こんがり美味しい焼き上がり
目の前の荘厳な扉が開いた。鼓動がこんなに早いのははじめてで、思わず小さく息を吐き出した。
しずしずと歩を進める足は、震えていないだろうか? おかしな足運びになっていないだろうか? そんなことをふわふわした意識の中で思っていると、視界に待ち焦がれた存在がちらりと見えた。
この場ではじめて会う私の王子様。神聖なる誓いの場大聖堂で、やっと貴方に会えるのね。
「フェイン国第二王子コクト・フェインと、レネス国第三姫リリィ・レネスの婚姻を承認する」
婚姻式はふわふわした意識の中で知らぬ間に進んでいたようだわ。神官様の宣言に私は意識を取り戻した。心音がまた主張し始める。
「誓いのキスを」
ああ、このときがきてしまったわ。震える足を何とか動かして向かい合わせに立ったのだけど、ああどうしましょう。顔をあげられない。
王子様の手がベールを優しく持ち上げた。その指先は真っ白な絹の手袋で見えなかった。
「リリィ」
なんて素敵な声でしょう。迷いなく私を呼ぶ声に躊躇はなくて、力強さを感じる。この方はきっと真っ直ぐな方だわ。
うつむく私の頬に絹の手袋が滑り、私の顎を優しく持ち上げた。王子様のお顔が……近づく。
「て、りぃ(やきぃぃぃぃ)」
言葉も唇も奪われて、私はそこから意識を失った。
***
「リリィ様」
この声は、えっと……
「リリィ様」
侍女のシシーだわ。声の方に頭を動かして目を開けた。
「お目覚めですね、リリィ様」
「おはよう、シシー」
ゆっくり体を起こすと、圧倒的な違和感にまだ私は夢の中にいるのかしらと首を傾げた。
「こんな豪華なお部屋、家にあったかしら?」
「リリィ様、まだ寝ぼけていらっしゃるのですね」
シシーはクスクス笑っている。それでも持ったお盆が揺れないのは、さすがシシーだわ。良い香りが近づいてくる。
「目覚めの華茶でございます」
シシーの淹れるお茶は好き。いつも目覚めるとちょうどのタイミングで、ちょうどの温度で出してくれる。
「美味しいわ」
「宜しゅうございます」
これが目覚めの一連の習慣なの。それで、いつものように……
「今日の夢はね、とっても奇妙だったわ。いいえ、悪夢だったのよ。王子様のお顔が若鶏の照焼色だったの。いやだわ、私ったら王子様を熱く想いすぎて、私の熱で王子様は焼かれてしまったのね。コテッコテの照りっ照りに。うふふ」
夢の話をシシーにする。あら? シシーからカチャカチャと音がしている。茶器を鳴らすなんて珍しいこともあるものね。具合でも悪いのかしら?
「リリィ様……おいたわしや」
ねえ、何て言ったの? おいたわしいですって? なのになぜシシーは肩をぷるぷる震わせているの? その笑いをこらえた顔は何なのです?
「私シシー、心を鬼にして申し上げます!」
びっくりするじゃない。そんないきなり大声出しちゃって。思わずカップが揺れてしまったわ。お茶は溢れていないかしら? ソーサーにカップを置こうとして、気づいてしまう。この紋章は、
「これはフェイン国の紋章」
「ここはフェイン国ですわ」
まさかのある意味シンクロね。って、そうじゃなくって!
「フェイン国?」
「リリィ様は、リリィ・フェインになられたのです」
リリィ・フェインフェインフェイン、ああこだましていくわ。頭がふわふわになって、そうよ、ふわふわになって……
「お休みなさい、シシー」
「リリィ様現実逃避しないでくださいませ!」
「いえ、これは夢よ夢なのよ。さあ、寝なきゃいけないわ」
そうよ、このふわっふわのベッドで、すべっすべの肌触りのよい寝具に身を潜らせて、頭を包み込む天使のような枕に落ちて……見えるは豪華な天井。金の紋章が描かれている見慣れない天井。
「フェイン国はリリィ様に最上級の設えをしたお部屋をご用意しておりますね。ええ、夢のようなお部屋でございます」とシシー。
「ねえシシー、目覚めたらきっと婚姻式よね」と私。
「あの素晴らしい大聖堂で、愛を誓ったのでございますね」とシシー。
「見目麗しい王子様とお会いできるのね」と私。
「ある意味見目素晴らしい照かり具合でしたね」とシシー。
「そうそう、本当にこんがり美味しい色でしたわね」と私。
「ええ、本当に美味しそうな王子様でいらっしゃいます」とシシー。
「って、違ーう! シシー、早く夢だと言って!」
ーーコンコンーー
発狂したところで扉がノックされ、シシーは私に構わず行ってしまったわ。
***
「僕の子猫ちゃんは目覚めたかい?」
「コクト様。姫様は夢のようだと申しております」
「ちっちっちっ、姫様じゃないよ。僕の子猫ちゃんさ」
「そうでございますね、もう姫様でなくコクト様の″奥様″にございますね」
ねえ、シシー。さっきもそうだけど、会話が成り立っていないわ。いいえ、そんなことよりも、寒気のする会話だったわ。『僕の子猫ちゃん』『ちっちっちっ』そしてシシーの『奥様』。そうね、ここは入室の許可は出さないでおきましょう。だって寒気がするのだもの。そう、寒気よ。寒気がするって言えば照り……いえ王子も入室を遠慮するわよね。
「シシー、寒気がするの」
「なんと、子猫ちゃん! 僕がいなくて心が冷えてしまったのだね。すぐに温めてあげるよ」
なんということでしょう。寒気を通り越して悪寒が。それに頭痛も。眩暈までしそうよ。まさかと思うけれど、シシー、通したりしないわよね?
