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伍の巻

「奥さん、約束の月見をしよう」


「ええ、旦那様」


 白猫の間に戻ってきて、旦那様はさっそく月見に誘ってくれました。


「シシー、伍の巻を!」


「かしこまりました!」


 ぴったり息の合った二人のやりとりに、驚愕するばかり。いえ、それよりも伍の巻ってなんですの?!


「リリィ、桃色の夜だよ」


 コクト様の瞳が怪しく光りました。ぞくりとします。旦那様の瞳に捕らわれた私は、体が痺れ動けません。怖い……のに、逃げたくない。


「そんなに、怖がらないで」


 コクト様はふにゃりと笑いました。


「いや、怖がらせたのは私か」


 いいえ! いいえ、怖くなんて……あったけれど、逃げたくはなかったわ。伝わらないもどかしさにまた涙が溢れてしまう。


「リリィが私の気持ちに追い付くまでは、食べたりはしないから。だが、触れることだけは許しておくれ」


 頬にソッと触れるコクト様の手は、なぜか震えていました。


「嫌わないで」


「そんな! 嫌うなど、ありませんわ。だって、だって!」


 こんなに大好きなのに……ああ、もう私ったら、お馬鹿さんね。伝わらないのは、私のせい。コクト様は全身全霊で私を求めているのに、私ったら受けるばかりで、寄りかかるばかりで何も伝えていないもの。声に出していないもの。


「一緒に、ずっと一緒にいてくれるのでしょ? この胸は私の場所なのでしょ?」


 私は自らコクト様の胸に飛び込みました。震えた手はもうなくて、強く抱きしめられました。


「離さないでくださいまし」


「ああ、一生離さないから」


 私の大好きな迷いなく真っ直ぐで力強い声。私の大好きなコクト様。




***




「これは……」


「そう、これが桃色の夜のアイテム。伍の巻『もふもふ桃色着ぐるみ』だよ」


 くらりとめまいが……このめまいももう何度目でしょうか?


「私のは『艶々黒毛の着ぐるみ』だ。夜風は冷えるからね、さあこれを着て月見をしよう。あの小箱の猫たちのように」


 もう、本当に旦那様ったら、面白くて奇抜で……素敵なことを考えるのね。




「奥さんよく似合ってる。私の可愛い桃色子猫ちゃん」


「まあ、旦那様だって。とても雄々しくて高貴な黒猫さんですわ」


 バルコニーに手を引かれます。可愛い猫足のベンチに腰掛けました。


「何かあたたかい飲み物があれば」

「かしこまりました」


 旦那様の呟きにシシーが素早く反応します。旦那様はフッと笑いました。


「さすが、シシーだね」


 私も笑います。だって、シシーですもの。旦那様の笑みがスッと消えて、私を穏やかに見つめております。トクントクンと胸が主張し始めました。見つめ合う瞳は、いつどうやってそらしたらいいの?


「目を閉じて、リリィ」


 コクト様はいつだって答えをくれるわ。私はゆっくり目を閉じました。唇に優しい熱が重なります。もう何度かしたのに、まだ私は慣れません。ううん、きっと慣れることはないわ。名残惜しそうに離れた唇が、もう一度私の頬に熱を与えます。


「リリィ、目を開けて。笑顔を見せて」


 間近に微笑むコクト様のお顔。自分でもわかるわ。私、きっとコクト様と同じように笑っているって。


「ホットミルクをお持ちしました。私はこれにて下がらせていただきます」


 シシーも穏やかに笑んで下がっていった。旦那様と二人で月を見る。手にはホットミルク。フゥフゥしてあげて旦那様に渡しました。


「ありがとう、奥さん」


 ご褒美のチュッをいただいて、私は自分のカップを持ちます。二人でミルクのおひげをつけてクスクスと笑いましたわ。




***




 翌朝、またも旦那様のお手に、さわさわとされ覚醒しました。旦那様ったら、私に頭突きされないよう、私を強く引き寄せ離しませんの。


「だ、旦那様、お離しくださいませ! きゃ、どこをお触りですの!」


 いいようにヤられております。私、反撃しますわ。旦那様の首筋をカプリと噛みました。とたん、旦那様のお手がピタリと止まりましたの。やりましたわ。私の反撃に旦那様は相当の痛手を負ったでしょう。


「リリィ、悪い子だね」


 何でしょう、とても艶やかな声色ですわ。ぞくりとします。痛すぎたのでしょうか? 怒ってしまわれた?


「私がどんなに食べたいか、わかっているのかい? 先に食べられるとは思っていなかったよ。もちろん、食べられたまま、私は引き下がれないよ」


 カプリ……首筋を食む旦那様。とたん、言い様のない感覚が私を襲いました。


「ゃっ!」


 バッと離された体。旦那様は、眉が下がっております。


「すまない、リリィ。猫のつもりだったが、狼になってしまったようだ。不甲斐ないものだ。怖がらないで、嫌わないでくれ」


 コクト様が不安そうに私を見ております。胸がとても締め付けられます。


「嫌ってなどいませんわ。お、狼さんも素敵です。どんなコクト様も素敵ですの」


 コクト様の胸板にすり寄ります。でも、着ぐるみが邪魔をしていますわ。


「コクト様の胸板に触れると安心しますのよ」


「そっか、良かった。もう触れられないかと心配した。いいよ、リリィの好きなように触れればいい」


 コクト様は着ぐるみの胸元を少し開いてくれました。私はソッとそこに体を寄せます。耳にとくとくと届くコクト様の鼓動を感じ、フッと体の力が抜けました。


「リリィ、抱きしめていい?」


「ええ」


 優しい時間です。こんな優しい朝が、ううん、こんな温かな朝がずっと続きますように。




***




「今日はかなり南下するよ。たぶん、どこかで着替えないと暑いと思うはずだ」


 旦那様は馬車の中なのに、私を横抱きにしております。今朝の不安げな旦那様はどこにいったのでしょうか?


