魄啾の仕事
書類の管理は秘書省の仕事。他の部署が忙しい事も理解しているが、貸し出しの延長手続きなどの正式な手順を踏んでもらわないと困る。先程、伯璃に報告に来たのは六人いる筆匠の一人で、地方の出身だ。
「……私に声を掛けたという事は、相手は恐らく、身分が上だろうな」
地方出身で、秘書省の中でも一番下の立場である。他の部署に行っても丁寧な対応をされないどころか、邪魔だと追い返された可能性が高い。その点、自分なら大丈夫だろう。
「……失礼します。秘書省の喰魄啾です」
「喰蘭台侍郎、どうかされましたか?」
「礼部司に貸し出した、前年度の衣冠に関する書類の返却をして頂きに来ました」
出てきたのは、どうやら礼部の中でも下っ端の官吏だったようだ。礼部の中には、礼部司、祠部司、膳部司、主客司という四司があり、それぞれ郎中と員外郎という判官がいる。今回用事がある礼部司は、礼学・儀式・衣冠を担当している部署だ。
「今、礼部司の担当を呼んできます」
「お願いします」
貸し出しの申請者は、確か礼部司の郎中だった筈である。官位だけで考えると、礼部のトップである礼部尚書と二番手の礼部侍郎以外は地位が下だ。筆匠と違って追い返されることは無いだろう。
「丁郎中」
「……喰蘭台侍郎。態々お越しくださり、ありがとうございます」
呼ばれてきた人物、丁郎中は丁家の三男だったか。返却期限を忘れる程度には仕事が忙しいらしい、随分と顔色が悪い。他の礼部官吏たちも忙しなく働いているので、筆匠は用件を伝える前に追い返されたんだろう。
「忙しそうですね」
「ええ、まあ、科挙の方が」
「そうでしたね」
ちなみに、国で一番大きな試験である、役人登用試験の科挙の学術試験は礼部が担当している。科挙の時期になると大変忙しいのである。
「それで、ご用件は」
「前年度予算の記録の返却をして頂きに来ました」
「……もう少しだけ待っていただけますか?」
もう少しで、書類が必要な部分の仕事が終わるので待ってほしいと言われ、この後の仕事の予定を思い出す。今日の蔵書の整理は終了しており、他に返却の延滞もないので時間はある。
「……散らかっていますね」
「片付ける時間もなく……」
丁郎中の仕事机は、お世辞にも綺麗とは言えない状況だった。書類が大量に並べられており、字を書くための空間だけは辛うじて確保してある、という感じだ。
「……今年度予算ですか?」
「っはい、あの、返していただけますか?」
机の一番端、乱雑に置いてあった中に、今年度の後宮の衣服に関する予算案があったので、それを見る。が、記入してある数字がおかしい。
「……前年度に比べて、大幅に増えていませんか?」
「覚えているんですか?」
前年度の予算を覚えていることに対して驚かれるが、予算が会議で読み上げられた時に聞いているし、貸し出し前に書類を一度見ているので内容は大方記憶している。記憶力を買われて出仕しているのだから当然だ。
「今回貸し出した書類に書いてある額より倍以上増えています。余程の理由が無ければ、戸部に申請しても通りませんよ」
「そう、ですよね」
「出費が増えているのは、九嬪の衣服ですか……」
「若い方が多いので、仕方がないと思っていたのですが」
「それにしても額が多いですね」
予算などの管理をしているのは戸部という部署である。他にも担当している仕事は多いが、この国において、お金のことは殆ど此処が担当している。その為、最も多忙な職場と言われることも多い。
「私も、上からの指示でこの額で申請しているだけなので……」
「一度、金額の理由の確認を取ることをお勧めします」
「そうします」
下っ端は、上司が無理難題を押し付けてきても断れないことが多いのだ。今も真っ青な顔をして仕事をしているというのに、戸部にダメ出しをされる為に行かせるのは流石に可哀そうだろう。
