第六話 山田千華「お父ちゃんの昔話を聞こう」
沈黙。アタシの部屋で、アタシとサキは無言のまま、お父ちゃんが話し始めるのを待っている。でもお父ちゃんはなにも言わない。自分で用意したコップにリンゴジュースを注ぎ、そして飲む。一口飲んでから、深くため息。
多分、お父ちゃんはなにも話したくないんだと思う。なんとなくそう思う。アタシだって今までお父ちゃんの昔の話を聞かせてもらった事はない。
お父ちゃんにだって商店街に友人はいる。アタシはダゴンちゃんとか呼ばれてるけど、お父ちゃんだって商店街の人には『うおまっさん』とか、『カエルのおっさん』とか呼ばれて親しまれてる。いや、いじられキャラと言うべきかな。
でも、そんな人たちにだってお父ちゃんは間丹生市にやって来る前の事は話さない。なにげに正体不明のパン屋で通ってる。今も無言のまま、ジュースを飲む。
そのお父ちゃんが、アタシとサキにダゴン秘密教団や深きものについて話そうとしてる。多分心境の変化をもたらしたのは、昨日のアイツ。あの不気味な深きものがこの街にやって来た事が、お父ちゃんの考えを変えさせた。
お父ちゃんはまたリンゴジュースを一口。悩んでる事がよく分かる。話をしようと思っているけど、なかなか言い出せない。そんな感じが見てとれる。
実はアタシだってダゴン秘密教団や深きものについてはよく知らない。アタシ自身も深きものなのは分かっているけど、そもそも深きものってのがどんな生き物なのかなんて聞かされた事がない。
少なくともお母ちゃんとの間にアタシが生まれた。それだけで一応人間のカテゴリーに入るんだろうって思ってた。
だけど、昨日見た深きものと、そしてサキが持ってきたお父ちゃんの昔の写真は、そんな考えを根底から覆そうとしていた。お父ちゃんもどこか苦悩した様な表情で、コップのリンゴジュースを飲む。
アタシは一体何者なんだろう。そんな疑問が頭から離れない。お父ちゃんはコップのリンゴジュースを飲み干した。そしてまたコップにリンゴジュースを注ぐ。
「いや、いつ話し始めるのさ!」
思わずツッコんだ。いや、ジュース二杯目いく? このタイミングで。 話したくないなら話さなくてもいいんだけどさ。延々とジュース飲んでるだけなら、お店に戻れよ!
「いやぁ、いざとなると踏ん切りがつかなくてねぇ。うん、そうだよねぇ。話さなくちゃいけないんだよねぇ。
昨日の同族もそうだけどさぁ。早苗さんの親戚で、早苗さんにソックリの御堂さんも僕らの前に現れてさぁ。なんだか、こう……、考えちゃったんだよねぇ。
同族が現れた事はねぇ、待ち望んでいた事なんだよぉ。僕はずっと仲間に会いたいと思ってたよぉ。でもねぇ、どこかであんな連中とは関わらずに平穏に暮らしたいとも思い始めていたんだよねぇ」
あんな連中? 会いたかった仲間を指して使う言葉じゃないよね……。
「でも、どうやら何かが動き始めてるんだよねぇ。僕らの生活に、少なからず影響を与える何かが動いているんだよぉ」
お父ちゃんは深くため息をついた。そしてまたリンゴジュースを飲んだ。今度はコップの中身を一気に飲み干した。
「人の気持ちはうつろいやすい。僕の覚悟も、僕の願いも、平穏の中でその形を変えていってしまったんだよねぇ。僕自身、それに気が付かなかったよぉ」
そこでいつの間にかハムサンドを食べ終えたサキが口を開いた。
「そもそも魚政さんって人間なんですか?」
容赦ねぇな、この娘さんは。いきなり核心えぐりに来やがった。