「まあまあ、それはそれは。ええ、ええお通ししたいのは山々なのですが、お見舞いの品もないようでは、奥様は悲嘆してしまいますわ」
シシー、ねえシシー。私感動しましたわ。さすがシシー、うまく言い返したわね。
「僕としたことが、なんとうっかりさんなのだろう。子猫ちゃん、待っていて」
バタンと扉が閉まって、シシーが戻ってきたわ。
「うっかりさんは戻ってくるそうです」
「ぶほっ」
吹き出してしまったわ。ふふっ、ご自身をうっかりさんなんておっしゃる方が現実にいるなんて思わなかったわ。もう、私ったらうっかりさんね、てへ。やばいわ、うっかり照焼王子菌に侵されてしまうなんて、リリィ一生の不覚よ。
「さあ、『奥様』ご準備を致しましょう」
「誰が奥様ですって?!」
「さあ、『子猫ちゃん』ご準備を致しましょう」
「嫌よ!」
なんで、スッケスケの寝間着なのよ。シシーったらニヤニヤしちゃって、手に持ったスッケスケを揺らしているわ。あ、いいこと思いついた。
「子猫が服を着るなんておかしいじゃない」
服を着た動物なんて見たことないものね。ふふん、どうかしらシシー?
「あらまあ、新婚ですものね。ええ、ええそれも殿方を喜ばせますね。さすが子猫ちゃんでございます」
はい? 喜ばせますですって?
「寝間着は着ないのでございますね、はい。そうでございますね、人間生まれたての姿ほど綺麗なものはないですね、リリィ様」
「ちょーっと待って! ねえ、シシーそれ、それを着ればいいのね。ええ、私ったら子猫ちゃんでなくて、人間ですもの」
わかっているわよ、まんまとのせられたってことぐらい。私のような未熟な子猫ちゃんが、ベテランシシーに敵うわけないものね。
「まあまあ、お顔の色も桃色の華やかでございますね。寒気はなくなって宜しゅうございます」
こんなスッケスケ着たら羞恥で熱くなるに決まってるじゃないの。ウェディングドレスからのスッケスケ。まあいいわ。ここは仮病もとい発熱ということで入室をお断りすればいいのだわ。
「ええ、寒気はないわ。でもシシーの言う通りちょっと熱があるみたい。ふぅ、熱いわ。きっと風邪ね。うっかりさんには移すといけないから後日お会いしましょうと伝えておいて」
シシーの答えなど待つ必要はないわ。上着をかけてすっべすべの寝具に滑り込んだところで、また扉がノックされた。
***
「奥様曰く、風邪をひいたらしく『″愛するコクト様″に移すといけないから後日お会いしましょう』とのことでございます」
シシー、私がいつ″愛するコクト様″などと戯れ言言ったのよ! でもいいわ、追い返してくれるのだものね。ええ、そこは目をつむりましょう。
「はい? まあ、なんとなくわかります。少々お待ちくださいませ」
あら、どうしたのかしら。シシーの声しか聴こえなかったけれど、うっかりさんは来ているのよね。
「奥様、愛するコクト様がどうしてもお見舞いしたいとのことです」
そんな声聴こえませんでしたわよ? 少し首を傾げたわ。傾げて見えちゃった。でも見なかったことにしましょう。ええ、見ていませんことよ。一輪の赤い薔薇を口に加えたうっかりさんのことなんて!
