第10話 盲目の戦神
エイワズはすっかり、普段通りの日常に戻っていた。
民会にも進んで顔を出す。
誰もがその日常を待ち望んでいたようだ。
ただ一人を除いては……。
「全く、何を思い悩むことがあったのかしら。最初からこうしていればよかったのよ」
ベオークは晴れやかな笑顔で、昔より家事をやるようになっていた。嫁がよく働くので触発されたのかもしれない。
何でも聞いてと言わんばかりに振舞うが、最終的には妹頼みのところは一向に変っていないがいい傾向だろう。
孫、アルジズが立ち上った祝いには金と銀だけで作られた邸宅を彼のために準備した。
細工に関しても人一倍口を出して、最終的には金ぴかになった。
まだ、歩き始めたばかりの孫はあちらこちらで滑っては転び、泣くを繰り返したのでフッラが管理しなくてはならない館が増えただけであった。
「み……磨き甲斐がある館ですわね」
と言っていたのだが、伸縮自由自在の掃除道具をニイドに提供され、楽しいかどうかの部分は私には判断がつかないが、毎日磨いていることだろう。
それ以外は特に変わったようには感じなかったのだが、私の目は身近であればあるほど節穴になってしまっていたのかもしれない。
エイワズの弟、ホズは世界の姿も知らぬ生まれながらの全盲であった。
それがエイワズの悪夢が終った頃より、何を思ったのか体を鍛え始めたのだ。
やりたいことが見つかったのかと、私と妻は微笑ましく見守っていた。
その動機を知るにはエイワズが求婚をする前に遡ることになる。
ホズ求婚を受けてもらったととても、喜んで私とベオークに報告をくれた。
相手は愛らしい声をした心清き女神だという。
私達夫婦は『兄の結婚が決まったら、その婚約者を紹介してほしい』ということをホズに伝えた。
エイワズの結婚を私たちは『ホズのためにも急いでおくれ』と伝えた。
そんな時、エイワズはとてもうっとりした顔をして。
『偶然とても美しい女神の湯浴みを見てしまった。彼女は独身なのに、とんでもないことをしてしまった』
という内容を話し、責任を取って結婚せねばということをしきりに言うようになった。
しかし、私には責任より一目惚れをして責任・責任と言い続けているのが透けて見えていた。
ベオークも嬉しいのか呆れているのか笑いを浮かべて。
『あのエイワズが一目惚れをするとは……何でもできる子だとは思っていたけれど、誰かさんに似てしまったのか恋愛だけは不得意なのね』
私達は口を出さないように彼の動向を見守った。
エイワズはたくさんの女神にどんな求婚がいいものか?聞いて回り、試行錯誤をして求婚をしたようだ。
女神ラーグは最初は『私には、思い人がおりますので』と断られ、『自分には魅力がない』と落ち込んでしまった。
アンスルガルドではあのエイワズの求婚を断る女神がおるとはと、それはもう話題になったものだ。
弟ホズは、自分の結婚のためにも兄を励まし、兄は何度も何度も女神に求婚を繰り返した。
ラーグが結婚を誓った相手はのらりくらりと結婚の時を先延ばしにしていたため、ラーグはとうとうエイワズの求婚を受けたのであった。
結婚式の日、花嫁となったラーグの声をきいたホズは取り乱し、式の途中で姿を消ししばらくアンスルガルドへは戻ってこなかった。
二つの季節が過ぎ、ホズはふらりとアンスルガルドへ戻ってきた。
私達夫婦は『無事に兄の結婚が執り行われたので、婚約者を紹介してほしい』と話をしたのだがホズはいった。
『あの天使は、向こうの世界に行ってしまったのだ』
それだけ答えて、抜け殻のようになっていた。
婚約がなくなってしまったのだろうと。
結婚に対してのタイミングの難しさに結婚の女神であるベオークは深い溜息をついた。
私と妻がその『ホズの天使が誰だった』のかを後になって知り、順番にこだわったことを更に悔いた。
そのことを思い悩んだラーグが事の次第を告白したのは、アルジズを授かってからのことであった。
こんなことは、そうそうあることではない。
何者かが仕組んだことなのではないだろうかと、しばらく周りを疑って歩いたものだ。
ホズは生まれながらに多くを持たず、切望したたった一筋の光をも失ってしまったのかもしれない。
その光を奪った兄エイワズは、あらゆるものを持っていた。
「一つくらい、一つくらい譲ってくれてもいいじゃないか」
ホズは小さい頃、そのセリフをよく言っていた。
それなのに、一筋の光を失ったあのとき、彼は一言も言わなかった。
言ってくれた方が私たち家族の心はずいぶんと楽になったかもしれない。
しかし、あの子は今もその辛さと戦い続けている。
それを見て過ごすラーグもまた、ときおり辛そうにしておる。
エイワズはそれを知らない。
知らせないでほしいというのがラーグたっての願いであった。
そして、ラーグはエイワズが死んだときは必ず自分の命も捧げることを己の運命に刻んだ。
これ以上、ホズの心を傷つけないために。
賢くはないかもしれないが、天使のように本当に繊細で清らかな娘だ。
