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夏の空に溶ける

作者:

   夏の空に溶ける

                                           



   1


 屋上に通じるドアの鍵を開ける早見を、俺は踊り場から見上げていた。早見(はやみ)は俺に気づくと、人当たりの良い優等生みたいな笑みを浮かべて言った。

須賀(すが)(よし)(ゆき)くんじゃん。君も一緒に来る?」

 五月の日差しが、ドアの向こうから注ぎ込んでいた。


   ◇◇◇

 

 早見(はやみ)誠司(せいじ)は、高校の同じクラスの男子だ。メタルフレームの眼鏡をかけた優等生キャラ。でもガリ勉って感じじゃなくて、クラスの奴らからはそこそこ人気。茶色い髪と目つきの悪さという、見た目の印象だけで不良扱いされてる俺とは正反対だ。

 俺は、早見のことを少し変なやつだと思ってた。

 だって、携帯用の消臭スプレーを学校に持ってきてる男子高校生なんて、普通いない。偶然、鞄の中に白い筒があるのに気づいたとき、最初は何か別のものだと思った。

 ギャツビーとかシーブリーズを体育の後に使ってるやつは多いけど、いつも鞄の中にリセッシュを入れてるやつはそうそういない。

 それに早見は昼休みになると、いつも鞄を持ってどこかに行く。クラスの奴らは、他のクラスの人と一緒にご飯を食べるんだろうと思ってて、別に気にしていない。部活の友達と食べるとか、そういう奴らは他にもいるから。

 でも、俺は気になっていた。だって、鞄ごと弁当を持って行く必要はないし、それにあの鞄の中にはリセッシュが入ってる。

 二年生になって一か月が過ぎたある日の昼休み。俺は、いつものように鞄を持って教室を出ていく早見の後をつけた。

 いったい俺は何をやっているんだという気持ちはあった。俺は別に早見の友達でもないし、そもそも話したこともないだろう、と

 早見は階段を昇って三階に行くと、どんどん校舎の外れの方に歩いていく。

 どこに行くつもりなんだろう。そっちに行っても、屋上に通じる階段しかない。生徒は立ち入り禁止で、屋上に通じるドアは鍵が閉まっているのに。

 だが、早見は平気な顔で屋上への階段を昇っていくと。当たり前のようにポケットから鍵を取り出し、ドアに差し込んだ。


   ◇◇◇

 

 学校の屋上って、何もなくてがらんとしてるイメージだったのに、実際は結構雑然としていた。早見と俺は、学校祭で使いそうな大道具とかが立てかけてある場所に腰を下ろした。ちょうど大道具に隠れて、外にいる人には見つからない場所らしい。 

 早見は学ランを脱ぐと鞄の上にかけた。五月とはいえ今日は風が冷たい。寒くないのか。

「須賀くんと話すのって初めてだよね、同じクラスなのに」

 早見は鞄から菓子パンを取り出す。中にチョコと生クリームが挟んである、長細いパン。それを半分にちぎると片方を俺の方に差し出す。「あげるよ、一本丸々食べると、もたれるから」