「……この後、私は戸部に用事があるのですが、よろしければ書類を持って行きましょうか?」
「そんな、良いんですか?」
直接、金額について文句を言われるよりも、間接的に書類で言われる方が気持ちが楽だろう。そう思い提案すると、暗闇の中に光が差したかのような笑顔を向けられた。
「恐らく却下されるでしょうが。それでいいのなら」
「いいです。お願いします……」
戸部ならば、知り合いというか、幼馴染もいるので行くこと自体は結構気楽である。何度も頭を下げてくる丁郎中に気にしないでと伝えつつ、返却された書類を持って礼部を出る。
「……秘書省に戻ってから行った方がいいかな」
焦っていた筆匠の為にも、先に返却が完了したことを伝えた方がいいだろう。それならば、戸部に寄ったら帰宅してしまおう。恐らく、戸部にいるはずの幼馴染が車に乗せてくれるはずである。
戸部の扉の前に立ち、控えめにノックをする。一応、身分的には此処に来ることは問題ない、のだが、中から鬼気迫る雰囲気を感じるので、堂々と入る気にはならない。
「……躳侍郎はいらっしゃいますか?」
暫く待っても返事がなかったので、扉を少し開けてから声を掛ける。すると、一番近くの席のだろう背の低い官吏が返事をくれた。
「奥の部屋にいらっしゃいます」
「ありがとうございます、入ってもよろしいでしょうか?」
「入室前に名乗れば、大丈夫かと」
予算案を持ってきたんです、という事を示す為に彼の前に書類を出して見せると、奥の部屋を指さされる。お礼を言おうかと思ったのだが、また予算が提出された、と呟きながらその官吏は席に戻っていった。
「……そっか。仕事を増やしに来たようにしか思えないか」
この予算案が提出されれば、他の部署から出された予算案との調整をするという仕事が発生する。仕方のない事だが、忙しい時に更に仕事が追加されて喜べる人間は殆どいないだろう。
「躳侍郎、秘書省の喰魄啾です。入室しても良いでしょうか」
「どうぞ」
心の中で戸部の官吏達に謝りつつ、侍郎に与えられている執務室の扉を叩く。すぐに入室許可が下り、扉を開けると、山のような書類に埋もれた幼馴染がいた。
「……雅亮兄さん、大丈夫?」
「大丈夫に見えるなら目が節穴だと思うよ」
「新しい予算案。礼部から」
「却下」
「早いよ」
扉を閉めるなり、若干嫌みの混じった返事をしたのは四つ上の幼馴染、躳雅亮。四家の一つ、躳家の長男で、毛先に向かって暗くなっている緑色の髪が特徴的。血は繋がっていないが、小さい頃から兄さんと呼べと言われているので呼んでいる。
「空気が悪いし、換気するよ?」
「頼んだ」
数字に強い為、皇帝陛下に頼まれて戸部に出仕をし始め、スピード出世をして仕事も大量に増えた人である。正直、出世するよりは適度に暇な仕事が良かった、というのが最近の口癖だ。
「外、すごい良い天気なのに……」
「薄暗い執務室で悪かったね」
淀んだ空気を入れ替えるために窓を開けると、青い空が見えた。遠目に後宮の建物が見える。そして、鳥のさえずり、ではなく、空気を裂くような鋭い音が聞こえる。
「……っ!?」
「……朱塗りの矢だね。あの白桃頭が寄越した矢文かな?」
反射的に窓から離れたお陰で避けられたが、直撃すると怪我では済まない威力であることを、壁に深々と刺さった矢が物語っている。朱塗りの矢は、従妹の黎明がよく使うものであるから、差出人は間違いなく黎明だろう。
「……矢で寄越すなと言いたいけれど、取り敢えず内容を確認しようか」
「そう、だね」
文が括り付けられた矢を壁から引き抜き、文を雅亮兄さんに手渡す。壁の修繕費ってどうするんだろう、と思いつつ、様子を伺っていると、紙を握りつぶす音が静かな部屋に響いた。
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