二つの記録
一代前の帝は、今の皇帝の祖父にあたる人です。
崩御した際に、皇帝の父親が後を継ぐと誰もが思いましたが、先帝直々の指名により、一代抜かして今の皇帝が即位しています。
皇帝の父親は良くも悪くも穏やかな人の為、特に気にせず隠居生活をしています。
とはいえ、一応皇帝の父親を先帝と呼ぶことになっており、影響力は少なからずあります。
出鱈目な予算案が可決されてしまえば、政治が混乱する。内心焦りつつ会場を見渡していた時、目が合った張さんに微笑まれた。なんというか、とても心強く感じる笑顔である。
「恐れながら、発言しても宜しいですか?」
「張秘書監か。許す」
柔和な笑みを崩さずに、張さんが陛下の前に出る。陛下もすぐに許可を出すと、張さんは頭を下げた。細中書侍郎は邪魔をするなと言わんばかりの目を向けているが、陛下の許可が下りているので口を挟むことはできない。
「予算の作成も重要でしょう。しかし、それ以上に重要な事案がございます」
「なんだ」
「秘書省において、昨年度以前の予算案が貸し出したまま戻ってこないのです」
その瞬間、会場中がざわめいた。大半は知らなかった事実が明らかになった驚きだろう。が、中には自分たちの書類管理が問い質される焦りも含まれている。
「それは由々しき事態だな。予算案が無ければ、正確な予算は作れないだろう」
「はい。ですので、先に此方の件を話し合っていただきたいと……」
「そうだな。では、細中書侍郎。悪いが予算の決定は後に回すが、よいか?」
「……陛下の仰せのままに」
一度、細中書侍郎が下がる。これで議題を変えることはできたが、このままだと管理能力不足という事で張さんが責められないだろうか。心配していると、予想通りすぐさま声を上げる人物がいた。
「そもそも、秘書省の管理体制に問題があるのでは?」
「そうだ、長官もだが、侍郎が経験不足過ぎる」
言いたい放題だ。確かに、私も、もう一人の侍郎である王さんも若手である。だが、正直なことを言うと、そんな経験不足な人材を高官に任命しないと回らないくらい人材がいないのだから仕方がない。
「……同じ経験不足の私が言うのも憚られますが、まずは貸し出した予算案のことについて話した方がよろしいのでは?」
「今、話を中断してでも推したい優れた人材がいるなら是非とも吏部に紹介してくれ」
暫く好き放題言われていたが、それを止めたのは雅亮兄さんだった。続けて釖吏部侍郎も口を開く。名門四家、次期当主二人の発言に殆どの官吏が口を閉じる。張さんは思わぬ援護に目を丸くしたが、すぐに柔和な笑みを浮かべて言った。
「お二人とも、ありがとうございます。では、続けさせていただきます」
張さんは行方不明となった書類について調べていると、最近辞職した官吏に行きついたことを報告する。現在は官吏の実家に確認の書簡を送っており、返事を待っている情況だという事も。
「そうか。それにしても、確かに近頃、辞職する官吏が増えたようだな」
「除目を前にして、降格の発表をされるよりは辞職した方がいい、と思ったのでは?」
陛下の側仕えが最近の辞職者に関する詳細な書類を手渡す。顎に手を当てながら書類を確認した陛下が呟くと、官吏の一人が気にすることはないでしょう、という風の発言をする。陛下の注意を逸らそうとする意図が丸見えである。確か名前は段官吏、門下省の人だったか。
「だが、今迄にない事態であることは確かだ。調査が必要かもしれんな」
「御史台の出番ですか?」
「それも考慮しておこう」
御史台、という単語が挙がると同時に、細中書侍郎の肩が跳ねた。基本的に官吏を裁く立場である御史台を恐れるという事は、背後にやましい事を隠しているという事だ。筆を休める間もなく書き込んでいく。
「調査の際に必要ならば、早馬を使っても構わない」
この早馬というのは、特別なものだ。関所を無視して通ることができ、他のいかなる理由でも止めることはできない。皇帝直々の許可なしに使う事は出来ない、この国で最速の情報伝達手段である。
