第三十一話 山田魚政「オーベッド・マーシュという男」
「そう言えば以前から聞いてみたかった事があるんです」
サキちゃんが僕に尋ねてきた。もちろん逃げ出した景保くんは完全に放置だ。千華はお店の前まで追いかけていったが、店先で『うがー』と投げやりな威嚇の言葉を投げかけて、またお店に戻ってきた。
「千華ぁ、あんまりお店の外では騒がないでねぇ。あぁ、ゴメンねぇ。それで聞きたい事ってなにかなぁ?」
「以前も似たような事を聞いているんですけど、もう少し詳しく聞きたくて……。それでクトゥルー神話ってどこまで本当の話なんですか?」
うん。確かに前にも聞かれてる。全部ではないものの、真実も含まれている。僕はそう答えたはずだった。ただね……、
「正直なところ、僕はクトゥルー神話の作品をすべて読んだ訳じゃないよぉ。だからどこまで書かれているのかも知らないんだよねぇ。具体的にはどんな事が知りたいの?」
「『旧支配者』と『旧神』についてです。それが実在しているのかどうか」
「まあ、お父ちゃんが実在してるんだから、他の珍妙な連中が実在してても不思議じゃないよね。だけど、なんで今更?」
「いえ、私たちの現状を考えてみたんです。今私たちは言ってみればダゴン秘密教団の内部抗争の最中にあると思うんです」
「内部抗争ねぇ。むしろまったく接点の無かった『本家』と『元祖』の争いじゃないかなぁ。どちらも正当な後継者とは言えない。でもどちらも勝手にダゴン秘密教団を名乗ってる。正確に言えばそんな感じだと思うねぇ」
「確かにそうですね。ただどちらにしてもこれは『ダゴン秘密教団』を巡る争いだと思うんです。それなら他の勢力はなにをしているのかなって思ったんです。この争いに例えばクトゥルーとか、それを封印したって言われている旧神の存在がどう関わってくるのか、それが気になっているんです」
「ああ、アタシもクトゥルー神話の本はいくつか読んだ事あるけどね。どうもピンと来ないよね、旧支配者とか旧神とか言われても。アタシはそんなヤツらが出てくる事はないと思うけど、確かに気になるね。で、お父ちゃん。どうなの、その辺?」
クトゥルー。サキちゃんがヤツの名前を口にした時、僕の脳裏にその名はさびた刃のように突き刺さった。
ヤツの名前を聞いた瞬間、僕はまた古い記憶に囚われた。あのクトゥルーらしき存在の声。頭に響く、おぞましい声。それが脳裏に刻まれている。
僕はサキちゃんと千華の質問に答えられなかった。僕の意識は過去の記憶に沈んでいく……。
***
僕の期待通りに事は進んだ。シャカレンワイオこそハスターの信徒によって壊滅してしまったが、当初の目的には到達できた。
シャカレンワイオの民から僕らの話を聞いていたオーベッド・マーシュは、島の長の指示通りに僕らへと合図を送る。
島の長から受け取った鉛の板。イハ・ンスレイで拾ってきた適当な飾り板をさも大事な物のようにうやうやしく扱い、それを海に投げ込んだ後もっともらしい適当な祈祷文を読み上げる。
その間抜けな光景に、僕は笑いを堪えきれなかった。それでも軽く一笑いしてから、なんとか気を取り直し、僕は重々しい雰囲気を演出してオーベッドの眼前に立った。
怯えたオーベッドは震えながらも僕に尋ねた。
「お前がダゴンか? お前がシャカレンワイオの神なのか?」
まいったな……。コイツはバカなのか……。一応、ダゴンと深きものの違いくらいは理解していると思っていた。まあ、確かにダゴンなんて深きものの親玉みたいな物だから、同一視してしまうのも仕方が無いのかも知れないが。
当時の僕は話す事ができなかった。と言うよりも、海の中では声なんて出せない。必然的に深きものの意思の疎通はジェスチャーやハンドサインで行われていた。
そのハンドサインだって僕は島の長を通じて、オーベッドにも教えてあったはずだった。
僕はオーベッドの最初の質問に対して否定のハンドサインを送る。
「よかった。話が通じるんだな。私はオーベッド・マーシュ。ようこそインスマスへ。ダゴン様」
通じてねえよ。
「シャカレンワイオの民がどうなったのかは知らないが、これからは私が貴方を崇拝しよう。貴方を崇め、そして貴方の目的の助力になろう。だからどうか、私たちを救ってくれ」
オーベッドはバカだった、だが善良だった。彼は育ちのいいボンボンだったが、それにおごる事なくむしろ街を背負う気概に満ちていた。
マーシュ家はインスマスを支える四大名家の一つ。そして街の経済を支える存在だった。もちろん僕はオーベッドが街の名士だと知っていた。そんな事は身なりや立ち振る舞いで見当はつく。
