第九話 御堂サキ「隙があったら殴りましょう」
身体が熱い。吸い込んだ空気が酷く冷たく感じる、そして吐き出した息が燃えているように熱く感じる。
脳が灼ける。頭がまるで燃えているように感じる。全身の皮膚が痺れてる、全身の血管が激しく脈打っている。
楽しい? いや、違う。何か違います。じゃあ、気持ちいい? それもしっくりきません。私の身体を突き動かすこの衝動はなんでしょう。
人を殴った事なんてありません。ましてや武器を使うなんて考えた事もありません。ただ数日前の事、山田さんの家で初めてメリケンサックを貸してもらった時、その金属の塊が無性に愛しく思えた事を覚えています。
メリケンサックを握り直し、その感触を確かめます。握りこんだメリケンサックが自分の手のひらにも食い込んで、その刺激を繰り返し味わうために、何度も拳を握り直してしまいます。
私は一体どうしてしまったのか。深きものを後ろから殴り倒し、そのままサラリーマン風の男に襲いかかる。呆然と私を見ていたサラリーマン風の男の顔面に、メリケンサックをめり込ませる。
ゴキャッという鈍い音が響いた後、サラリーマン風の男は崩れ落ちて動かなくなりました。そのままホームレス風の男へと駆け出しました。
人の殴り方なんて知りません。ただ握りこんだメリケンサックを振り回すだけ。どんな振り回し方がいいのでしょう。少し試してみましょうか。
ソフトボールのピッチングのように、大きく腕を縦に振り回し、そして顎を目掛けて打ち上げる。ホームレスの顎が、ゴキンと音を立てて砕けたようです。悲鳴のような泣き声を上げるホームレスに対して、メリケンサックをつけていない左手で殴る。
あ、これはダメだ。何がダメだったのか、分かりません。ただ力が一点に集まりません。拳を握るのって難しい……。
両手の手首を軽く何度も曲げてほぐしてみます。どうも拳が命中した瞬間、手首辺りから力がそれているようです。もう少し手首にしっかりと力を入れて見ましょう。
私を見て泣きながら何かを懇願するホームレスにもう一撃。顎が砕けていたので、彼が私に何を願っていたのかは分かりません。とりあえず殴っておきました。
背後で大きな音が響き、後ろを振り返ると山田さんが深きものに一撃加えていたようです。思わずサムアップ。親指を上に突き立てて山田さんを称えます。そう、武器は使ってあげましょう。その方がきっと武器も喜びます。
山田さんもサムアップ。さあ、まだ残っていますよね。周囲を見渡すと、残りは後二人。サウナスーツを着込んだスポーツマン風の人。なかなか強そうです。それと、どこかで見た事のある人。この人はなんか既に怯えきっていますね。とりあえず放っておきましょう。
スポーツマン風の人と向き合います。相手は緊張した面持ちでいわゆるファイティングポーズを取りました、結構格好いいですね。早速真似してみました。
バカにされたと思ったのか、小さく唸りながら殴りかかってきました。いえ、多分殴られました。正確には何をされたのか分かりません。突然頭部に衝撃がやって来て、世界が歪んで見えました。でも不思議と痛みがありません。流れ出る鼻血が熱い。親指で鼻の穴を片方だけふさぎ、思いっきり吹き出す。鮮血が服や地面に飛び散って、呼吸が楽になりました。そしてもう片方の穴をふさいで、もう一回鼻血を吹き出す。
気のせいか、スポーツマン風の人は怯えだしてしまったようです。少しだけ残念に思えました。まだ終わってもいないのに、なぜひるんでしまうのでしょう。
私も拳を突き出してみました。当たらない。何度やっても当たらない。かわされ、受け流され、私はその度に殴られました。あ、これ、カウンターって言うんですよね。漫画で読んだ事があります。
それからは一方的に殴られました。何度も何度も。ただ不思議とまったく痛くありません。ただ拳の衝撃で頭がクラクラするくらい。あとは頭から流れている血のせいで、視界がふさがっていきます。
船に乗っているように足下が揺らぎ、そして視界が真っ赤に染まっている中で私は思わず笑い出してしまいました。なぜでしょう、一方的に殴っているはずの相手がなぜか怯えています。小さな悲鳴を上げながら私を殴り続けています。
向かい合って殴られている内に、相手が意識を向けている場所が酷く限定されている事に気が付きました。具体的に言えば、自分の足下にはまったく注意をはらっていない。
拳を突き出しながら足下の確認、そしてカウンターで殴られながら相手の足を踏んづけました。かかとで思いっきり、足の甲を砕くくらいの勢いで踏みつけました。
動きの止まった相手のこめかみに、メリケンサックの強打。こめかみを撃ち抜いた勢いでちらりと後ろを見たら、山田さんがドン引きしていました。
「いや、それはマズいよ、サキ。死んじゃうから、ホントに死んじゃうから、その辺にしとこ」
その山田さんの背後にはもう一人の男。誰でしたっけ、どこかで見た事のある人。確かこの街にやって来た初日に出会った人だと思います。うどん屋だか、そば屋だか。
「なんなんだよ、オマエら。頭おかしいのかよ、もうやめてくれよ」
なんか泣き言が聞こえました。軽くカチンと来ましたね。そちらの経緯は知りませんが、私たちをこの倉庫まで連れてきたのは、貴方達ですよね?