「あははは、そうだねぇ。質問してくれた方が話しやすいかなぁ。じゃあ、答えるねぇ。僕は人間じゃないよぉ。深きものっていうのはねぇ、海の底で暮らしてた、人間とはまた別の文明を築いていた生物だねぇ」
「どうして海の底から、この間丹生市にやって来たんですか?」
「それはちょっと長い話になるねぇ。あっ、メロンパンもよかったら食べてねぇ」
アタシはどうしてもお父ちゃんの過去に触れるのをためらってしまったが、サキにはそんなためらいはなかった。まったく容赦なくツッコんでくる。
でも、それがよかった。アタシ一人だったら話をごまかしたり、話題を変えようとしただろう。他でもないアタシ自身が。
こうしてお父ちゃんは話し始めた。お父ちゃん自身とアタシに関わる身の上話を。
深きもの。お父ちゃんの説明によれば、それは人類よりも古い存在。ただ人類より優れているとか、高度な文明を持っているという事はないらしい。
深海の潮流に絶えずさらされ続ける都市、イハ・ンスレイ。そこが彼らの拠点。深い海の底である事に加えて、激しい潮流の中にあるためにいまだにそこに到達した人間はいない。
と言うか、ぶっちゃけると深きものでも安全なルートを通らないと帰れないらしい。そしてその安全なルートというのは……。
「今はもう潰されてるねぇ。あれから90年くらいになるのかなぁ。アメリカ政府を怒らせちゃってねぇ。安全なルートの入り口に魚雷ぶっ込まれちゃったんだよぉ」
「いや、お父ちゃん、なにやってんのさ! 魚雷? 完全にそれ軍だよね? アメリカと戦争でもしたの?」
「まあ、結果的にはアメリカを侵略しようとしてマジギレされちゃったって感じだねぇ」
お父ちゃんはケラケラ笑ってる。いや、笑い事じゃないよ、それ。
インスマス。アメリカの東部にある港町。いや、正確には東部にあった港町。お父ちゃんの話では、お父ちゃんとその仲間たちは200年くらい前からインスマスに入り込み、そしてそのまま支配してしまったらしい。深きものに支配されたディストピア、そんな支配は80年にわたって続いた。そしてその事実を知ったアメリカ政府によってボコられた。結果、街ごと潰された。
「あのねぇ、父さんは元々、暴力的な支配には反対してたんだよねぇ。ハッキリ言って勝ち目なんてなかったしねぇ。武器とか凄いんだよぉ、初めて銃を見た時は震えたねぇ。父さん、本当に漏らしちゃったもん」
ゴメン、そんな事は聞きたくなかった。
「まあ、勝ち目の有る無しじゃないよねぇ。だって武器だけじゃないよぉ、人間の文明って父さんたちよりずっと進んでたんだもん。
父さんは素直に感動したねぇ。父さんの若い頃はねぇ、食事と言えば泳いでいる魚を丸呑みするだけでねぇ。初めて出来た人間の友達から、クラムチャウダーってスープを飲ましてもらった時はねぇ、人間って素晴らしいなぁって思ったよぉ」
「それ、ただの餌付けですよね……」
サキの静かで容赦のないツッコミに、アタシとお父ちゃんは揃って目を伏せた。なんかアタシまで恥ずかしくなって、サキの顔をまともに見られなかった。
サキのツッコミに軽くへこんだお父ちゃんはしばらく話を中断させてしまった。一度、お店に戻ってお昼の買い物客に対応した、軽くへこみながら。アタシも手伝おうと思ったけど、サキを一人にして放置するのもなんだし、お父ちゃんに一人で頑張ってもらった。
それからしばらくしてからまたお店を休憩にして話を再開させた。
「さっきも言ったけどねぇ、父さんは街を支配するのには反対してたんだよぉ。でもねぇ、その最初に出来た人間の友達っていうのが、道を踏み外しちゃったんだよねぇ。単純に言えば、深きものの力を背景に街を支配する事を望んだんだねぇ」