 俺は片手でパンを受け取る。パンよりもクリームの方が多いんじゃないか、これ。

「早見っていつも屋上で昼飯食べてんの? つーか、なんで鍵持ってんだよ」

「委員会の仕事で、先生から鍵を少し借りたことがあって。そのときに合鍵つくっちゃった」

 早見は悪びれる風もなく答えると、手に持ったパンにかじりつく。よっぽど甘いのか、少し顔をしかめると紙パックの紅茶で流し込む。

 つくっちゃったって、ばれたらやばいんじゃないのか、それ。

「なんのためにだよ。昔の不良ドラマに憧れてとかそういうの?」

「まさか、そんなの僕のキャラじゃない。ま、これのためかな」

 早見は鞄から小さな白い箱を取り出した。アルファベットで「KENT」と書いてある。箱の中から一本取ると、慣れた様子で口にくわえて、火を点ける。

「お前、タバコ吸うの」

 意外だった。勉強ができてテストの成績はいっつも学年一位で、先生からの受けも良くて、わかりやすいくらいの優等生のこいつが。

「もしかして、あれか。親とか教師へのささやかな反抗とかそういうのか。いやでも、タバコは身体に悪いぞ」

 思ったことをそのまま口に出してしまった俺に対して、早見はきょとんとした顔を見せると、急に笑い出した。

「『反抗』って。あはは、それはいくらなんでもドラマかマンガでしょ。別に理由とかは覚えてないよ。なんとなく、かな」

「なんとなく」

「そう、なんとなく」

 早見はフレームの奥の目を細めて、白い煙を吐き出す。

「仮に親とかに反抗したいって思ってもさ、酒とかタバコに走るのはどうかと思うね。大人を否定したいのに、大人社会を象徴するような嗜好品選んじゃってどうするんだい、まったく」

 屋上に、一際冷たい風が吹いた。

 早見は授業で詩を朗読するとき、ほどほどに感情をこめて読む。感情を込め過ぎても、棒読み過ぎてもダサいから。

 だが、今の早見の言葉にどんな感情が込められていたのか、俺にはよくわからなかった。

「お前って、意外と口悪い?」

 早見は一瞬驚いた顔を見せると、すぐににやりと笑った。

「そういう須賀くんは意外といいやつだね。茶髪だし目つき悪いし、ちょっと怖いやつかと思ってたのに」

 屈託のない、爽やかな笑顔。右手に持ったタバコが、本当に似合わない。

「……髪の色は生まれつきだ。目つきはほっとけ、気にしてるんだから」

 ごめんごめんと軽く言う早見を見て思う。

 ただの優等生だと思ってたけど、イメージと違うな、と。

 予鈴が鳴り、教室に戻る前、早見はワイシャツに念入りに消臭スプレーを振りかけていた。それが終わると、俺の方にスプレーを放る。

「須賀くんもしといた方がいいよ。この学校喫煙とかばれたらやばそうだから。ま、僕はばれたことないけどね」

 そう言うと、鞄の上の学ランをワイシャツの上から羽織る。ああ、そうか。タバコのにおいがつかないように脱いでいたのか。


 教室に戻り、午後の授業が始まる。

 早見は今日も先生にあてられて、板書をしている。

 ……さっきまで屋上でタバコ吸ってたやつが、澄ました顔で不等式の証明をしている。

どうにも、首を捻らざるを得ない情景だ。


 その日の放課後。

 突然の夕立を前に、俺は生徒玄関の前で一人で立ち尽くしていた。

 雨がざあざあと降り続く中、色とりどりの傘が歩いていく。なぜ俺がこんなところで突っ立っているかと言うと、傘を忘れてしまい置き傘もないという状況だからだ。

降水確率二〇%を甘く見たな。しかたない、雨がやむまで図書室で待つか。

「なー、このあとマック行こうぜー」「ほんと、マック好きだねー、どうせ百円のやつしか頼まないくせに」「ねーねー早見くんも行こうよーマック」

 俺が上靴に履き替えていると、早見がクラスのやつら三人と一緒にやってきた。男子が一人と女子が一人。男は確か福本とかいうやつで、女は中澤と西川って名字の。

 下駄箱の前で目が合うと、早見以外は微妙に気まずそうに目を逸らす。

 別に話したこともないし、さっさと横を通り抜ける。と、後ろから早見の声が聞こえる。

「須賀くん、また明日!」

 振り返ると、早見が笑顔で手を振っていた。

 俺はなんだかきまりが悪くて、無言で片手を挙げて応じる。

 また明日、か。

 雨の降った日の次の日の屋上ってどんな感じなんだろうか。やっぱり、びしょびしょなんだろうな。

そんなことを、廊下を歩きながら思った。

  


