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論文

先験的形而上学批判

我々から先立つ先験的な存在は、我々を超越したものとして顕現している。

空間や時間、時空と言った存在は我々を取り囲む一種の要素の中の、更なるカテゴリーを包容して存在しているのだ。

西田幾多郎が言った無の境地の前に、分類されるべき要素が幾らかあるのは事実であるし、可視出来ない存在と言えど要素を包括する超越者として成立しているのだ。

それは我々にとって手の届かない所に在るようなものとして多く描かれ、それらのカテゴリーは哲学の中ではイデアや神と呼称されている物に包括されているのだ。

その超越的な要素包括の実存を利用して、あらゆる物を解析しようと試みる。トマス・アクィナスの神の存在証明がその最もな例だろう。

あらゆる物に通じる原理的原子の存在―――其れを見つけることは我々に真なる観方を与えてくれる、そう信じていたのである。


タレスは水、ピタゴラスは数。萬物の根源が一体何なのか、其れを洞察した古代の哲学者は言った。

しかしアナクシマンドロスは「アペイロン」と言う、一種のカオス体に近いものこそ根源だとした。このアペイロンと言う無限な物こそ、最も「超越しているように見える」。

このアペイロンは一種のイデアや神などの形而上学的存在に通じる箇所があるのは言うまでもないだろう。無限なものは無限に萬物を作り出し、やがて帰結する。シンボリックな終焉は形而上学を形作った。

だが、此の場を借りて言わせて貰うと、アペイロンなどと言う例は最も愚かなものである。

例えばアペイロンが全ての根源だったとしよう。萬物は無限から産まれ、無限に帰する。様々な形態や差異を作り出し、我々に認識させてきたとしよう。

其れが何を齎したのか?今を生きる我々にとって普遍的でありながら認識上では形而下とも形而上との呼べる存在――『常識』を生み出した。

常識に沿って生きることが、我々にとって幸福だったとしよう。しかしそれではアペイロンの「やがて帰結する」と言う存在、つまり「死」に幸福を削がれてしまうのではないのか。

逆説的に、常識こそ我々にとって不幸だったとしよう。だがアペイロンは無限から産まれ、何もかもの差異が不幸を生み出したとして、其れは幸せへの渇望を抱かせる事と為る。この時点でアペイロンの「様々な形態や差異」と言う事象にぶつかる。

読者は私の意見を見て、嗤いながらこう言うだろう。「アペイロンが空間や時間、時空の上に本質的架空として成り立っているのではないのか?そうすればアペイロンの産出論と帰結論は正しい」、と。

この意見は最もだと考える。アペイロンなどが先験的な架空として成り立っている仮定を置けば、幸福に対する死への絶望や不幸に対する幸せの渇望は恒等式で結ばれる。

だが、其処には虚弱な点が存在する。『常識』とは、アペイロンが生み出した法規的架空でありながら我々が作り出してしまった自分用の首輪であるのだ。


先験的実存は常識を我々に「当たり前」として締め上げた。今も我々は首に縄を掛けられた死刑囚である。其れに気づかないだけなのだ。

アペイロンが何もかもの産出帰結を執り行う絶対的な真理だとしても、常識は我々に存在価値とは不一致的且つ矛盾なものである。だが本質的架空なら我々の中で収まる。

しかし常識はアペイロンが我々に与えたパズルピースで、我々が組み立てたものである事を知らなければならない。其処に本質的架空は存在するのか?…勘のいい読者ならお気づきのはずである。

此の世界に最早アペイロンなどと言う物が存在していても、常識が全てを壊してしまっては意味が無い。其れを真顔で「萬物の根源はアペイロン―――」などと言えば、常識の否定に為る。「常識は真理が生み出した悪徳―――」そう言えば我々が法規に従って幸福の志向を目指す理論に示しがつかない。

アルパでもありオメガである存在が我々を生み出し、帰結する点として確立されているならば我々は幸福を求める志向の差異を常識で変化させてはならない―――こうなるのだ。

つまり我々が感知するところの超越者の超越者は「存在しない」。この点について、別の観点から証明していきたい。

例えば我々がアペイロンや神を信じていたとする。生まれた場所、帰る場所が同じなら、其処が我々の家でもあり、墓でもある。この際に常識と言う観点を忘れてはならない。

超越者の超越者を信じた者はそれを母なる者として敬い、畏怖するだろう。この敬い、畏怖とは何なんだろうか。もし感情論的にそのような感覚に陥れていたとして、その陥れた主は何なのだろうか。……常識である。

もし感情感覚に判断を委ねずに、元来の存在意義としての価値観に判断を委ねるのであれば、我々は安らかであった。しかし安らかでは無い人間が居る。その人は死を懼れる。結果、死への恐怖が徐々に増幅していく。

自分の死や他人の死を見て、その人は喜ぶ。――よし、これでいいのだ。我々は母なるもとへ再び戻る事が出来るのだ、と。だが敬いや畏怖はそうさせない。これが一種の常識論的な証明である。

再び読者はこれを読んでこういうはずだ、「超越者の超越者を信じているならば、死に恐怖を抱かず、その元へ戻れる事を喜ぶはずである。常識が生み出した敬いや畏怖は幻影にすぎないのだ」、と。

超越者の超越者に関しての論理は正しい。だが、今度は私がこう言わねばなるまい、――――常識は我々が生み出したもので、我々は首に縄を掛けられた死刑囚なのだ。

幻影などでは無いのである。そう言った感情感覚に常識が憚ること無く与えるところの境地はもはや超越者の超越者を嘲笑う原理的な要素……即ち『人格を持った常識のアペイロンや神に対する否定』である。


このガルガンチュアのように肥大化した常識は、あらゆる先験的な存在を悉く無情に否定していく。その足は神をすり潰し、その手はイデアを握りつぶした。鳴動する地面はアペイロンを破壊した。

しかも、此れは我々人間が簡単に操作することの出来る兵器であった。我々は神を殺した。しかし我々は常識と言う巨人を操る対象でありながら潰される対象である事を忘れてはならない。

だから、こう言った「常識は感情感覚に影響を持つ」事は巨人の我々に対する干渉である。身近に居る見えない巨人は、幾多の人影、若しくは数人の人影によって人格化され、存在してきた。

では、萬物の根源は何なのか?…此処まで読んでくれた読者ならば答えられる事を期待しているが、私はこう言う。―――『常識』では無いのだろうか。

しかし萬物の根源が何を以てしても正しい事は無い。この根源が我々に多くの形態や差異を及ぼし、そして破壊しては産み出して来た。神やイデアのような役割をそっと受け持っていたのだ。

だが私はこの常識こそが根源でありながら全ての偽善の発生点であると考える。こやつさえ居なければ、我々は死刑囚に落魄れることなぞ無かったのだ。

そう考えて、私は時間や空間、時空などの大きなカテゴリーこそを超越者にすべきであると考える。また、こう言った常識学の論理を組み入れない先験的形而上学を、私は否定する立場に居ておきたい。

結局、常識と言う巨人が存在しなければ、神であろうとイデアであろうとアペイロンであろうと存在し得た―――つまり常識は一種の哲学的考古学的な手掛かりであった。


この標題を見て、読者は嫌厭したと思う。しかし内容は通俗性を帯びたそのものであるし、私は読者にこれを通じて、アペイロンや神などの実存が如何な物かを伝えられたと思う。

だから我々は常識的なものを嫌厭する立場でおかなければならない。今、標題を改めて嫌厭したことそのものが、常識の一派である事を、忘れてはならない。

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