特に濁流のような激しさや強さを感じさせることもあるが、エイワズやアルジズと過ごすラーグは本当に作り上げたように穏やかだった。
そして、数年が経ったある日……穏やかな日々はあっさりと終わりを告げる。
『エイワズ様とラーグ様が亡くなりました』
ホズは久しぶりに笑顔を取り戻した。
とても、とても悲しそうな笑みだった。
『私は、やっとわかった。私は、天使のために笑っていなくてはいけなかったんだ』
ホズの見えない瞳は何を見ていたのだろうか……。
神々は二人の死を嘆き悲しみ、ベオークは『息子がいない世界をどうやって生きればいい?』と泣きはらした目で私を見る。
私はすぐに冥界へ足を運ぶことにした。
「ニイドの息子エオーよ、冥界から私の息子エイワズを連れ帰るため、お前の力を貸して欲しい」
エオーとは『馬』のルーンである。
名前のままエオーは馬なのだが、その性質は『速やかな進行』『信頼関係』『障害を超える力』など、正位置で使えば不可能も可能となる素晴らしいルーンの名をもつ馬なのである。
ニイドの願いをその名前に感じ取り、私はその優秀さにかけようと協力を願った。
「もちろんです。出来る限りのことはしましょう。ただ、父に酷いことはしないことを約束してほしい」
エオーは本当に物分かりのいい子だった。
事情の説明など、彼には不要であった。
姿は馬なのだが、その辺の人間よりも自分のすべきことがわかっている。
私は8本足のどんな生き物より速く走るエオーの背にのり、風よりも早く冥府の門へやってきた。
「モーズヘグ殿!モーズヘグ殿はおられるか?」
「あぁ、ひさしいのぅ、アンスールよ。今日はとてもいい顔をしている」
私はモーズヘグに死んでも構わないから、冥府の門を通らせて欲しいと願い出た。
「親友の息子を危険にさらすことはできない。ダエグにアンスールであるとわからないようにこれを着ていくといい」
モーズヘグは予言の通りのことが起こったことに最初は驚いていた。
「名はヘルモーズを名乗るがいい。その名ならダエグに会うことは容易であろう」
私とエオーは冥界の世界を急いだ。
ダガズアントゥルの中は予想している場所とは大幅に違う光景が広がっていた。
イーサヘイムの奥深くにあるのに、その気温は快適そのもので、まるでジェラヘイムのようなのだ。
「まさか、このような……」
「アンスール様も知らないことはあるのですね」
エオーは意外そうに私の驚く顔を見ていた。
「お主は驚いていないようだが」
スピードを緩めるエオー。
「私は生まれた頃、一度こちらに来ておるのです」
そこにいる小さな少女にエオーは頭を深く垂れた。
「お久しぶりです。姉上」
ハガルよりは少し年上くらいの容姿だろうか、顔は神秘的なヴェールに包まれた小さな少女。
エオーの姉……冥府の女王ダエグ。
「あなたがダエグ殿か……おおっ!」
花に埋もれるようにたたずんでいた少女は優しくエオーの頭を撫で、私はあわててエオーの背中から降りて、失礼がないように身を縮めた。
「あまり、かしこまらないで……ヘルモーズさん?かしら?そういうことになっているのね。フフッ」
何か笑われているが、モーズヘグは既に話を通していたのかもしれない。私はペオース以上の緊張感を感じていた。
「突然の訪問、どうかお許しください」
私もエオーに負けないくらい頭を深く深く下げる。
「エイワズとラーグを探しにきたの?」
「すでに来ているのですか?」
首を横に振るダエグ。
「今は死後の旅をしているの。何日間か眠りについて、目が覚めるまではこちらの住人にはならない」
「その二人を元の世界にお戻し頂きたいのです」
「姉上、その方々が亡くなれば、父上の立場があやうくなるのです」
「そう、だけど……ルールを変えることはできないの。エオー。ごめんね」
「ルールですか?」
「そう、ルール。この人たちを憎む人たち全てが死をいたんで泣いてくれたなら、二人はこちらでは眠ったまま。二人は元の世界で目を覚ます」
「この二人を憎む人……?」
「これ以上のことは他の死者を求める生者のためにもできないの。えこひいきな女王では今のバランスは保つことができない」
ダエグは心をつくして言葉を続けた。
「この人たちは恨まれるような生活はしていないから簡単すぎるかもしれないけれど」
思い当たるのは一人しかいない……。ホズだ。
「急いで。あちらの世界では二人の遺体の火葬準備が始まっているわ。燃やされてしまったら彼らはイーサヘイムにいるしかなくなってしまう」
時間はあまりないようだった。死者の世界の空気はとても過ごし良いものだった。
他の部分も知りたいという好奇心はあったが、長居するような場所でもない。
「ありがとう。冥界の女王よ。機会を活かせるよう善処する」
「姉上、姉上は息災だったとアンスルのあなたを思う人たちに伝えましょう」
「ありがとう。エオー、いつかまた遊びに来て。そしてあなたの足で私の会いたい人を連れてきてね」
ダエグはニッコリとほほ笑むと私たちに大きく手を振ってくれていた。