だが一つだけ予想外だった事があった。それは街の経済の惨状。僕がシャカレンワイオにオーベッドを招き入れた頃には、既に街の経済は破綻寸前だった。それだけは沖から街を眺めているだけでは分からなかった。シャカレンワイオの島で、彼を影から観察しているだけでは分からなかった。
「君たちの力が必要なんだ。私は貴方をあがめよう、貴方に忠誠を誓おう。必要ならば街を挙げて尽くそう。だから私たちを助けてくれ。この街を救ってくれ」
純朴な男の切実な願い。僕はそれを利用した。もちろん彼が望むものは与えてやるつもりだった。別に僕は彼らを虐げたかった訳じゃない。
お互いに望むものが得られるのなら、それは最良の関係と言える。その関係を僕らは築けるはずだ。少なくとも、その時はそう思っていた。
***
「そうか。お前はグルーノって言うのか。じゃあ、私の勘違いだな。てっきりお前がダゴン様だと思ったよ」
オーベッドは僕をダゴンと間違えていた。その間違いを正すのにタップリ二日間かかった。
それからしばらくの間、僕らは街の人間の目を避けてオーベッドの倉庫で会っていた。街の中心を流れるマニューゼット河沿いにある倉庫街。僕はその近くまで河を泳ぎ、そして人目を避けながらオーベッドと会合を重ねた。
僕はハンドサインで意思の疎通を図る事をやめた。彼らに歩み寄ろうと考えた。当時はまだ慣れていなかったけど、彼らのように言葉を発して会話する事にした。
僕らは普段、海の中で生きている。だから声帯があまり発達していない。だけど、喋れない訳じゃない。今では技法としてよく知られている事だけど、事故や病気で声帯がなくなった人のための食道発声法というものがある。平たく言えば『ゲップ』で言葉を発する方法だった。正直、耳障りに感じる人も多いし、僕も疲れるからやりたくないんだけど。
「ああ、理解してくれて助かるよぉ。話がまったく通じないから、どうなるかと思ってたんだよぉ」
「お前、顔も変だけど、喋り方も変だな」
大きなお世話だよ。食道発声法は、一度食道に呑み込んだ空気を吐き出して声を作る。僕らも肺呼吸はできる。しかも肺活量は人間よりずっと大きい。
いまだにコントロールができないんだけど、僕はどうしても最初に呑み込む空気の量が多すぎてしまう。最後はいつも空気が余って間延びした語尾になってる。
これは今でも直らないな。まあ、伝わればいいんだから、無理して直す事もないんだけどね。
「『深きもの』ねえ……。普段は海の中で暮らしてんのか、じゃあ飯はなに食ってんだ?」
どうでもいいけど、コイツガンガン距離詰めてくるな……。目ん玉、キラキラ輝いてるよ。僕らの生態や生活にやたらと質問してきては、僕の答えにイチイチ大袈裟に驚いたりしてる。
「私はこの街の名士だけどな、同時に海の男なんだよ。冒険と金には目がないんだ」
だろうね。シャカレンワイオで君を観察していたから良く知ってるよ。まあ、本人にわざわざ言ったりしないけどね。
「クラムチャウダー食ってみるか? ああ、パンもあるよ」
人間ってヤツは面倒な事が好きだよね。僕らは食事なんて魚や貝を生きたまま食えば良かった。イチイチ茹でたり焼いたりするのは、要するに胃腸が弱いんだよ。つまり人間の脆弱さの証明でしかない。
だからこんな風に食べ物をスープにして……、なにコレ? クッソ美味い。ちょっと熱いかな、でも美味いな。ああ、パン? なにそれ、一つもらえるかな……。うん、コレは微妙。て言うか、味がうすいよ。あれ、このスープをちょっとつけて……。ああ、美味いな、コレも。
「はははっ、なんだよ。まともな食事をした事がなかったのか? いいよ、ドンドン食え。お近づきの印ってヤツだ」
僕らは相互理解ってヤツを望んだ。オーベッドは金品以上に僕の語る人外の知識を求めた。僕は彼らの文明の知識を求めた。もちろん金品も与えたよ、オーベッドは自分に街を支える責任があると思い込んでいたから。
そしてまた同じ事の繰り返しになった。シャカレンワイオと同じ過程をたどる。インスマスに羨望と嫉妬を持って眺めていた深きものは次々とインスマスに上陸した。
僕はなんとか彼らを抑制した。不用意に街の人間に姿を見せないように言った。だけど無駄だった。所詮は蛮族以下の生物。僕の仲間には知性なんてものは無かったんだ。
僕の知らないところで、オーベッドは僕が与えるよりもずっと多くの金品を得た。そしてオーベッドの仲間もそれに倣った。
街を支える責任があると思い込んだ善良な間抜けは、次第に責任を果たせる能力があると勘違いを始めた。そして彼は責任を果たすための『舞台装置』を発案した。
街を牛耳るための組織、深きものに尽くすための規律、『ダゴン秘密教団』が生まれた。
***
最初は僕も協力した。僕が望んでいた形から大きく逸脱していてけれど、それでも得られるものは大きいと判断したから。