「幾つかの町に寄るけれど、休憩だけだよ。馬車窓からの景色を楽しんで」


 旦那様は楽しそう。きっと南方が好きなのね。その顔色が物語っていますわ。照焼肌ですもの。旦那様は見た目通り太陽が似合う方だわ。




 南下するにしたがって、本当に暑くなってきました。旦那様は上着を脱げますが、私は脱げるわけもなく、少々火照っております。


「そろそろ、着替えようか」


 旦那様は外に合図を出しました。近くの町に行くように指示しています。


「セノビールの町か」


 旦那様は馬車窓から町を確認しました。私に向き直りニッと笑いました。馬車が止まります。旦那様は横抱きした私をソッと横に座らせました。旦那に横抱きされて、馬車を下りると思っていた私は、ちょっと寂しくて……いえ、私ったら何を思っているのでしょう。横抱きがおかしいのに!


「奥さん、失礼」


 突如旦那様が視界から消えました。


「え? ちょ、旦那様!」


 旦那様は屈んで私の靴を脱がせ、外のシシーに渡しました。足がスースーして、とても居心地が悪いです。肝屋敷でもないのに、なぜ靴を脱がなくてはいけないの?


「着替えはまず足からさ」


 旦那様は可愛らしい桃色の箱をシシーから受け取り、パカッと開けました。中の靴は見たことのない靴です。爪先や踵の部分がありませんの。


「これはサンダルといってね、南方ではよく履かれているものなんだ。とても足が楽だよ」


 旦那様は私にサンダルを履かせてくれました。足先や踵がなくて涼しいですわ。


「ほら、私も」


 旦那様の足も、従者や侍女らもサンダルというものに履き替えてます。馬車を出ると日射しが暑い。ですが、足は軽やかですわ。そうすると、なんだかドレスが暑く感じます。


「さあ、奥さん。ドレスを脱いでワンピースに着替えよう」


 旦那様に促され、町に入ります。どんな町かしら? ペタンペタンと旦那様のサンダルの音がとても耳に心地好いわ。腕を組んで町に入りました。


 入りました……


 広がる視界……


「セノビール……、ええ旦那様。背伸びるにございますね」と私。


「ああ、実際は伸びていないがね」と旦那様。


「小人の町にございましたか」と私。


「いや、セノビールの町さ」と旦那様。


 見下げた町にとんがり帽子を被った小人さんが、ちょこちょこと歩いております。皆、キラキラした瞳で私たちを見上げております。


「王子様!」


 遠くから一際背の高いとんがり帽子の小人が小走りに近づいてきました。背が高いのはとんがり帽子であって、小人さんはそのとんがり帽子より低いかもしれません。


「やあ、町長さん。着替えに寄ったんだ」


 旦那様は片膝をつきました。王子が膝をつくなど普通ならおかしいのだけど、ここではそれがきっと普通なのでしょう。私も膝を折りましたわ。旦那様は嬉しそうに頷いて私と視線を合わせました。


「私の奥さんだ。奥さん、こちらはセノビールの町長さん」


 旦那様の紹介に私は町長に笑みで応えました。町長さんは足首まで伸びた長いおひげを、肩にくるんと回しぺこりと頭を下げましたの。


『なんて、なんて、愛くるしい生き物なのでしょう! あのおひげを三つ編みにしたら、もっと可愛らしいのに』(リリィ心の声)


「王子様、奥様、セノビールにお越しくださりましてありがとうございます。どうぞ、ごゆるりとおくつろぎくださいませ。ちょうどファーストフラッシュ(新茶)をお出しできます」


 新茶! 背後でシシーがうずうずしています。もちろん、私もうずうずですわ。


「町長、奥さんはお茶が大好きなのだよ」


 旦那様はクスクス笑っております。そんなに私、わかりやすかったかしら?


「奥さん、お茶はセノビールの特産品なのだよ。さ、着替えたら美味しいお茶が待っている。行こう、『蔦屋敷』へ」


 怪しげな屋敷の名前が上がりました。『肝屋敷』の次は『蔦屋敷』ですか。いいのでしょう、私リリィ挑んでみせますわ。




***




「……」


 戦意喪失しました。これは本当にガクブルにございます。渓谷に蔦の吊橋、奥に見える屋敷は蔦で覆われております。魔王でも封印しておりますの? 


 旦那様にすがろうと横を見ます。旦那様は腕まくりをし、なぜか蔦を握っております。何ですか、その蔦は?


「リリィ、見ていて」


 そう言うや否や、旦那様は蔦をがっと引っ張り、駆け足で渓谷に向かっていきました。


「ヒャッホー!」


 渓谷にこだまする旦那様の雄たけび。吊橋のすぐ横を弧を描き飛んでいます。まさか、ターザンがここに現れようとは……


「参ります!」


 ビクンと体が跳ねましたわ。なんと小人町長までも、ビヨーンと飛んでいってしまいました。おひげが舞っております。帽子が落ちないのはなぜかしら?


「リリィ! 吊橋と蔦渡り好きな方を選んでぇ」でぇ」でぇ」


 対岸から聞こえてきた声は、こだましておりました。


「選べるわけないでしょー」しょー」しょー」


 きれいにこだまする私の叫び声と、対岸から聞こえる旦那様の笑い声。私リリィ、こんなに腹がたったのははじめてですわ。

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