「そのお友達っていうのは人間なんですよね? 人間が魚政さんたちの力を使って街を支配しようとしたんですか?」
「そこら辺は微妙かなぁ。誰が悪かったのか、今でも僕には分からない。ただ僕も道を間違えた。僕はねぇ、その時彼らを拒絶してしまったんだよぉ。友達や同族を止める事ができなかったんだよねぇ」
お父ちゃんの話は続く。今から170年前、深きものと共謀した人間が街を完全に支配した。その時、お父ちゃんは街を離れ、そして深海のイハ・ンスレイにも戻らなかった。
お父ちゃんは本名の『ヤ・リエー・グルーノ』からアメリカ人のように『グルーノ・マイルス・ラブクラフト』と名前を変え、その後アメリカを放浪した。
それから80年後、インスマスの壊滅を知ったお父ちゃんは街へと舞い戻る。そこで見たものは、無残に蹂躙された街。そして故郷に戻る唯一の安全なルートの入り口だった場所が破壊された跡だった。
「ちょっと待ってください。魚政さんって今、おいくつなんですか?」
「うん。それはアタシも疑問に思った。話の腰を折るのもなんだから流してたけど、やっぱりおかしいよね」
「僕らには年齢って概念がなかったんだよねぇ。だから正確な歳は分からないなぁ。多分600年くらいは生きてると思うよぉ」
サキが小さな声で『へー』とつぶやいた。多分信じてない。もしくはスゲぇ呆れてる。どうしよう、アタシですらちょっとついていけない。
お父ちゃんは構わず話を続けた。インスマスの壊滅後、お父ちゃんは自分もアメリカ政府から追われている事を知った。アメリカ政府は自国に潜む深きものを根絶やしにしようとした。まあ、当たり前のような気もする。
深きものは元々深海で生きてきた。地上よりも海の中の方が本領を発揮出来る。ほとんど魚のようなものだから、何日だって泳ぎ続けられるし、何日だって海に潜っていられる。
「だから父さんは太平洋を泳いで、今のミクロネシアまで逃げたんだよぉ。そこの無人島でひっそりと暮らしていたんだけどねぇ、それからしばらくして日本とアメリカが戦争始めちゃったんだよぉ。それでアメリカの手が及ばないはずだった無人島が日本の支配下におかれて、その後日本が戦争に敗れて無人島がアメリカの管理下になっちゃったりしてねぇ。
まあ、そんな感じでなんやかんやあったんだよぉ。無人島で生活しているのが、かえって目立つようになっちゃってねぇ、仕方なく人目を避けながらポンペイ島ってところに移り住んだんだよぉ。
そこで観光に来た早苗さんと知り合ってねぇ、まあ、現在に至るって感じかなぁ」
話がお母ちゃんの話題になったら、お父ちゃんが全力で照れ始めた。こういうところは可愛いと思う。ただ話の内容はどこまで信じていいのか分からない。
ひとしきり照れまくった後、落ち着いたお父ちゃんは真面目な顔に戻った。そしてこんな話をしてくれる気になった理由も打ち明けてくれた。
「昨日やってきた深きものなんだけどねぇ。父さんにもアレがどこの誰だかなんて分からないんだよねぇ。一応、間丹生市で一番力を持っている人に相談してみようと思っているんだけど、連絡がつかないんだよねぇ。まあ、忙しい人だからねぇ。
でね、アレがイハ・ンスレイから来たのなら、こっちから帰る事もできるようになったって事だと思うんだけど、反対にあっちからも自由にやってこられるって話になるよねぇ。
そうじゃなく、アレがインスマスの生き残りだとしたら、人間を支配しようとしていた連中の仲間なんだよねぇ。
とりあえず話し合ってみないと分からないけどねぇ、アレがお店を監視するように立っていたって言うのは、ちょっと嫌な予感しかしないんだよねぇ」
