官吏と女官
突然、黎明から送られてきたであろう矢踏みを握りつぶした雅亮兄さんに、どうかしたのかを尋ねると、笑顔で手紙を見せてきた。
『長男坊へ。賢妃様の服が裂かれてたんだけど、針と糸も使い物にならなくなってたから同じの頂戴。かしこ』
「これ、どう思う?」
「公的文書でないとはいえ、流石に簡潔すぎるというか……」
一応、四家の後を継ぐであろう人物に対して、結構無礼なのではないだろうか。今此処にいない従妹の顔を思い浮かべ、ため息をつく。黎明と雅亮兄さんも従兄妹同士なので問題が無いのかもしれないけれど。
「全く、あいつは……」
「それにしても、賢妃様の服を裂くなんて、後宮は怖いですね」
「針と糸を含めて、器物損壊罪で訴えてやってもいいと思うが」
賢妃というのは、皇帝の妻の中でもかなり上位の人物である。相手の名前が書かれていないという事は、予想はついていても断定はできていない、という状況だろう。疑わしきは罰さない政治体制なので仕方のない事だ。
「矢文で送ってくるということは、緊急案件なんだろうけど」
「雅亮兄さんは今から忙しい?」
「今貰った予算案も検討しないといけないからね」
残念ながら、戸部侍郎は暇ではない。自分が仕事を増やしてしまったこともあるので、少し心苦しい。
「……取り敢えず、針と糸が今日中に手に入れば問題ないなら、誰かに借りる?」
「誰が持っているかもわからないのに?」
確実に所持しているのは同じ後宮の女官だが、誰かの手によって針と糸が駄目になったのなら、借りられるような相手も同様の被害にあっている可能性が高い。
「敵対関係にある人は、貸したりしないでしょうし……」
「借りたところで、逆に窃盗の疑いを掛けられる可能性もある」
二人で考えた結果、後宮とは関係のない人物から針と糸を借りるか、貰うのが一番確実だという結論に達した。
「知り合いで、裁縫道具を常に持ってる人……」
「……心当りが一人だけある」
「奇遇ですね、私も一人あります」
条件に当てはまる人物を考えると、頭の中にとある人物が思い浮かぶ。ほぼ同時に雅亮兄さんも思い浮かんだようだ。多分、思い浮かべている人物は同じだろう。
「麗孝は?」
「私も麗孝なら持っていると思う」
躳麗孝、躳家の次男であり、雅亮兄さんの弟である。年は私より一つ下の幼馴染だが、私が出仕し始めてからは顔を合わせる機会が激減した。面倒見のいい性格であり、兵部に所属している。
「裾が破れたりしているのが気になるからって、持ち運んでるはずだよ」
「なら、私が一回兵部に寄ってから後宮に行った方がいいかな」
久しぶりに麗孝に挨拶だけでもしておこうかと思ったが、雅亮兄さんは首を横に振る。何故だろう、と首を傾げると微笑んで説明をしてくれた。
「いや、黎明に直接行かせた方がいい。どんな針が必要かもわからないし、魄啾が態々行く必要はないよ」
「わかった。黎明に伝えてくる」
取り敢えず、朝廷と後宮の中間地点にある門まで行って、黎明を呼び出すのが確実だろう。取り次いでくれる女官が近くにいることを願いながら、戸部侍郎室の扉に手を掛ける。
「ああ、魄啾。戻ってくるまでには仕事を終わらせておくから、一緒に帰ろう」
「ありがとうございます、雅亮兄さん。行ってきますね」
去り際に言われた言葉に笑いながら、ゆっくりと扉を閉めた。大きな音を立てると他の官吏が驚いてしまうだろうから。さて、今日の門番は誰だろうか。
後宮との境の門まで来て、横に置いてある小さな鐘を鳴らす。後宮側に気付いてもらうためだ。基本的に門の鍵は後宮側にあるので、此方から入るのは大変困難な造りになっている。
「すみません、伝言役として参りました。喰蘭台侍郎です」
どなたかいらっしゃいませんか、と鐘を鳴らす合間に大きめの声で言う。しかし、見張り役が近くにいないのか、それとも眠っているのか、中々門が開く様子はない。
「尚服の頓宝林にお取次ぎ頂けないでしょうか」
黎明は、女官の中でも一番上の位である宝林だったはずだ。誰か気付いてくれないかな、と思いながら声を出し続ける。黎明との血縁関係は知られているので、面会に問題はない筈なので、追い返されはしないと思いたい。