  2


 半袖のワイシャツがやっとちょうどいい気温になってきた六月、ポテチの袋を開けるように気軽に、早見は俺に質問をしてきた。

「ここのところ毎日僕と一緒にお昼食べてるけどさ、須賀って友達いないの?」

 俺は隣りから唐突に聞こえてきた暴言に、動揺しながらも抗議する。

「な……お前、思っててもそういうこと言うか、普通」

 前々から感じていたが、こいつは屋上で俺と話すときだけデリカシーというものが欠如している気がする。

「だって、教室でもほとんど誰とも話さないし。部活にも入ってないっぽいし」

「それは……」

「ま、しょうがないよね。茶髪で般若顔で、しかも無口だし。うちみたいな進学校じゃ、そりゃあ浮くよねえ」

 こいつ、人が気にしてることをずばずばと。

「その髪さあ、先生に何か言われないの?」

 箱から取り出したタバコを、俺の方に突きつける。最後の一本だったらしく、箱はくしゃくしゃにしてポケットの中に突っ込んだ。

「多分……」

「多分?」取り出したタバコを口にくわえる。

「先生にも怖がられてる……」

 早見のくわえたタバコが、ぽとりとコンクリートの上に落ちた。早見は、何かをこらえるように体を震わせている。

「笑うなよ」

「だ、だって……見た目だけでそんなに怖がられてるなんて……気の毒すぎて……ふっ」

「笑うなっつってんだろうが!」

 恥ずかしさのあまり、つい大声を出してしまった。早見は、落ちたタバコを拾いながら、謝る。吸い口についた砂利を見て、眉を下げている。

「ごめんごめん、その顔で怒鳴られると本当に怖いから。財布出しそうになっちゃうから」

 まったく。こいつはクラスにいるときも楽しそうだが、ここにいるときは別の意味で活き活きしてるような気がする。そんなに俺をいじめるのは楽しいか。

 まあ、下手に怖がられるよりは俺としては嬉しかったりもするんだが。

 早見はタバコを吸い直そうとポケットを探っているが、さっき落としたのが最後の一本だったことに気づいたらしく、俺の方をちらっと見る。

「ねえ、須賀。タバコ持ってたりしない?」

「ん……ちょっと待って」

 俺はズボンのポケットからタバコを取り出すと、箱ごと早見に渡してやる。ピンク色の小ぶりな箱をじっと見ると、早見は少し意外そうに、

「須賀も吸うんだ。やっぱり立派な不良じゃない。それにしてもピアニッシモって、ずいぶんかわいいの吸ってるんだね」

「吸わない。持ってるだけだ」

 いよいよ不思議に思ったらしく、早見はこちらをじっと見る。「持ってるだけって。え、かっこつけってこと? でもこれ、女の人がよく吸ってるやつだよ?」

 ……どうして俺は正直にタバコを渡してやったのか。

 どうする。下手にごまかしてもこいつには通じなさそうだし、どうせ馬鹿にされるなら正直に話すか。俺はワイシャツをバサバサやりながら、さもどうでもいいことのように話し始めた。

「親戚の、女の人が吸ってるのを見て。なんかいいなと思ったから。別に俺は吸わないけどさ」

 これまでの経験から考えると、嬉々としていじってきそうな気がしたが、早見は予想外に「ふーん」という反応だった。

「その人って、どんな人?」

「……あんま話したことはないんだけど。年は多分二十代後半くらい。母さんから聞いた話だと、この近くの化粧品会社で働いてるとかなんとか」

 背が高くて、華やかな顔立ちの女の人だった。いつも、仕立ての良さそうな、黒のニットにジーンズを合わせてて、ボブカットの黒髪が大人っぽい人だった。

 タバコの煙と一緒に、「大人の女性」の雰囲気をまとっていて、なんだか子供の自分には近寄りづらい人だった。

「ふーん。いいの、もらっても」

「いいよ、どうせ俺は持ってても吸わないんだし」

 それじゃ遠慮なく、と早見は一本取り出して、口にくわえる。こいつがいつも吸っているのに比べると、お菓子みたいに細い。ライターを近づけて火を点けると、遠くを見つめるようにしながら煙を吐き出した。

 甘酸っぱい、果物みたいな香りが、初夏の空に溶けていく。

「須賀はさ、その人のことが好きなの?」

「んー……よくわからん」

 どうなんだろうか。実際、そういう「好き」とかよくわからない。高二にもなって。

 早見は一瞬だけ遠い目をして、「そっか」とつぶやいた。こいつは頭がいいから、俺よりもそういうことはよくわかってるのかもしれない。でも、こいつの口からは聞きたくないから、話題をそらす。