お父ちゃんは言葉を濁していたけれど、アタシにはなんとなく分かる。問題はアレが、この街にお父ちゃんがいる事をどうやって知ったのか、その一点だと思う。
間違いなくアレの背後には何らかの組織がある。少なくともアレに協力しているヤツがいる。それが分からない以上、不気味な連想しか出来ない。
お父ちゃんがやたらフレンドリーに接しようとしても、相手すらしなかった。だから目的も分からない。
どうしてお父ちゃんがこの街にいる事を知っていたのか、そして何の為にやって来たのか。
そして連絡が取れなくなった権力者。多分、豹紋葛一斎。アタシのひいお爺ちゃん。アタシが今一番殴りたいヤツ。まあ、実際にはそんな事しないけど。あのジジイ、怖いし。
「まあ、僕はね、今自分が何を望んでいるのか分からないんだよねぇ。情けない話だけどさぁ、迷ってるのかなぁ。
かつて僕の同族と友人は、ダゴン秘密教団って組織を立ち上げた。それが歪み、暴走していく様を見ていながら、僕はそれを拒絶した。逃げ出した。
それなのに、今僕はダゴン秘密教団の看板を、同族なんているはずのないこの街に掲げてる。誰かに気付いてほしいと願ってる。情けないよねぇ。
昨日、僕の同族と何十年か振りに出会ったよねぇ。僕はその時、自分が何を考えていたのか、分からないんだよぉ。嬉しかったのか、恐ろしかったのか。
出来るだけ明るく彼に声をかけていたけどねぇ、気が付けば足が震えていたんだよぉ」
お父ちゃんはため息をつきながらうつむいた。アタシはちびちびとリンゴジュースを飲んだ。そしてサキは寝ていた。え……、寝てる?
ひでぇ、ガチで寝てる。一応、正座したままの姿勢だけど、目を閉じて頭が軽く前後に揺れてる。
あれ? なんだろう。おかしいな。サキってお嬢様っぽい感じで、大人しくてお淑やかってイメージがあったけど、なんかフリーダム過ぎる。この子、こんな子だったのかな。
「どうしよう、千華。父さん、この子が怖いよぉ。なんか深きものより怖いよぉ」
いや、さすがに怖がりすぎ。ただ話の途中で居眠りしただけだし。
サキがいつから寝ていたのかは分からない。ただ真剣に自分の過去と向き合い、そしてアタシたちに過去を打ち明けてくれたお父ちゃんの覚悟を、見事に台無しにしてくれた。
「いやぁ、御堂さんって、顔は早苗さんにソックリだけど、中身は先生だねぇ。将来が怖いねぇ、この子」
先生っていうのは豹紋葛一斎の事。一応、現職の市長を務めているのでお父ちゃんはジジイの事を先生と呼んでいる。
「なんかズレてる子だけど、そんなにジジイに似てる? いや、それよりジジイと連絡が取れないってどういう事?」
「あぁ、昨日の晩ねぇ、電話してみたんだよぉ。お店の前で深きものを見かけたって相談しようとしてねぇ。この街で妙な事が起こっていれば、あの人が知らない訳がないしさぁ。
でも、先生の秘書さんとしか連絡がとれなくてねぇ、一応事情は説明したんだけど、『先生は不在です』の一点張りなんだよねぇ」
確かにお父ちゃんとジジイは別に仲が良い訳じゃない。ただ、ジジイは街の名士ってヤツで、特に身内から頼られれば大概の事は助けてくれる。お父ちゃんのお店だって、大部分は結婚祝いという名目でジジイが出資してくれたって話だし。
街の名士で現職の市長、そして豹紋葛一族の当主。街で妙な事が起これば、あのジジイが知らない訳がない。あんな化け物が街を歩き回っていれば、ジジイの耳に入らないはずがない。
確かにお父ちゃんの言う通り、何か嫌な予感がする。