私達はすぐにアンスルガルドに戻ってきた。
「エオーよ。お前の足はこんなにも速かったのか。私の自慢のどの馬よりも速いぞ?」
「褒められたということでしょうか?」
「そうだ、本当に感心している」
「ありがとうございます。私の母……いや、私の場合は両方が父なので産みの父でしょうか?」
「確かにそうなるな」
――まだ少し違和感を感じるが。
意固地になった自分が恥ずかしく思えた。
「あの方々が命を授けてくれたからです」
心の底から温まるような言葉だった。
「親の都合に振り回される子は本当に気の毒だ。私も気を付けていたつもりだったが、忘れたころに傷つけてしまう」
「家族……私にとってはティール神でしょうか?毛並みを整えてくれたり、蹄の手入れも当たり前のようにやってくれています」
――ニイドがこの子と長い間帰らなかったのは、この子の清らかな心を守るためだったのか。
「特に、私の足は8本もありますので、『普通の馬の二倍手がかかる。手のかかる子は可愛い』と言いながら手入れをしてくれるのです」
――ティールよ。そんな状態だから、後妻を断り続けるのか。
私はティールに世話を任せきりな状態を作っていたことに少し責任を感じた。
「彼は世話焼きだからな。お前の兄たちとは義理の親子ともいえるのかもしれない」
私はできる限り言葉を選んだ。
「だからこそエオー殿のことも子供同然にかわいいのかもしれない……とはいえ、私もお主には世話になっている」
「もったいないお言葉です」
「負担を感じているなら私もできることはせねばな」
「あなたはあなたの役割を果たしてください」
「ティールがそこまで熱心に世話をやくのは、お前のことを考えてのことだろう」
「私はただの動物好きかと思っておりました。戻ったら、ティール様にお礼を言いたい」
心が洗われるようだった。
「流石に自力で手入れをすることは片手でボタンを閉めようとするようなことですから」
――馬……だからな。
「お前の気性はニイドというよりは、ティールの方が近いかもしれないな」
「産みの父はすこぶる評判が悪いようですが……多分、不器用なのです」
「私はニイドのことが気に入っている……というか、ベオークの次くらいには好きだと思っておる」
エオーは嬉しそうにしている。
「何がおかしい? 変なことを言ったか?」
「いえ……アンスール殿が父と似たようなことを言うものだから、嬉しくなってしまって」
「似たようなこと?」
「これは秘密にさせてください。父の沽券にかかわるかもしれないので」
「まぁ、そういうことなら聞かないでおいてやろう。私も野暮なことはしたくはない」
「感謝いたします」
私はアンスルガルドに変えるとホズを探した。
事情を説明し、他の神々にも手を尽くして探したが見当たらなかった。
そして、3か月が経ち現れたホズはエイワズとラーグの上で亡くなっていた。
ホズを殺したのは、女巨人リンドとの間に私が産ませたヴァーリだった。
バルドルの死を復讐する者としてベオークが望んでの息子だった。
ホズは目が見えないハンデなど、もろともせず……戦神の一人として最後まで生きようと抗った。
ホズは戦場で負傷した戦士たちの崇める神となった。私はそれを誇らしく思う。
「復讐など……復讐などという愚かな考えに動きさえしなければ……」
私が復讐など望まなければ、このような結果には決してならなかっただろう。
ボタンの掛け違いを放っておいてはならぬ。
それはいずれ大事な日常を奪っていくことになるのだから。
しっかりと情報を集め把握し、必要なら頭などいくらでも地面にこすりつけ謝罪を述べよ。
決して、なんとかなるだろうと事態を侮ってはならない。
悔いがないよう今目の前に起きている現実を受け止める勇気を持つのだと私は人間たちに伝えた。
神々でさえも間違いを犯すのだ。
些細な間違いを隠し立てし、自尊心を優先させるな。
気づいて改めるのが早ければ早いほど、本来行きたかった場所に早くたどり着く。
私はこの経験を沢山の人間たちに伝えた。
正しく広まっていけばいいが、多くの人間が自尊心と幸せを天秤の乗せて自尊心を選ぶ。
プライドなどよりも大切なことを掴み取ることは恥ではない。
プライドで腹は満たされない。
満たされない腹で考えたことなど、ろくなことではない。
悪しき心を持つ者には食事を与えよ。
三人の亡骸を船に乗せ、火葬したあの日……神々はラグナロクの訪れを覚悟した。
きちんと話をしていればよかったのだ。
二人をよく知ろうとしていたら、私は誰も失わずに済んだかもしれないのに。
人間よ、私はお前たちに同じ思いをしてほしくはない。
分かったら、日常を振り返り「やれるはずなのにやっていないことがないか」を確認して貰いたい。
私はそれを欠かさない人間たちに幸福を授けることを約束しよう。
私はダエグが与えてくれたチャンスをふいにした。
そして、ダエグの父は自戒を破りアンスルガルドへ反旗を翻した。
ソウェイルがギャラルホルンを手に取る日は近い。