「お前はさ、タバコの種類にこだわりとかあんの」

 早見は突然話題が変わったのを気にすることもなく、ピンク色の箱をこちらに返す。

「別に。父さんの吸ってるやつ、拝借してきてるだけだから」

「ふうん、そうか。お前の父さんって何してる人?」

「大学の先生」

 一度だけ、見たことがある。三者面談の時だったか、早見が五十歳くらいのおじさんと一緒に学校を歩いているのを見た。茶色のツイードのジャケットなんか着てて、かっこいい人だと思った。

 とても厳しそうな人だとも、思った。

 早見が優等生面しているのはいつものことだが、そのときはいっそう、その仮面を深く被っているように思えた。

「まじかよ。お前って色々と筋金入りだな」

「悪かったね。……父親のことはソンケーしてるけどね。ま、親子というものはなかなか難しい、なんてね」

 短くなったタバコを筒型の灰皿に押しつける。そのままぐりぐりやると、鞄を持って立ち上がった。そして、早見の言葉がなんだかひっかかっている俺を見下ろし、

「昼休み終わるよ、帰ろう」

 やっぱりこいつはよくわからん。



   3


「ねえねえ、須賀って童貞?」

「は……? なんだよ、いきなり。……そう、だけど」

 夏休みまであと少しという、七月のある日の昼休み。なんだかおかしなテンションの早見が、心なしか目を輝かせながら聞いてきた。

「あ、やっぱり? 前々から童貞っぽいなーって思ってたんだよね」おちょくるような口調が、いつも以上に腹が立つ。

「ほっとけよ! 十七歳で童貞って、別に普通だからな!」

「えーうそだー。こないだ読んだ雑誌に男子の平均年齢は十五.四歳だって書いてあったよー」

「あのな、ああいうのは調査対象が偏ってるだけであってな……」

 だいたいお前はそういう雑誌読むのか。

「そういう変な言い訳するあたりが童貞っぽいよねー、童貞くん」

「うるさい、童貞って言うやつが童貞なんだよ」

「なにそれ、だいたい僕は童貞じゃな――あ」

 早見はあせって口を噤む。夏の屋上に微妙に気まずい沈黙が流れる。

「誰と」

「誰とって……?」

「誰とやったんだよ。お前、彼女いるとかそういう話してなかったじゃねえか」

 別に早見が誰とやってようが、俺には関係ない。

 関係ないのに、どうしてこんなに苛々するんだ。

「名前は知らない……何と言うか、成り行きだったし」

 気まずそうな、でもどこかあきらめたよう口調で早見は話し始める。

「昨日の夜。予備校の帰りに公園通ったら、一人でベンチに座ってタバコ吸ってる女の人がいて。わけありっぽかったし、最初は放っておこうって思ったんだけど。やっぱり後で何かあったら嫌だしさ、声かけたんだよ」

 そしたら泣かれちゃって。後はまあ、成り行きで。

 そう言って、最後まで俺と目を合わせないまま、早見は話し終えた。

 なんとも、まあ。

 こういう話を聞いたとき、どういう反応をすればいいのか。童貞の俺にはよくわからない。そういえば今日はまだ、早見はタバコを吸っていない。

「一つ、聞いていいか」

「うん……」

「こういう話に流れるってわかってて、なんで童貞云々の話振ったんだ」

 こういう風に気まずくなるのがわかってて、だ。

 早見は少し考えると、

「さあ……なんだかんだで、浮かれていたのかもしれない。あと、須賀が童貞かどうかは普通に知りたかった」

「はあ? 後半、おかしなこと言ったぞ」

「だから! 須賀にとって自分が童貞かどうかは割と大事な問題だろ。須賀にとって大事なことは、僕にとっても大事だよ。友達なんだから」早見の声はどんどん小さくなっていった。