「奥様、愛とは素晴らしいですね。言葉なくとも姿で伝わりますもの。赤い薔薇は情熱。そして、愛。私シシー、しかと奥様に伝えさせていただきました! どうぞ、コクト様」
ぎゃぁぁ! シシー、何言っちゃってくれてるのよぉぉ。
ーーくるんーー
どうして、ターンしてるの。赤い薔薇を口に加えて、ターン。キラリと光る白い歯。ぞわぞわと産毛が逆立つわ。ベッド脇で片膝を着いて口の薔薇をソッと差し出された。
「子猫ちゃん、どうぞ」
ああ、これが夢にまで見た、王子様が一輪の赤い薔薇を差し出して愛を乞う行為なのね。夢のままなのに、残念感が半端ないわ。
固まってしまった私の代わりに、シシーが薔薇を受け取り花瓶にさしてくれた。ベッドのサイドテーブルに飾られた赤い薔薇を見る。少し嬉しいのは、女ですものね。はじめて赤い薔薇を貰いましたわ。私リリィ、いつだって贈られる花は白百合でしたから。
「ぁりがとうございます」
「どういたしまして、子猫ちゃん」
「あの、えっと……」
こういうときって、何を話したらいいのかしら? 視線を泳がせて、何か話の種を見つけようとした。まだベッド脇でたたずむ王子をちらりと見る。あら?
「手に血が着いておりますよ。怪我をしましたの? シシー、傷薬を持ってきて」
「はんっ、この程度の傷舐めときゃ治るぜ」
何でしょう、口調が変わりましたわ。さっきまでの王子はどこにいったのかしら?
あの真っ白な歯からちろっと舌を出して、傷を舐めた。で、私に流し目。何がしたいの言いたいの? シシーがやって来て、傷薬を差し出した。耳元で、こっそりぼそる。
『これがちまたの男どもの格好いい台詞。そんな俺に、心配な子猫ちゃんが慌てて手を差し出すはずだ。そして、俺は言う……薔薇の棘が刺さっただけさとね。コクト心模様にございます』
「なあに、薔薇の棘が刺さっただけさ」
ひぃぃ。シシー正解よ。でも、『なあに』って前置詞もどきが入っていたけどね。これがちまたの男どもの口調と言うことね。ええ、ええわかりますってよ。
「手を見せてくださいまし。傷薬を塗らねばなりませんわ……コクト様」
うっ、名前を呼ぶのって結構恥ずかしいものなのね。コクト様の『僕の子猫ちゃん』のように代名詞を使ったら良いのかも。『私の狼さん』なんてどうかしら。はっ、いけませんわ。危うく、うっかり照焼王子ときどきちまたの男菌に侵されてしまうところでしたわ。
「いんや、可愛い子猫ちゃんにそんなことさせられねえぜ。男に傷はつきものさ」
コクト様は、そう言って前髪をさらりと掻き分けた。またも、エナメル質の真っ白な歯をキラリと見せて。これ、寸劇でしょうか? コクト様、私はこの茶番にどこまで付き合えばいいのでしょう。またも、シシーが耳元でぼそる。
『まあ、なんと男らしいのコクト様。うるうるキラキラの瞳必須にございます』
そんな台詞を私に言えと言うの、シシー! キッとシシーを睨むのだけど、シシーは明後日の方向を向いちゃってる。もう、私ったら涙目だわ。あら、涙目ってことはうるうるキラキラの瞳ってことよね。いいわ、やってやろうじゃないの。
「ま、まあぁ、なんと男らしいの照り……コクトさまぁ」
一瞬照焼と言ってしまいそうになったわ。
「ああ、子猫……いや、リリィ。これぐらいのこと何ともありません。ですが、せっかく薬を用意してくれたのですから、リリィに塗ってもらおうかな」
やっと、寸劇が終了したようね。最初から塗ってほしいと言えばいいじゃない、まったく狼さんたら恥ずかしがりやさんね。
ーーぬりぬりーー
男の人の指ってゴツゴツしてるのね。それに大きいわ。
「リリィの手は白百合のように真っ白だな」
ええ、いつも言われておりましたわ。その次はこう言うのでしょ? 『この白い手を私が温めてあげましょう』とね。そう言って皆、ダンスに誘うのだから。
「リリィ、白すぎる。おっと、そういえば寒気がすると言っていたね。体が冷えているんだろう。無理をさせたね。体を温めなきゃいけないよ」
あらまあ、お優しいのね。
「さあ、ベッドをつめて」
「え?」
「ほら、人肌が一番良いからね」
ちょっと、待って。どうしてこうなるのよぉぉ。シシー、助けて!
「では、私は下がらせていただきます」
「ああ。灯りは一つだけでいいから、他は消してくれ」
ど、どうしよう。まだ心の準備ができていないのに。パタンと扉が閉まって二人っきりになってしまった。灯りも一つ。ゆらゆら部屋を照らしているわ。光沢のある寝具がさっきまでと違って、淑やかに光と影のコントラストを見せている。
ふわりと空気が動いた。寝具が体から少し離れたのがわかって、視線を上げた。そこにコクト様がいる。ベッドに座ったコクト様が。
「リリィ、つめて」
とても甘く優しい声。躊躇のない真っ直ぐな声。あの婚姻式と一緒だわ。
「触れていい、リリィ?」
ドクドクと心臓が波打っている。答えたくても、答えられない。だってもうコクト様の手は私の頬を撫でていたのですもの。
不定期連載ですが、次話は明日2/7(火)更新します。