「陛下。何も、そこまでなさらなくても……」
「いや。細中書侍郎が言った通り、予算を早くから考えることは重要だ。その為の協力は惜しまない」
「は……」
少し焦った様子で細中書侍郎が陛下に言うが、真剣な表情で自分の主張を持ち出されると反論できなかったようだ。そのまま、今回の朝議では予算を決めることはせず、秘書省に全ての書類が戻ったことを確認してから、例年通りの手順で行われることが決定した。
「大分長引いてしまったな。今日は終わりとしよう」
そして、秘書省への責任が言及されるより前に、陛下は外を眺めてそう言った。確かに、普段の報告と決定だけが行われる朝議に比べて随分と長引いている。次は辞職した官吏の情報が戻ってきたら朝議を開くことにし、解散する。
自分の思い通りに進まないまま、朝議が終わった時の細中書侍郎の顔は歪んでいた。
朝議後。陛下に指示されているものは今日中に届ければ良いと言われているので、張さんたちと一緒に秘書省に戻ろうと思っていると、扉の横に陛下の側仕えが立っていた。会釈だけして横を通り抜けようと思ったが、声を掛けられる。
「喰魄啾様。陛下がお待ちです」
「……はい」
案内されたのは朝議の前にも通された待機室。既に中で陛下が飲み物を飲みながら待っている。入室して頭を下げると、無言で机を指さされた。
「……今日中と仰っていませんでしたか?」
「もうできているだろう?」
その通りだが、今から誤字脱字がないか確認をしようと思っていのだ。早く置け、と手で催促され、しぶしぶ机の上に紙の束を置く。
「流石だな。期待通りだ」
「お褒め戴き光栄です」
「で、発言者は?」
「事前の資料と殆ど一致しました」
細中書侍郎と、それに同調した者。今回の朝議を申請した人物の一覧と名前は殆ど一致した。数名、事前の書類には名前が無かったものの、細中書侍郎に同意した人物もいるが、其方は最後の紙に名前を控えてある。
「まあ、十中八九、細中書侍郎を中心とした横領を企む官吏の仕業だろうが……」
「何か他に問題が?」
犯人も動機も分かっているのだから、後は証拠を集めるだけだ。と思っていると、陛下が深いため息をついた。まだ何か問題があるのだろうか、と聞くと、頭を抱えて唸るように言う。
「細家は、後宮の権力が大きい。義母や異母姉達に何と言われるか……」
「確か、先帝陛下の側室に、細家の方がいらっしゃいましたね」
細家は後宮に女性を送り、皇帝の寵愛を得ることで力を付けてきた一族だ。今の代の後宮にも細充媛が入っているし、先帝の代にも細家の女性は後宮で力を持っていた。先帝は既に崩御しているが、先帝の寵を得た女性たちの影響力は完全にはなくなっていない。
「それが、細中書侍郎の姉だ……」
「……それは、大変、ですね」
後宮のことは陛下に解決してもらうしかないので、これ以上何も言えない。助言を求めるような目を向けられても、官吏が後宮に関与することは基本的に禁じられているのだ。
「魄啾……」
「無理です。私は官吏です」
「…………伯璃ならどうだ?」
「無理です。妹は体が弱いですから」
都合のいいように人を動かそうとしてくるのを、全力で拒否する。ただでさえ名前も家族構成も偽って朝廷に入っているのに、後宮の方の面倒事を押し付けられるわけにはいかない。
「……黎明がいるでしょう」
「ああ。頓家の長女か」
黎明の名前を出すと、陛下は納得したように何度か頷いた。黎明には悪いが、後宮に出入りできるのは彼女位なのである。陛下はすぐに黎明に指示を出すべく筆を取った。
「……では、私は報告も終わりましたので、退出させていただきます」
「ああ」
他のことを頼まれる前に部屋を出る。出ようと扉を押し開いた瞬間、開かなかったもう一つの扉の方に、朱塗りの矢が勢いよく突き刺さった。
次回更新は5月3日17時予定です。