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ボツ作品に学ぶこと

作者: 神崎 創

 現在、重度のスランプに陥っています。

 ここひと月以上、一字も書けない日が続いています。

 何か書きたいという衝動だけは胸の奥の奥でもやもやっとくすぶっているようなのですが、かといって書くべき内容が何一つ思い浮かんでこないのです。

 今まで続けてきた創作ももはやこれまでか? 何度も思いました。

 まったくといっていいほど書けなくなったきっかけが何であったのか、上手く説明できないのですが、最後に投稿した作品に原因があるような気がしています。連載だったのですが、書き進めるにしたがい自分の中から執筆に必要な何かが喪われていき、ついには枯渇してしまった。

 その何かがなんであるのか、今もなおわかっていません。

 ただ、それがすっかり喪われてしまったことによって書けなくなっているのだというぼんやりとした曖昧な自覚はあります。

 執筆のエネルギー、といってしまうと、限りなく精神論の様相を呈してしまうでしょう。

 書けるときは黙っていても書けるし、書けないときはどう抗ってみても書けない。そんなふうな結論に落ち着いてしまうかと思います。

 確かに、ある意味正しいでしょう。書くためには体力面、気力面での「エネルギー」は必要です。肉体がふらふらのへとへとだったり、気持ちがずんと沈み込んでいてはとても小説を書くどころではない。きわめて漠然とした表現ながらも「エネルギー」は重要だといえましょう。

 しかしながら、それでは根本的な原因の究明にはならない。

 書けなくなったからには、精神論を抜きにした書けない理由というものがあるはずです。いずれまた書ける日がくるだろう、といって問題を棚上げしていると、きっと同じことを繰り返してしまうのではないかという気がします。

 そこで、というわけでもないのですが、ふと思い立って、これまでに自分が書いてきた作品を読み返してみることにしました。

 スランプの原因がはっきりしない以上、これまでの自分のあり方について作品を通じて見つめ直すこともまた原因究明の一環になるのではなかろうか、そんな気がしたのです。

 私は現在、なろうに連載、短編あわせて数十の作品を投稿してあります。

 そのほかに、書きかけたものの途中で筆を置いてしまった、いわゆる「ボツ作品」がその倍以上保存してあったりします。よくまあ、これだけ書き棄てたものだと思いますが。

 数日かけてそれらの作品を振り返っているうち、ある事実に気が付きました。

 ボツにしてしまった作品のほとんどが、連載として書いたものなのです。

 ある作品は十万字も書いて止めたかと思えば、別の作品は冒頭三千字以内で挫折している。執筆を放棄したタイミングはばらばらですが、共通しているのは「連載もの」として書いていたという事実です。

 これに対し、短編はどうか。

 なろうのマイページで「投稿済み小説」の一覧を眺めてみると、短編の投稿数が連載作品の倍かそれ以上ありました。

 つまり、短編は出来栄えがどうであれ、書き上げて投稿することに成功している。

 そういえば、短編を書こうと思い立ったときはだいたい二、三日のうちに一気に書き上げています。一万字を超えるやや長い作品であっても、結末が想定できているのでそこまで到達すればよいだけのことです。多少の時間はかかっても苦にならずに完結させることができる。

 こう考えると、なんとなく見えてくることがあります。

 自分の中で物語の一連を組み上げられている場合には書き上げることができている。逆に、プロットが全体的に脆弱であったり、例え設定を堅牢に考案していたとしてもストーリーを結末までイメージしきれていなければ挫折してしまう。ボツにした作品の字数がまちまちなのはそのことと関係がありそうです。

 すると、一つの仮定が発生します。

 短編という限られた長さの中であれば可能なことが、連載(長編)となると途端に失敗している。

 要するに、自分に向いているのは短編なのであって、長期間にわたって想像力の稼働を要求される連載(長編)は不向きとまでいわなくとも成功率は決して高くない。

 このことを裏付ける証拠は十分ではありませんが、少なくとも結果がそう物語っているわけです。

 では、なぜ長い期間にわたって想像力を維持し続けることができないのか?

 集中力がない、というとただの気合論に収まってしまうのですが、単純にそういうことでもないように思います。

 数々のボツ作品を読み返しているうちに、またしても気付くことがありました。

 自分の綴る文章です。

 私には語りぐせがあります。地の文で必要以上につらつらと余計なことを述べてしまうのです。

 このクセは小説を書き始めたときからあるようで、なろうで最初に投稿した作品ではいっそう酷く、今読み返してみると「よくこんなくどい文章を書いたものだ」と恥ずかしくなるくらいです。

 重度の語りぐせというのは考えものだといえます。

 先へ先へと展開を進めるために費やすべき労力を、途中で無駄に浪費してしまうわけですから。そういう行為は長い作品を書くにあたってはきわめて不利であり、自分で自分の首を絞めるにも等しいでしょう。決定的な理由であるとは言い切れませんが、長編が続かない理由の一端として、このことは真摯に受け止め考える必要がありましょう。

 正直をいえば、この語りぐせ、自分の文章の特徴であると思い、深く考えたことはありませんでした。

 私の作品に対して好意的にみてくださるとある読み手の方が「文章に重みがあって、軽々しさを感じない」とコメントを寄せてくださったことがあります。

 とてもありがたく、もったいないお言葉です。

 ただ、その好意に甘えて自分自身の文章を向上させる努力を怠っていなかったか。

 自分の欠点になってしまっていた点を、自分の特徴だと誤解していなかったか。

 ボツ作品は私にそんなことを教えてくれました。


 誤解なきよう申し上げておきますが、これまで述べてきたことは私の私自身に対する自戒です。

 こういうことをしてはいけない、などという教訓をたれるつもりは毛頭ありません。

 一つ申し上げたいことはこの稿のタイトルにあるように、ボツの作品であっても作者に何事かを教えてくれる大切な存在である、という一点です。

 さる高名な日本画家がいらっしゃいます。

 下書きから失敗作からすべて手元に保管してあって、売って欲しいという要請があっても決して手放さないそうです。ことあるごとにそれらを一つ一つ眺めては、次の作品に取り組むための糧にしているのだとか。

 非常に有名な方なので私ごときの文章において引き合いに出してはあまりにも失礼ですが、しかし創作をより高からしめるための秘訣はそのあたりにあるのではないか。そう思えてなりません。

 ボツ作品も自分の一部。

 振り返れば、反省の良き素材となる。

 スランプに陥ってみて、非常に重要なことを学べたように思います。

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