少なくとも私はそう尋ねようとしました。少なくとも脳内ではそんな風に彼を問い詰めるつもりでした。でも私の口から出た言葉は、
「黙れ、そば屋ぁああああああああああ!」
「違うよ、サキ! そいつ、うどん屋!」
走り出し、山田さんの脇をすり抜けて一気に距離を詰める。そして渾身の一撃。
ゴキャッ!
小気味よい音が響き、そしてバカみたいなヘアースタイルをした、なに屋だか分からない人は倒れたまま動かなくなりました。
私を見る山田さんが目に見えてドン引きしています。小さく『うわぁ』とか、『ここまでやるかぁ』というつぶやきが聞こえてきます。
倉庫内は死屍累々といった感じ。呻き声と弱々しい悲鳴しか聞こえません。そこでようやく落ち着いて山田さんと話し合う事ができました。
「それで、山田さん。私たちはどうしてこんな場所に連れてこられたんですか?」
「え? そこから? て言うか、理由も分からないのにここまでボコっちゃったの?」
「え? 山田さん、私たちがさらわれた理由知ってるんですか?」
山田さんは私から目をそらして、どこか気まずそうです。
「いや……。知ってるって言うか……、アタシとお父ちゃんが原因って言うか……。うん、ゴメンね。ちゃんと説明しないとダメだよね。
って言うか、頭大丈夫? なんかもの凄い血が出てるけど」
ふきふき、ふきふき。ポケットの中のハンカチで顔を拭いてみました。確かに凄い血です。あっという間にハンカチが見事な赤に染め上がってしまいました。
「それでなんの話でしたっけ?」
気を取り直して山田さんと向き合います。その時、倉庫の外側から人の足音が響いてきました。コツン、コツン。ザッ、ザッ。ベッタン、ベッタン。複数の足音が聞こえてきます。最後のは本当に足音かどうか分かりませんが。
倉庫の入り口は二つ。普通のドアと大きな荷物を出し入れするためのシャッター。その二つの入り口に注意を向けながら、私たちは近付いてくる足音に耳を澄ませました。
「ん? この足音は、もしかしたらお父ちゃんかな……。ただ他にも人がいるね。多分、あの女も一緒じゃないかな」
「あの女って誰ですか?」
「え? いや、ルーカスと一緒だった女いたじゃん。確かケイトリンとかいう女。あれ、さっきまでここにいたんだよ」
そもそもルーカスって誰ですか? ルーカスとかケイトリンとか、外国の方の名前みたいですけど、知り合いですか? そんな質問をしようと山田さんに目を向けると、その山田さんはあらぬ方向を見て緊張した面持ちをしていました。
その山田さんが見ている方向に目を向けると、倒れていた深きものが呻き声を上げながら身体を起こそうとしていました。その右手には異様な空気の歪みがうっすらと見えます。
右手を中心に、辺りの景色を歪ませる空気の歪み。まるで深きものの右手が高熱を発してるような光景でした。ただ、高熱が生んだ空気の揺らぎなら、その揺らぎは上に上がっていくと思います。ですが、その場で私が見たのは、かなり不自然な光景。まるで空気の歪みが右手に集まっていくように見えました。
何か分かりませんが、確か昼間はアレにやられたはずです。まだ何か仕掛ける余力があったみたいですが、アレを喰らったらマズい。私がそう思った瞬間、私よりも先に山田さんが動いていました。
山田さんは手にしていた特殊警棒を思いっきり振り下ろし、そして奇妙な力場を生んでいるような右手を叩き潰しました。
「グゲェッ!」
深きものの呻き声。右手は砕かれ、よく見れば右足もあらぬ方向へと曲がっています。
「なるほど……。山田さんは先に手足から潰す派ですか……」
「そんな派閥、聞いた事ないよ!」
私たちがそんな事を話していたら、倉庫のドアが開け放たれました。そして聞こえてきたのは、わずかに焦りがうかがえる魚政さんの声。
「千華ぁ、御堂さん、大丈夫? え? いや……、本当に大丈夫?