もちろん深きものの間でも、僕は一目置かれていた。シャカレンワイオとインスマス。二つの拠点を陸に作った功績は大きかった。
僕が生まれてからの数百年間は、陸に拠点なんて一つもなかったからね。僕が生まれる前に潰れた最後の拠点はミャンマーだったかな。確か六世紀くらいにモン族ってヤツらに手を貸して小さな街を占拠したんだけど、すぐに追い出されたとかなんとか。
まあ、それ以来の陸の拠点だからね、同族の連中の浮かれようは酷かった。だから彼らを抑えるのは本当に大変だった。そして僕一人では無理だった。
繰り返し説いた。理由もなく人間を虐げるなと、それは過去の拠点が潰れた理由の一つでもあるのだから。
加えてもう一点、同族に厳しく言っておかないといけない事があった。間違っても街の外に深きものの噂を流させないように。
インスマスに深きものが巣くっていると知れば、必ずまたハスターの信徒はやって来るだろうから。街の噂は一切表に出ないように気を使い、結果としてインスマスは酷く排他的な街と呼ばれる事になった。
インスマスは不穏な雰囲気をかもし出す不浄な街。住民には不本意だったと思うが、僕らには都合がいい評判を獲得できた。
だけど結局無駄だった。誰も過去の失敗から学ばない。蛮族以下の深きものは、すぐに街を蹂躙し始めた。誰も彼も踏みにじった。
僕は止めた、少なくとも努力はした。だけどすべては無駄だった。オーベッドは街の支配者に祭り上げられて、その地位に酔ってしまった。
オーベッドの仲間は、深きものがもたらす金品に理性を失った。貧しき者は生きるために頭を垂れた。弱き者は怯えながら隷属した。
抵抗する者がいなかった訳じゃない。だけど金と暴力が街を踏みにじった。
そうだね、深きものってヤツは言ってみれば化け物だ。価値も知らないまま先史文明の遺産を持つ化け物。人間にとって未知の世界に潜む者。深淵を泳ぎ回る怪異。
そんな仰々しい言葉が白々しく聞こえるほどに、僕らは俗っぽい手段に終始した。結局は金をばらまき、そして力ずくで黙らせた。
そして街は衰退の一途をたどる。繰り返しになるがオーベッドはバカだ。バカが街を支配したところで、街が栄える訳がない。
そして六年が経過した。僕らがインスマスに乗り込んでから六年。一八四六年の事だった。街は外部との接触も断たれ、街の有力者だった教会の祭司やフリーメイソンのメンバーも失踪した。
街の中心に傲慢なたたずまいでそびえ立つメイソンの会館は、酷く安い値段で買いたたかれた。そしてその豪奢な建物はダゴン秘密教団の本部として利用された。
その建物内では酷く暴力的な言葉を交えながらダゴンの素晴らしさを説き、街の住民は深きものに忠誠を誓う事を強要された。もちろん逆らえば魚の餌だ。
そんな街が存続できるはずもなかった。その年、オーベッドと深きものによるインスマス支配に憤りを覚えていた者たちが一斉に立ち上がった。街に残った有力者は粘り強く機会を待ち、そしてその日がその時だと判断した。
自警団を引き連れた保安官がオーベッドを逮捕。罪状は読み上げるだけで日が暮れそうなくらいに膨大な量だった。そしてオーベッドはインスマスのメインストリート沿いにあるインスマス拘置所に勾留された。
そのレンガ造りと木造をそのまま繋ぎ合わせたような粗末な建物に、僕はオーベッドとの面会を果たすために訪れた。
オーベッドは六年の歳月でスッカリ変わっていた。バカな男が、そのバカさ加減に気が付くだけの理性を持ち始めていた。
「なあ、グルーノ。私はなにを間違えたんだ? 街は発展してるじゃないか……。それなのに、どうしてこんな……」
オーベッドは泣いた。初老に達していた男が、自分の惨めさに泣いていた。ただ彼は気付いていたんだ、自分が間違えている事に。誰かに陥れられたのではなく、自分が間違えている事には気が付いていた。ただなにを間違えたのかが分からないだけで。
街の保安官が僕に言った。
「アンタは化け物のくせにどっちの味方なのかも分からないよな。だけど、これからはハッキリした方がいい。いや、街から出て行くべきだな。そして海の底で静かに暮らしてろよ」
オーベッドの逮捕に協力していた自警団の男がニヤニヤと嗤いながら言った。
「いや、保安官。今までの事を考えるとな、やっぱり街から追い出すだけでは足りないよ。海の底にある金塊を全部持ってきてもらわないとな」
吐き気がしたよ。街の平和だの、繁栄だのと言ったところで、結局のところ全部金の話に行き着くんだ。
だけど、自警団の男の嫌な嗤いはそう長くは続かなかった。街で騒ぎが起こり、そして自警団の男の嗤いは絶叫に変わった。
それは暴動や騒乱という言葉では表しきれなかった。イハ・ンスレイから、膨大な数の深きものが攻めてきた。オーベッドを開放して、街を完全に支配するために。