 あまりに必死なその様子に、俺はつい吹き出してしまう。

「ふっ……何言ってんだよ、お前。意味わかんねーし」

「うるさいなー。いいじゃん、この話はもう終わり、終了」

 紙パックのミルクティーを飲み干すと、くわえたタバコに火を点ける。ばつの悪そうな顔はそのままで、白い煙を吐き出す。

 ほのかに、バニラの香りがした。

「あれ、お前タバコ変えた?」

 早見は、今気がついたという風にポケットを探り、タバコの箱を取り出した。白地に「CASTER」と印字してある。

「ああ、もらったんだよ、その人から。『いつもと違うの吸って気分替えようと思ったけどダメだったー』、だってさ」

 早見はその日、その一本だけ吸うと、あとはただぼうっとして空を見ていた。

 早見の後に続いて階段を降りている間、俺は初めてあいつの口から出た「友達」という言葉を、心の中で繰り返していた。


 その日の帰り道、雑誌を立ち読みしに寄ったコンビニで、俺は思いがけない相手を見かけた。

 レジに並んでいた、社員証を首から提げた会社員らしき女性の二人組。一人は栗色のロングヘアで丸っこいフレームの眼鏡をかけている。

 問題はもう一人の方だった。

 耳のあたりで切り揃えらえたボブ、黒っぽいシャツに細身のスラックス。

 ――背が高くて、華やかな顔立ちの女の人。

「あ」

 俺はズボンのポケットに入っている、タバコの箱にそっと手をかける。あの人だった。会社がこの近くとは聞いていたけど、親戚の集まり以外で見かけるのは初めてだった。

 どうやら向こうはこっちには気づいていないらしい。俺は手元の雑誌に集中しているふりをしながら、視界の端に捉えた二人の様子に全神経を集中させる。

「あれ、あんたまたタバコ買うの。昨日一箱買ったばっかじゃない。そんなに吸う人だったっけ?」

 眼鏡の女性が先に会計を済ませているあの人に話しかけている。あの人は少し困ったように笑うと、

「ああ、うん。あれね……あげちゃった、高校生に」

「はあ? 高校生って、ちょっと、どういうことよ」

「うーん……まあ、ちょっとね」

 あの人は店員からおつりを受け取ると、先に出口に向かって歩いていく。

「あ、ちょっと! ……なんであんたはまたそういう――」

 眼鏡の女性は素早く会計を済ませると、あの人を追いかけて店を出ていった。

 俺は雑誌をラックに戻すと、ガリガリくんのソーダ味を買って帰った。



   4


 明くる月曜日。昼休みの屋上で、早見はいつものようにタバコをふかしながら壁に寄りかかっていた。タバコじゃなくて文庫本の方が似合うキャラのくせに、そういう気怠いポーズも様になっているところがむかつく。

 ああ、まったく。むかつくやつだ。

「今日の数学の小テストさ、僕らのクラスで習ってない問題も出てたよね。絶対先生勘違いしてると思っ――」

「早見」

 俺は早見の言葉を遮ると、向かい合って立つ。

「な、なに。怖い顔だよ、須賀」

「もともとだ、ほっとけ。そんなことより」

 ああ、くそ。暑い。毎年夏になると、いつも、夏ってこんなに暑かったっけって思ってる気がする。

「一発殴らせろ」

 早見は少しだけ目を見開いたが、すぐに目を細めると、悲しいんだか嬉しいんだかよくわからない表情を見せる。そして、くわえていたタバコを口から離す。

「……いいよ」

 ごつっ、という鈍い音。

 コンクリートの地面に落ちた眼鏡。フレームが曲がったりしていないといいが。

 早見は痛がる素振りも見せずに俯いている。なんで、そんなに達観したツラでいられる。

「お前、まさか知ってたのか」

「まさか。須賀からは何も聞いてないんだよ、わかるわけない」

 自嘲するように、吐き捨てるように。

「わかるわけないけどね。後から思ったんだよ、なんとなくだけど。須賀が好きになりそうな女の人だなって」

「うるせえ、別に好きとかそういうのじゃねえ」

 そんなんじゃ、ない。

「なんなんだよ、お前。なんでそんな何もかもわかってるんだよ」

 優等生のくせに。俺の他にも、仲いいやついっぱいいるくせに。

 早見の顔が寂しそうに歪む。

「友達だから。須賀のことはわかるし、わかりたいよ」

 すっかり短くなったタバコを消すと、新しい一本に火を点ける。

「僕はね……ま、見ての通り優等生だよ。厳格な家庭に育って、成績は優秀。教師やクラスメイトからの信頼も厚い。マンガのキャラみたいな優等生くん。でも、須賀も知ってる通り、屋上でタバコをふかすような不良高校生でもある」

