紫色の官吏
黎明への言伝は完了したので、戸部に向かうべく足を動かす。基本的に後宮との境は疑われてはいけないという理由もあって静かだが、朝廷側に戻った瞬間、何やら官吏が走り回っているのが見えた。
「……あれ?」
しかも、走り回っているのは、知り合いばかりである。知り合いというか、秘書省の官吏というか、自分の部下たちである。
「さ、喰蘭台侍郎!」
「何か問題でも?」
「礼部から戻って来た書類を棚に戻そうとしたら、その一帯の書類が足りないことが分かったんです!」
礼部から戻って来た書類、というのは、先程私が秘書省に送り届けた前年度予算のことだろう。そして、保管されていたのは他の予算と同じ場所。予算は年度順に、各部署ごとに一部ずつ纏めて置いてある。
「王さんは!?」
「既に対応に当たっています」
「少監は」
「現在、所用で朝廷にいらっしゃいません……」
「すぐに私も戻ります」
秘書省は全部で八十八名。そして、現時点で最高責任者である秘書少監はいないので、残り八十七名。そして、時点で地位が高いのは私と同僚である王さん。二人で、残り八十五人に指示を出さないといけないのである。
「王さんは、精神的に強いとは言えないのに……」
王さんは、良くも悪くも優等生である。真面目で、目の前の仕事に真摯に取り組み、頼まれごとは少々無理をしても引き受けてしまう、そんな人物だ。そして、非常事態にはあまり強くない。
「王さん、状況はどうですか?」
「ああ、魄啾殿……」
既に死にそうな表情である。顔色は真っ青を通り越して土気色である。戻ってくるのが遅かったか、と後悔している暇もなく、目の前で力なく立っていたはずの王さんが膝から崩れ落ちた。
「王さん!」
「書類の管理を任されている身として、何たる不覚……」
「今回の件の原因究明が先です。しっかりしてください」
そう、精神的に打ちのめされると、こんな感じになってしまうのである。自分の失敗ではないのだから、もう少し気楽に行った方が人生が楽だとは思うが、考え方を変えるのはとても難しいので取り敢えず放っておく。
「貸し出し者名簿は其処に置いてあります……。今日は、鍋、葱を……」
「貸し出し名簿は机の上。今日の夕飯は鍋。帰宅時に葱を購入。覚えました」
既に限界を迎えているようなので、一旦仮眠室に連れて行くように指示をする。王さんを運んでくれている官吏から、すごく微妙な目で見られたのは気のせいだと思いたい。
「喰蘭台侍郎……」
「大丈夫です。今からは私が指揮を執ります」
「いえ……、いや……、はい」
とても歯切れの悪い返事だったが、最終的に肯定されているので大丈夫だろう。貸し出し名簿を見て、秘書省に最近訪れた人物や、どのような書類を貸し出したのかを確認していく。
中書省の侍郎は貸し出し記録があるが返却済み、門下省は直近の貸し出し記録なし。予算編成に直接的に関わっている部署ではないので当然だろう。そして、三省の最後の一つ、尚書省の欄を見て、ため息をついた。
「……これは、殆ど全ての部署に行く必要がありそうですね」
礼部は先程回収してきたので大丈夫。しかし、財政担当の戸部に人事担当の吏部、軍事や武官の人事担当の兵部、司法担当の刑部に、土木事業担当の工部。それぞれ貸し出しの記録がある。御史台の方は大丈夫そうだ。
「ど、どうすればいいですか?」
「借りた人物の官位で割り振りをします。順に行き先を言いますので、呼ばれたらすぐ行動するように」
「「「はい」」」
緊急事態なので、一刻も早く確認を取っていく必要がある。雑な対応を避けるためにも、借りた人物より少し官位が上の人物を割り振っていくのが効率的か。
「まずは、筆匠から……」
