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アーモンドの呟き  作者: 瀬戸真朝
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後輩に惹かれている暇なんてアラサーにはないのに

 お守り代わりに、その名を呟く。


 阿門、あもん、アモン。声には出さずに舌に乗せて転がしてみる。二回、三回。


 それはまるで、アーモンド入りのチョコレートのように溶けてしまいそうな響き。まだ見慣れていない廊下でも、口の中に残されたアーモンドみたいに音もなく静かにその名は跳ねる。


 木目を基調にした明るい色の壁が続く。カーテンもなく窓いっぱいに日差しが届くせいか、春なのに蒸し暑い中を歩くときも、気が付くといつだって口にしている。


 阿門なんて珍しい名字だ。彼以外に見たことがない。私の阿門は、たった一人。


 見慣れた漢字が並んでいるし、画数もそんなに多くない。あ、で始まり、も、で飛び跳ねて、ん、で止まる心地よいリズム。何度呟いても、それこそどう呟いても、私にとって甘美なもの。それが阿門。


 本当にアーモンドだったら、早く噛んでしまったほうがいい。そのほうが香ばしいに決まっている。だけど誰ともすれ違わないからって、いつまでも転がしてしまう。


 阿門。




 彼の名を口にするのは、決まって仕事をしている最中だ。不思議と、この春に入籍した夫のことは思い浮かばない。その代わり、家にいても阿門とは口にしない。たとえ声に出さずとも。


 おかしいな、彼の存在が嫌で転職したと言っても過言ではないのに、新しい職場で呟くのがその名前だなんて。


「どうしたの? ぼうっとしてる」


 一人分の光で照らされた薄暗い流しに立っていると、いつの間にかキッチンの扉の前に夫がいた。近づく夫に慌てて「おかえりなさい」と声を掛ける。大柄の夫を見上げた途端に後ろから抱きしめられた。


「うん、いい匂い。君の匂いがする」


「ちょっと。今、包丁持ってるんだけど」


 私の髪や首元に唇を這わせ、纏わりつく夫。帰ってくるといつもこうだ。これが新婚家庭なのか。だとしたら屋台のあんず飴の中に入ったみたいだ。ブラックコーヒーが好きな私には甘すぎて身動きが取れない。しかしそれは不快ではない。水飴の中で溺れてしまえばいい。


 三歳も年上の夫と、大学で先輩後輩として出会ったのは十年近く前のこと。こうして甘えてくると幼く見えるが、勤務先では上から数えるほうが早い。


 まな板に包丁を置き、振り返ってその厚い唇に触れる。

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