 いつも俺と話すときと同じような飄々とした口調。だが、そこに口をはさむ余地はなさそうだ。それにしても、殴った右手がじわじわと痛い。

「自分ではなんで吸うようになったのかはよくわからない。……ただ、現状への不満みたいなものはどこかにあったとは思う。おそらく自分は、これから推薦でそれなりの大学に入って、それなりの会社に就職して、それなりに幸せな人生を送るんだろうなって」

「約束された人生なんてまっぴらだってか? だっせ、ドラマじゃねっつの」

 不満、か。お前みたいに全部持ってるやつが、そういうこと言うなんて反則じゃないか。

「ドラマかあ。確かにね、今言ったセリフはどこかで聞いた言葉の引用でしかない。だってしょうがないじゃないか。僕自身、自分の気持ちを的確に言い表す言葉を思いつかないんだから」

 早見は、諦めているようにも、苛立っているようにも見えた。言いたいことが伝わらなくてもどかしそうにしている。数学の時間、だれよりもわかりやすく数式の証明をしてみせるこいつが、だ。

「……で、なんの話だよ」

「結局のところ、さ。僕は幻滅してほしかったのかもしれない。わざわざ学校の屋上でタバコを吸い始めたのも、誰かに見つけてほしかったんだよ、きっと。そして、今までの僕のイメージをぶち壊してほしかった。でも、来たのは須賀だったからねえ」

 がっかりしてるような、でも嬉しそうな声。

「僕がタバコ吸ってんの見ても、イメージと違うことしてても、ナチュラルというか。……気楽だったよ、とっても。君と友達になりたいって思ったし、なれたと思ってた。でも、上手くいかないものだね」

 ふうっ、と長い息を吐く。白い息が、七月の空に昇っていく。

 早見らしくない、要領を得ない話だった。

「言いたいことはわかった、なんとなくな」

 少しだけ、期待するように早見は顔を上げる。

「須賀っ――」

 早見、俺もお前とは友達になりたかったよ。

「でも、俺はお前なんか大嫌いだ」

 俺はそのまま、早見の横をすりぬけて、屋上から出ていく。

 ドアが完全に閉まる間際、屋上の方を振り返る。早見はどこか遠い目をしていた。

 

 次の日、早見は学校に来なかった。後で聞いた話によると、帰り道に、制服のポケットからタバコを落とすところを、偶然にも交番の警官に見られたらしい。

 クラスの連中は、先生も含めて信じられないといった様子だった。

 処分は、一週間の停学らしい。

 俺は、一週間も休んだらそのまま夏休みだな、と思った。



   5


 八月に入って、いよいよ暑い。

 夏休みに入る前。日差しをもろに受けながら、わざわざ屋上で昼飯を食べていた俺は、どうかしていたのかもしれない。

 外に出て歩き出すと、買ったばかりのTシャツが、すぐに背中に張り付く。ごわごわした生地が気持ち悪い。かっこつけて洗いざらしのものを買ったせいだ。

 でっかいバッグを肩にかけて自転車を漕いでいる運動部の生徒、夏期講習の帰りらしい中学生のグループ、犬の散歩をしている夫婦。住宅街を歩く俺の目には、夏休みらしい情景が映る。俺もあいつの家に行く用事が無ければ、夏休みらしく家でだらだらしているはずだったのだが。

