第十一話 レノンの根源―3 (レノン7歳)
腰に提げた鞘に剣を納めた男は、ユグの問いに反応せず、森の結界に目を向けていた。
「驚いた。さっきの少年の姿が見えなくなってしまった。外からは中にいる生物は見えないようになっているのか」
驚いた、と言っておきながら、何を考えているのか分からない表情で男は頷いている。
ユグは斬られた腕を押さえながら、無表情のまま、もう一度同じ質問をした。
「お前は、何者だ」
すると、男は初めてユグを見た。
その瞳の奥は、なんの感情の動きもなく、ただ凪いでいるようだった。敵意も気迫も、ちょっとした体の動きすら読めない。
かといって、生気の無い目をしているわけでもない。
精霊をして、全く測れない相手だった。
男はじっとユグを見つめ、答える。
「私はニールグ。先程斬った、ひずみの魔物を追っていた。あなたこそ何者だ? 人ではないようだが」
「何故人ではないと?」
「少年も一緒に飛び出してきたから、斬るものを指定した。私の攻撃は人間の体を傷つけないはずだ。しかし、あなたの腕は斬れた」
「……」
黙るユグを意に介した様子もなく、ニールグと名乗る男は話を続ける。
「あなたは精霊なのだろう? しかし驚いた。いつから精霊は人間を飼い始めたんだ?」
ユグはピクリと眉を動かし、その言葉を否定した。
「確かに私は精霊だ。だが、あの子供は人ではない。人に限りなく近い、別のものだ。お前が得意気に説明した、攻撃対象を指定できるというのも万能ではないらしい」
外部にレノンの存在が知られるのはまだ早い。そう判断したユグは、この後さらに、私達の造り出した最高傑作、ホムンクルスだと説明した。
「そうなのか。実は私自身、先程の少年が人間だとは思えなかった。私の剣も時には間違いを犯すらしい。しかし、精霊とは予想以上の力があるようだな」
斬るものを選べるという能力を否定されたニールグがどんな反応をするのか分からなかったが、案外あっさりと引き下がった。
自分の力に絶対の自信を持っているタイプではないようだが、表情が読めないので憶測に過ぎない。
「そうなると、あなたたち精霊は人間ごっこでもしているのか? ますます興味深い」
ニールグはじろじろとユグの体を眺め回している。
しかし感情が読めないからか、好奇の目で見られているという感覚もなく、嫌悪感もなかった。ただ、冷めもせず熱くもならない、ひたすら常温の瞳をぐるぐると動かしているのは、少し不気味に感じた。
「そう捉えてもらって構わない。話は終わりだ」
即刻立ち去れ、とユグは言外にそう告げる。
幸いニールグは空気の読めない男ではなかったようで、質問をしようと開きかけていた口をつぐんだ。
「そうか。残念だ」
そう言ったニールグは初めて人間らしい表情を見せた。
僅かに眉を下げる彼は、心底残念がっているようだった。
しかし感情を表に出したのはこの一瞬だけ。すぐに表情を平坦に戻してしまう。
「では失礼する」
ニールグが踵を返し歩き始めたのを見て、ユグは腕に走る激痛に顔をしかめた。
これほどの肉体的な痛みを感じるのは、初めてのことだった。
「ああ、そうだ」
ふとニールグが振り返る。その動作は緩慢で、今までの気味悪さは何だったのかと言うほど、読みやすい動きだった。
その間にユグは表情を取り繕う。が、激痛に耐えているのを見透かされ、さらに頼んでもいない施しを受けているのは間違いなかった。
わざわざ時間をかけて振り向くニールグに、内心イライラしながら(しかし反抗するのもバカらしいので)お望み通り、痛みを無表情の裏に隠してやった。
「何なの?」
下手な気遣いに、大人の対応をしたはずのユグだったが、さっきまでのしかつめらしい態度はどこへやら、苛立ちのせいで口調が戻ってしまっている。
表情は平静を保っているものの、腕の痛みと相まって、素を誤魔化しきれていなかった。
その余りにも人間らしい感情の豊かさに、ニールグは数瞬固まってしまう。