うん、えっと……。一体何があったのぉ?」
倉庫の中には深きものが一人、そして人間の男性が四人。全員が血の海を堪能しています。倉庫の中央には私たち。二人とも血まみれで笑っていました。
倉庫の入り口には魚政さんの他に金髪の女性が一人、そして高校生くらいの男の人が二人。全員がドン引きでした。
「えっと……。とりあえず何があったのか教えてくれないかなぁ」
なぜか魚政さんはひきつった笑顔を浮かべています。もうどうしたらいいのか分からない、そんな心情がうかがえる愛想笑いです。
「それよりお父ちゃんこそ、どうしたのさ! そんな女と一緒にノコノコ来てさ! ソイツ、ジジイと連絡取り合ってるらしいじゃん! 一体どういう事よ!」
「え! え? いや、なに言ってるのか、分からないよぉ。父さんはさぁ、さっき変な男から『オマエの娘は預かったよぉ』とか電話が来てさぁ。それで混乱したまま、呼び出されたこの倉庫まで来たんだよぉ。そしたらこのケイトリンさんって人に、誘拐じゃないとか、中に案内しますとか言われてさぁ……」
それで倉庫内に案内されてみれば、凄惨な傷害事件の現場だったと。魚政さんはいまだに慌てています。確かに落ち着いていられる状況でもないですけど。
私たちはまだこの事件の全貌を誰も理解していません。ただ私たちがさらわれた理由を知りたければ、それだけはハッキリと答えられる人がいるはずです。
私はケイトリン・フェアチャイルドと名乗った女性の前に立ち、威嚇するように指の骨を鳴らしてみました。音はまったく鳴りませんでした。
「待って、待って、待って、サキ。本当に待って。この女まで殴り倒したら、なにも分かんないよ。とりあえず知ってる事全部ゲロさせよう」
その時、私たちの背後で何か重い物が動くような物音が聞こえ、振り返ると深きものが再び起き上がろうとしていました。
後頭部を殴られた上に、右手と右足が折れているようですが、その目と唸り声には依然闘志を感じます。
そしてなぜか、私はその深きものが発している闘志に対して、感動にも似た気持ちに満たされていました。
まるで意思を感じさせない作り物の仮面のようだった深きものの顔。それが苦痛に歪み、それでもなお立ち向かおうとする決意。それが異形の全身から発散されているようでした。
気が付けば深きものに対する恐怖や嫌悪は、私の中から消え去っていました。彼らの意思に触れ、理由こそ分からないけれど、彼らの行動には意味と執念がある事が分かりました。
折れた右足をかばうように立ち上がり、そして吠えるように叫ぶ深きもの。山田さんが彼を『ルーカス』と呼んでいました。そう、彼は化け物なんかじゃない。ルーカスという深きもの。彼は不屈の闘志を持っている。彼は目的のためなら、どんな犠牲もいとわない。その姿に私は敬意すら覚えます。
「ルーカス! もうやめなよ! アンタの目的は知らないけど、こんな事になんの意味があるのさ!」
山田さんがルーカスに問いかけます。その問いかけに応えようとしたのか拒絶しようとしたのかは分かりません。ただ、動きを止め山田さんを睨みつけ、小さく唸り声を上げます。怒りも露わに山田さんを睨みつけます。まるで山田さん以外はなにも目に入っていないように。
そんな隙だらけのルーカスをとりあえず殴りました。
「お願いだから、空気を読んでぇぇぇ!」
なぜか山田さんの絶叫に近い悲鳴が聞こえました。
今度は顔面にクリーンヒット。ルーカスはバランスを崩して倒れたものの、気を失う事はなく、小さくゲコゲコとカエルのような呻き声を上げていました。
山田さんと魚政さんの方へと振り返ると、そこにはこれ以上無いというほどにドン引きした山田さんと、逆にそれまでの困惑もおさまり、冷静に私とルーカスを見つめている魚政さん。
魚政さんは、ベッタンベッタンと小さく飛び跳ねるように歩いて私の方へと向かってきました。そして私のそばで倒れて呻き声を上げているルーカスへと問いかけました。
「ルーカス君。君はどこから来たのかなぁ? なぜ、この街へ来たのか? 僕がこの街にいる事を誰から聞いたのか? そして目的はなんなのか?
質問が多くて申し訳ないけど、全部答えてもらえないかなぁ」
そうでした。思わず殴ってしまいましたが、色々と聞かなければいけない事があります。さすがに年長者だけに、意外と頼りになります。
ルーカスはひたすらゲコゲコと呻くだけ、質問の答えを待つ魚政さん。わずかな沈黙の後、魚政さんは言いました。
「顔を見た限りでは『純血』じゃなさそうだねぇ。でも、もう喋れなくなるくらいに『同化』は進んでいるんだねぇ。じゃあ、どうやって意思の疎通をしていたのかなぁ? 手話かなぁ?」
「お父ちゃん。ソイツ、人工喉頭使ってたよ。確かポケットの中に入れてるはず」
「ああ、そんなの使ってるんだぁ。今は便利だねぇ。どれ、じゃあ、それを使って話してもらおうかなぁ」
ルーカスの服のポケットを探る魚政さん。そして人工喉頭を見つけ、それをジッと見てから、おもむろにスイッチをいじったり、自分の喉に当てたりしています。なんか楽しそうです。やっぱり頼りにならなそうでした。
「いや、お父ちゃん。そんなのいいから、さっさとゲロさせちゃってよ!」
こんな状況で言うのもなんですけど、山田さんって苦労しているんですね。魚政さんは人工喉頭に興味津々で、ほっといたらずっと遊んでいそうです。
「早くしないと、サキがまた殴っちゃうから!」
え?