王さんから託された貸し出し名簿を見ながら、それぞれに仕事を割り振っていく。そうしているうちに、残りの部署は一つとなった。
「……後は、吏部か」
「私が行きましょうか?」
声を掛けてくれたのは、秘書丞。自分より一つ下の官位の人物だ。しかし、残っているのは六部の一とも呼ばれる吏部の、侍郎なのである。流石に彼には荷が重いだろう。
「大丈夫です。私が行くので、王さんが意識を取り戻し次第指示を仰いでください」
自身の仕事机の上から筆と紙を取り、各部署に貸し出した書類の状況を確認に行くように指示をしたこと、晩御飯の鍋の為に葱を買って帰ることを忘れないようにと書置きをしておく。
「吏部に行ってきます」
「はい、わかりました」
走り回っている部下たちに言うと、ちらほらと返事が聞こえる。何かあったら王さんを叩き起こしてでも問題にあたって貰うしかない。できる限り早く戻るべく、吏部へと足を進める。
「……折角、早く帰れると思ったけど」
後で、雅亮兄さんには謝っておいた方がいいだろう。そう思うと、足が少し重たくなったような気がした。
吏部。一番忙しいのが戸部なら、一番権限を持っているのは吏部と言われる部署である。私が用事があるのは、その中でも二番手の吏部侍郎。しかも、出身もいい相手だ。
「すみません、秘書省の喰魄啾です。釖侍郎はいらっしゃいますか?」
この発言、雅亮兄さんの所に行った時と同じだな、とは思うものの、相手が知り合いではなく完全に初対面の人物である。緊張で心臓が痛い。
「侍郎は執務室にいらっしゃいます、どうぞお入りください」
「ありがとうございます」
既に退朝する準備をしていた官吏が此方に気付き、案内をしてくれる。侍郎に与えられている執務室の前まで案内すると、そのまま廊下の方へ向かって行った。定時退朝とは羨ましい限りである。私はいつ帰れるだろうか。
「蘭台侍郎の喰魄啾です。入室してもよろしいですか?」
「どうぞ」
入室許可は得たので素早く室内に入ると、整理された机の向こう、椅子に背を預けて煙管を盆に置いた人物と目が合う。一つに結った長い紫の髪が目立つ。
「初めまして。釖義蘭という」
「喰魄啾です。お会いできて光栄です」
釖家は、普段関わりがいないが、四家の一つである。目の前にいる美女と見紛う美貌を持った青年が名乗った名前は、そんな家の跡取りの名だ。そもそも、煙管なんて高価なものを所持している時点で、力を持っていることは間違いないが。
「秘書省なんて珍しい部署から、どんなご用件で?」
「貸し出し申請のあった書類が戻っていませんので、ご確認を」
長話をしている場合でもないので、手短に用件だけを伝えると、相手は首を傾げた。
「既に部下を使いに遣って書類は返却したはずだが?」
「記録の限り、返却がされていないのですが……」
貸し出し簿を写したもの、貸し出し日、借りた人物と実際に訪れた人物の欄を見せる。返却日も、返却に来た人の名前は埋まっていない。つまり、仕事を頼んだ部下は秘書省に来ていないという事だ。
「……こちらの手違いのようだ。すぐに頼んだものに確認する。期日は何時だ?」
「本来は本日ですが、今回の件の緊急性を考えて、本日中にお知らせ頂けるのなら明日で構いません」
「わかった」
誰に頼んだのかもわからない状況で、聞いたところで仕方がない。此処に留まるよりは、秘書省に戻った方がいいだろう。この部屋は少し煙たいので長時間留まりたくない。
「それでは、失礼します」
「ああ。悪かったな。また」
最後の言葉が気に掛かったが、四家同士で関わりがあるという事だと思ことにして吏部を出る。戻ったら部下たちの結果を確認しなければいけない。含みのある言い方をした釖侍郎に、なんとなく嫌な予感を感じながら、気のせいだと思うことにした。
次回更新は3月15日17時予定です。