(初めて言葉を交わした時から変だと思っていたが、精霊とはここまで人間の模倣をするものだろうか。それも一朝一夕では成し得ない完成度で。彼らにとっては人間も動物も魔物も、全て平等の存在のはずだ。精霊は特定の何かに、長期的な興味を示さないと思っていたが……。いや、それとも数年やそこらで彼らを変えてしまうほどの何かがあったのか? いやしかし……。おっとこれ以上は後だ)
終わりそうにない長考を理性で無理矢理抑え、イライラを募らすユグに返事をする。
「……いや、私の技を欺いたホムンクルスだが、精霊の森の外に出すつもりなら気をつけろ。もし人間を傷つけるようなことがあれば、その時は斬る」
「ふん、逆もまた然りね。あんたたちがあの子を害するなら、うっかり人間を滅ぼしてしまうかもしれないわ」
「ふっ、面白い精霊だ」
ニールグが表情を変えずにそう言ったので、ユグは挑発と受け取ったようだった。
「私は本気だ。にんげ、ん?」
常人なら卒倒してしまうような殺気をたぎらせ、ニールグに言い放つ。
だが、その言葉は彼に届くことはなく、虚空に消えていった。
すでにそこには誰もいなかった。
「何だったのよ、もう……」
一気に緊張が切れ、行き場を失った怒りは霧散してしまった。
同時に鋭い痛みが体を襲い、どうにか繋いでいた意識はぷつりと途絶えてしまう。
そして力の抜けた体が地面に触れた瞬間、ユグは切り飛ばされた腕と一緒に跡形もなく消えた。
黒い影、ニールグと名乗る謎の男、精霊たち、そしてレノン。
彼らの邂逅は決して偶数ではない、そんな予感を残して森は再び静かになった。
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見慣れた天井。精霊の魔法か、燐光のような仄明かり舞う部屋でユグは目を覚ました。
「うっ、つぅっ」
起きた途端、刺すような痛みが右腕の肘辺りに走る。見ると、腕は綺麗に元通りになっていた。
しかし脳裏によみがえるのは、斬られた時の生々しい感触。それを思い出す度に、幻肢痛が襲ってくる。
魔法で怪我が治っても、こうして苦しんでしまうのは精神の問題。
いつからこんなに弱くなってしまったのか。
いや、弱さを受け入れたのか。
魔法ではどうにもならないことで悩むようになったのは、きっとレノンが来てから。
そう考えると、この痛みも愛おしく思えてくるから不思議だった。
「ユグっ!」
体を起こしてぼんやりしていると、開け放たれていた扉の方で、誰かの声がした。
その人物はユグが何よりも先に無事を確認したかった人物であり、精霊たちに多くの感情を教えてくれた張本人だった。
「レノン」
レノンは持っていた木の桶とタオルを放り出し、こちらに駆け寄ってくる。
そのまま抱き付こうとしたが、ユグが腕をさすっているのを見て、喜びから一転、悲痛な面持ちになった。
「腕、痛いの?」
「ううん、大丈夫よ。精霊が治してくれたから」
「でも……」
「そんな顔しないで、ね?」
ユグはレノンの頭を撫でる。
しばらくそうしていると、今までせき止めていたのか、レノンの瞳が涙で濡れ始めた。
涙は溢れて頬を伝い、床に染みを作ってゆく。
「ごめんなさい、おれっ、まだ行けると思って、端っこまでいっちゃってっ」
「うん」
「ユグの腕が斬られたとき、ユグがしんじゃうんじゃないかってっ!」
俯いて、堪えるように泣くレノンを、ユグは優しく抱きしめた。後悔に飲まれそうな心を温めるように。
「私はここにいるから。レノンを残して居なくなったりしないよ」
レノンはユグの胸に顔をうずめた。そして、まだ幼い手を懸命に背中へ回し、ユグの服をぎゅうっと握る。
「うぅーーっ!」
ついに堤防は崩れ、心の奥から感情が溢れ出した。
それは後悔や安堵、仄かに灯った決意。巨大な感情のうねりは涙となって、肌や服を濡らして行く。
レノンはしゃくりあげるように泣いていた。
「よしよし」
ユグは愛しい我が子が泣き止むまで、いつまでも頭を撫で続けた。