえてハンプベアを視界に捉え続けていた。
全長はわたしの二倍以上あるかもしれない。普通の大人をゆうに超す大きさだけど、これでも若い個体だと町の人は話していた。
ドスッドスッと大地を押しつぶすような足音に、息が浅くなる。
しかしここで負けてはいられない。
わたしは弓を引き絞り、ハンプベアが茂みのすぐ目の前まで来るのを待つ。
そして……。
「かかった!」
突如ハンプベアの体が地中に埋まる。
古典的な落とし穴だ。しかし、油断していた相手には抜群の効果を発揮してくれる。
「この近さなら……!」
わたしは引き絞った弓から矢を放った。
穴から抜け出そうと暴れるハンプベアに、矢は一直線に飛び……。
狙いやや外れて、目の少し上に突き刺さった。
ガアアアアアアアアアア!!!
森に怒りの雄叫びが響き渡る。当たり前だ。気分良く歩いていたところを邪魔されただけでなく、急所を掠る怪我を負わされたのだから。
わたしは急いで次の矢を番える。ここで確実に目を潰しておかないと勝ち目は無いからだ。
そして弓を構え、今度こそ狙い通り矢を放とうとした、その時。
ハンプベアの瘤が見たことのない輝きをし始めた。
「っ……」
これが、聞いていた特性。わたしは竦む足を無理やり叱咤させ、ハンプベアについて調べたことを思い出す。
ハンプベアは魔法を使うが、体内に留めておける魔力量が極端に少ないらしい。そのため、体外にまで飛び出た魔力保有器官を作り出した。それがあの瘤だ。しかし今度は瘤のせいで体のバランスが悪くなってしまった。その致命的な欠陥を補うために体幹を発達させ、今の姿になったらしい。
だけどどうしても俊敏な動きはできないし魔法の発動も遅い……、だったよね。
そう自分に言い聞かせ、震える手で弓を引いた。
「おねがいっ!」
乱れて飛ぶ矢。
輝きを増す瘤と暴れるハンプベア。
めちゃくちゃな矢筋を描いた矢が運よく目玉に当たったのは、ハンプベアが魔法を発動する直前だった。
グアアアアアアアアアアアアア!!!
「きゃああ!!」
地面が大きく揺れて、わたしは茂みから弾き飛ばされた。
担いでいた矢をばら撒きながらなんとか体制を立て直す。
目を潰されて魔法の発動は不完全なはず。なのにこの威力。
「はぁっ、はぁっ」
怖い。全身が震えてる。思考もまとまらない。今すぐ逃げたい。
でも。
わたしは立ち上がって奴のほうを見る。
片目から血を流し、荒い息を吐いてこちらを睨むハンプベアを真正面から見据える。
グルルルルルル……。
両者膠着の中、わたしは腰にさした短剣と、背中に背負っている切り札の状態を確認した。
……大丈夫みたい。いける。
「ふぅっ!」
矢筒に残っていた一本の矢を急速で番える。
状況は一気に動き出した。
ハンプベアがこちらへ猛然と駆け出した。
わたしは頭を狙って矢を放つ。
ハンプベアは腕で頭を守る。
それを見るや否や、今度はわたしが奴に向かってゆく。
腕で視界が遮られている今がチャンスだった。
「やああぁぁぁ!!」
短剣を抜き、もう片方の眼球めがけて振りかぶり……。
森の中に不気味なうめき声が響き渡った。
>>>
2
その日の町は、とある話の話題でもちきりだった。
誰もがその異様な光景を目の当たりにし、ひそひそと小声で言葉を交わす。
自分から近づこうとする者など、誰一人としていなかった。
「お前あれ見たか」
「見たよ。思わず呆然としちまった」
「ガハハ! 嘘つけ、てめぇ腰抜かしてただろうが」
「おい、急に入ってくるな! あんなの見たら誰だってそうなるだろうが!」
「腰抜かしたのかよ。だせぇな、はっは」
「うるせぇ!」
「ガッハッハ! なぁに腰抜けはてめぇだけじゃねぇさ。守衛なんか失禁したって話だぜ」
「そりゃそうだろうな。薄暗がりからぬっとあれが出てきたら失禁なんてもんじゃない」
「けっ! こんなの続けられたら心臓が持たねぇよ」
「おいこら飲んだくれ共。さっさとどきな。ここはあんた達の家じゃないんだよ」
「金払ってるんだからもう少しいいだろ!」
「出てかないんだったら力ずくで追い出すよ!」
「ガハハ。おい怒らすとやばいから出るぞ」
日々の話のネタとして消費する者。
あるいは危機感を募らす者。
「やっぱりおかしいわ! 普通じゃない!」
「お、落ち着いてください。今回のことはきっと偶然で……」
「偶然!? そんなわけないでしょう! 血だらけでひどい臭いをさせて! 自分の何倍もある魔獣を運んでいたのよ! あの子はきっと魔物だわ!」
「どうか子供のことを魔物呼ばわりするのは、やめてください」
「町の子供がみんな怖がっているの! それがわからないの!? ……ああ、そうよね、あんた達は所詮孤児院のはぐれものだものね。あくまで白を切るつもりなら、いいわ。人数集めて領主に訴えてやる」
「ど、どうかそれだけは……!」
誰の目から見ても非常識極まりない出来事だった。
だからと言って、みんながみんな声高らかに拒否を叫んではいない。
だが結局のところ、肯定が多くても声が小さくては届かないのだ。
「ねぇ、またなの?」
「ああ。だが今回ばかりは笑い事じゃねぇよ。なんせ運んできたブツがブツだからな」
「な、なんなのよ。私そろそろ怖いわ」
「聞いて驚くなよ。あのハンプベアだとさ」
「う、うそ。ありえないわ。あんな小さな子供が」
「見た目はちんちくりんでも、あと一年で冒険者になれる年だぞ。だからといって異常なのは変わりねぇけどな」
「あなた少し嬉しそうじゃない?」
「馬鹿言え、そんなわけないだろ。あんなのは俺らみたいな凡人が触れていいモノじゃないのさ」
「さりげなく私も凡人にしないで。あとやっぱり嬉しそうじゃない」
今回の件は、小さな町の一時的な話題にとどまらなかった。
けして爆発的には広がらないが、様々な憶測を付けて、細々と噂は広がっていく。
いつか来る、別れと出会いの日まで。