 汗だくになりながら、少し高級そうなマンションの前で立ち止まる。

「ここ、だな」

 目的の部屋の前に行き、インターフォンを押す。表札にはきれいにレタリングされた文字で、「早見」と書いてある。

「……はい」男の低い声で応答があった。

「あの、はやみく……誠司君の友達の須賀っていいます」

 ドアが開いて、早見の父親が顔を出した。家の中なのに、きっちりと糊のかかったシャツを着ている。

 かすかに、タバコのにおいがした。早見と同じにおいだ。当たり前か、父親のものを失敬しているって言ってたからな。

「誠司に、何か用かな」

 お腹に響くような、穏やかな話し方。どんな相手とも対等に接しようという思いが込められた話し方だ。

「えっと、ちょっと話があって」

 早見の父親は、俺のことをじっと見つめると、

「誠司は屋上にいる。……多分タバコでも吸ってるんだろう」

 その口調に咎める様子はなく、「まったくしょうがないやつだ」というような爽やかな言い方だった。


 マンションの屋上は、高校のとは違ってきれいに整備されていた。このマンションの場合、もともと人が憩う場所として設計されているからだろうか。庭のようなものまである。

 早見は、中央のモニュメントに寄りかかって、白い煙を吐き出していた。

「停学になった理由、少しは考えろよ」

 早見がこちらを向く。メガネはフレームがないものに変わっていた。

「須賀……」

 いつもは何もかもわかっているように見えた瞳が、今は揺れている。

「やる」

 俺はポケットから取り出したものを放る。

 早見は片手でそれを受け取る。ピンク色のピアニッシモとかいうタバコ。早見は、タバコの箱とこちらを見比べるようにして、

「……いいの?」

「俺は持ってても吸わないし。誰かさんみたいに、人に見られて停学にはなりたくないからな」

 早見は気の抜けたような笑みを見せる。

「そうだね、停学なんだよねえ。どうしよう、大学は推薦で行くつもりだったのに。ちゃんと勉強しなきゃだよ。困った困った」

 言葉とは裏腹に、常に学年上位にいるこの優等生はあまり困っているようには見えない。

「クラスのみんな、あれからどうだった?」

「別に。ま、びっくりはしてたけどな。お前がタバコ吸ってたくらいで、クラスにそんなに影響はないっつの」

「はは。そんなもんかあ」

 早見は吸っていたタバコを消すと、俺の渡した方から一本取り出す。が、くわえようとして、やはり箱に戻した。

 煙が途切れて、あたりは夏の空気に支配される。

 高二の夏、か。

「きっと、これからもお前のことを殴りたくなる時はあると思う」

「うん」

「でも、それとお前と友達じゃなくなることは、別の話だ」

「うん、どういうこと?」

「そういうことだ」

「そういうことかい」

 真夏の日差しが照りつける。早見はこんな中で帽子も被らないで、よく平気だな。

 眼鏡をかけた優等生は、KENTの箱から一本取り出すと口にくわえる。

「僕が吸い始めた理由、話したことあったよね」

「ああ。なんだっけ、本当の僕を見てほしい的なださいやつだっけか」

「その言い方はひどくない? ま、よく考えたら、本当の理由はそのださいやつですらなかったんだけどね。タバコを吸っているのが本当の自分ってわけでもないし」

「じゃあ、なんなんだよ」

「……多分、須賀のと似たようなものだよ」

「?」

「須賀はさ、年上のお姉さんへの憧れみたいな理由でタバコを持ち歩いてたわけじゃん」

「殴るぞ」

「ちょ、暴力はやめてよ。こないだ殴られたところ、尋常じゃないくらいの青あざになってたんだから」

 だろうな。俺もしばらくの間、殴った右手が痛かった。

「でも、大枠はそんなものでしょ? 僕のもそれと同じようなものだよ。憧れっていうか、真似事っていうかね」

 憧れ。真似事。

『父さんの吸ってるやつ、拝借してきてるだけだから』

 高校の屋上で早見が言っていたことを思い出す。

 ん? つまりはそういうことなのか?

「それはまた、微笑ましいというか……」

 随分と子供っぽい理由で……。まあ、違法だけど。

 ――学校に近いからか、吹奏楽部の練習する音が聞こえてくる。運動部の掛け声も。

 紛れもない、夏の音だ。高校生が青春してる、八月の音。

 俺たちにはそういうのは無縁かもしれない。

 けれど。

 八月の屋上で日差しをガンガン浴びながら向かい合っている二人の高校生ってのも、夏の情景としてはまあまあ悪くないんじゃないか。

 早見の吐き出す煙が、夏の空に昇っていく。

 八月の屋上の空に、溶けていく。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 初夏の雰囲気が漂う清々しい作品でした。
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