「どうしよう……」
小声で呟くと、重たい音を立てながら、ほんの少しだけ門が開く。そして、僅かな隙間から特徴的な根元は桃色、毛先にかけて白くなっている髪の毛が見える。
「はーちゃん……、私何かしたっけ……?」
赤色の目を不安そうに向けてきたのは間違いなく従妹の黎明だ。何故か怯えているような様子だが、何かした覚えはない。
「黎明、流石に此処でその呼び方は……」
はーちゃん、というのは幼い頃からの愛称だが、女性だと知られてはいけない状況でちゃん付けで呼ばれるのは少し不安がある。というか、女官として仕事中なのだから、相手が知り合いでも対応は変えてはいけない。
「……取り敢えず、用件を先に伝えておこうか」
「針もうできたの!?あの長男坊性格はともかく……、というか性格以外完璧すぎない!?性格以外は!」
「黎明、言い過ぎだよ」
「確かに完璧は言い過ぎたね」
言い過ぎなのは完璧という部分ではなくて、性格に関する言い方について訂正してほしかったのだけれど、黎明には伝わらなかったようだ。
「それに、針は発注しても数分で完成するものではないよ」
「性格悪いのは否定しないんだねぇ……」
性格が、悪いという訳ではないと思う。ただ、完璧かと言われると人間らしい所もあるというか、結構意地が悪い事をするときもあることを知っているので、何とも言えない。この会話は此処で終わったと判断し、仕切り直して用件を伝える。
「針の今日中の発注・納品は難しい為、代替案の提案に来ました」
「わぁい、はーちゃんありがと~」
「はーちゃん呼びは禁止、って、聞いてないか……」
恐らく、黎明の頭の中で何かしら考えていて、つい言葉が出てしまったという感じだろう。ありがとう、以降に関して会話していると思わない方が良さそうだ。その証拠に、私の発言への返事はなく、一人で百面相をしている。
「あの糞緑頭が……」
「本人に聞かれたら、また怒られるよ」
黎明は突然握っていた矢を握りしめ、真っ二つに折った。ばき、と乾いた木の音が響く。恐らく脳内で雅亮兄さんのことでも考えているのだろうが、本人に知られたら更に怒られるのでやめた方がいいと思う。
「……ごめんね、用件極限まで手短に言うとどうなるの?」
「すぐに針はできないから、麗孝に借りてほしい」
先に主題を伝えてから、具体的に借りるための手順を説明しないと、黎明は文章が長くなればなるほど話を聞かなくなる。
「兵部にいるから、裁縫道具を借りに行くといい、と雅亮兄さんが」
「……また嘘?騙された?一枚噛んだ?どっち?」
「麗孝なら常に裁縫道具を持ち歩いているから、今回は嘘ではないよ」
黎明も、従兄の性格はある程度把握しているだろう。雅亮兄さんのことは信じられなくても、面倒見が良くて比較的自分に優しい麗孝のことなら信じてくれると思いたい。
「あー、うー。うん、……ソダネ」
恐らく、雅亮兄さんの情報という点と、麗孝の性格を考えた結果、持っているという情報を信じることにしたんだろう。考え込まないと信じてもらえない程、信用が無いのは自業自得なので放っておくことにする。
「それなら、私は戻るけど、兵部の場所は分かる?」
というか、黎明は兵部まで行って大丈夫なのだろうか。一応、妃嬪ではなく女官だけれど、後宮の女という時点で外の男と合えない可能性はある。
「……矢文は」
「流石にやめた方がいいと思うよ。誰かに言伝を頼もうか」
後宮と朝廷を行き来できる人物は限られている。妥当なところで行くと、文官の中でも伝言役とか、将軍職を持っている人とか、後宮に家族がいる官吏くらいか。
「後宮に家族がいる人か、後宮に出入りしても問題ない偉い人、知ってる?」
黎明に条件に合う人物の心当りがあれば任務完了だ。伝言を待っている間に時間が過ぎてしまう事は心配だけど、火急の用件だと伝えれば大丈夫だろう。
「うん!知ってるよ~」
「良かった。他に何かないなら帰るね」
「大丈夫!」
黎明が元気よく返事をして、心当たりの人物を捜しに後宮の方へと走っていったので、私も戸部に戻ることにする。黎明の行動は少し不安だけど、多分大丈夫だと自分に言い聞かせた。
次回更新は3月8日17時予定です。