Grim Reaper - cry
時計の針が進む。
昼休みまであと数分。誰かの腹の虫が鳴ると、くすくす笑い声が聞こえる。
黒板の書かれた文字を書き写している者は少ない。教科書に書かれていることが、そっくりそのままだった。わざわざノートに書かないでも、重要な部分だけ、教科書にマーキングすればいい。
柏木秀樹は、黄色い蛍光ペンで装飾された教科書を閉じた。何度も読んだ教科書だった。昨日も予習をしていた。ほとんど頭の中に入っている。
時計の針が終業の時刻を指した。
挨拶もそこそこに、男子生徒は教室を飛び出していった。女子生徒も、机を移動して小さい弁当箱を出し始めた。
秀樹は、彼らの時計の針から目を背け、席を立った。
サッカーボールを蹴る生徒、バレーボールを弾く生徒。
彼らの顔には一様に時計が刻まれていた。フェイスペイントが流行っているわけではない。誰も意識すらしていないのである。
不思議と思っているのは、秀樹だけだった。見えるのは、自分しかいないからだ。
針が動く。
皆、一様に時を刻む。
校舎に掲げられた時計と同じように、一分一秒を正確に刻む。
死に向かって。
秀樹は頬に手を当てた。
何もない。
鏡を見ても、自分には時計がない。
何故、と思うよりも、悲しい。
自分だけ違う。
孤独感。
仲間外れにされている。
それは思いこみだとわかっている。
クラスメイトに話しかければ、普通に会話ができる。いじめられているわけではない。むしろ、勉強を教えてくれと頼まれることもしばしばだった。
なるべく、顔を見ないようにしていたから、内気な人間だと思われていた。ことあるごとに、仲間に入れようと誘ってくれる優しいクラスメイトばかりだった。
でも、一歩引いてしまう。
怖かったからだ。
いつか、自分に時計がないことがバレてしまうことを恐れていた。
そんなわけはないのに。
誰も見えないのに。
秀樹はベンチから腰を上げた。
「あ」
ぼうっとしていた。
足の裏に嫌な感覚があった。
おそるおそる足を持ち上げると、カマキリが潰れていた。
「ごめんなさい」
思わず声が出た。
カマキリの時計は止まっていた。それは、死だ。
針が消えた。
同じだった。自分と同じ、時計のない姿。
死んだ。
死んでいる。
自分もだろうか。
秋が訪れていた。
木々の葉は落ち着いた色になり、目に優しかった。
秀樹は、窓際の椅子に腰掛けて本を読んでいた。本は好きだった。書いてあることは、いつ開いても同じで、変わることがない。変わらなければ永遠だ。ずっと、あり続けられる。
かすかな動きを感じて、秀樹はしおりを挟んだ。
「おはよう」
目を覚ました春香に小さく声をかけた。
大きな目をした従姉は、二つ上の大学生だった。ほんの数日しかキャンバスに通えなかったけれども。
「……おはよう」
夕暮れだった。まもなく、陽が落ちる。
「また、来てくれたの」
白い顔が微笑んだ。唇が乾いていた。秀樹は湿らせたガーゼで拭ってあげた。
「ありがとう」
弱々しい声が、秀樹を鋭く抉った。
長くはない。
医者はそう言っていた。
いつ旅立ってもおかしくない。覚悟をしておくように。
それから数週間が経っていた。
点滴の終わりが近い。ナースコールを押した。
「何か食べる? プリンがあったと思う」
「いらない。秀樹が食べて」
それだけ言うのも苦しそうだった。
秀樹は黙って、彼女の針の動きを見た。
「どうしたの。怖い顔をして」
咳き込んだ彼女の口元を湿らせて、秀樹は微笑んだ。笑うしかなかった。
看護士の女性と入れ替わりに、秀樹は部屋を出た。
「また明日来るから」
やつれた顔を見られるのは、辛いだろうと思った。綺麗だった髪の毛も抜け落ち、眉毛もない。化粧でうっすらと描いてあっても、じっくり見ればわかってしまう。だから、彼女が起きていいる時間は、あまり長居しないようにしていた。
彼女は女性だ。
秀樹は男だ。
従姉がどう思っているかわからなかったが、ずっと好きな人だった。
彼女に余命は宣告されていない。だから、彼も告げられない。
いつか治る。そう思っているに違いない。
身体がいくら蝕まれようと、本人に知る術はない。知っているのは、医師と親戚である秀樹の家族だけだった。
彼女の両親はすでに他界していた。数年前から、秀樹と同じ屋根の下で暮らすようになり、兄弟のように育った。秀樹自身は、兄弟と思ったことは一度もなかった。一人の女性としてしか、見られなかった。
風が強くなった。
落ち葉が目立ち始めた。
教科書を開いた。
角がすり切れて白くなっている。裏表紙には従姉の名前が書いてあった。別々の学校だったが、使う教科書は同じものだった。
試験に出そうな箇所には、すでにマーカーが引かれてあった。要所要所にコメントが書いてある。筆で書いたようなバランスの取れた字だった。変に丸みを帯びることなく、読んでいて頭の中にすっと入ってくる。一読しただけで、充分な予習になる。
窓ガラスが風で揺れた。
落ち葉が舞っていた。
秀樹はカーテンを引いた。
見たくない光景だった。
夜。
悲鳴を上げた。
耳は、静けさを聞いていた。
自分の声を聞いたのは、自分だけだったようだ。風の音もやんでいた。
秀樹は悪寒を感じた。
汗まみれの服を脱ぎ捨て、ジーンズとジャケットに着替えた。
ひどい胸騒ぎだった。
行くところは決まっている。春香のいる病院だ。
胸が締め付けられた。
消えているはずの病室の灯りが点いていた。
走って、駆け上った。
顔なじみの医者が病室から出てきた。
「柏木くん」
「春香は、まだ」
「ああ」
何故、もう来ているのだ、とその目が問いかけていた。秀樹は頭を下げて病室のドアを開けた。
静かな部屋だった。
汗まみれの従姉の姿があった。鎮静剤を投与されているようだった。
秀樹は夕方座った椅子に腰掛けた。
「ちょっと早く来ちゃったよ」
汗を拭った。苦しそうだった。唇から血が出ていた。噛みしめたのだろうか。
「苦しい?」
答えはない。答えられない。
おそるおそる手に触れた。
彼女に触れた記憶はほとんどなかった。
家に来たときから、いや、その前から女性として意識していた。だから、安易に触れ合うことなんてできなかった。手を握ったのは、子供の頃以来だった。
熱かった。そして、あまりにも細かった。皮膚の下は限りなく薄い。
「春香」
涙声だった。そんな声を聞いたのはかつてなかった。彼女の境遇を知っているから、弱音を吐くことは恥だと思っていた。
「プリンでも食べようか」
彼女は二度と口にできない。
時計の針は刻まれる。
一刻、一刻と、着実に。
手がきつく握られた。彼女の眉間に皺が寄っていた。秀樹は握りかえした。
「秀樹」
まつげの抜け落ちた瞼から、雫が伝った。
「春香」
少し目が開いた。溜まっていた涙がこぼれる。
唇が震えた。震えるばかりで言葉にならない。
苦しいよ。
そう、聞こえた。
薬が切れた。いや、効かないんだ。もう、痛みを抑えることさえできない。
「辛いよね」
痛みは、共有することができない。他人の痛みだから、想像はできても、自分のものとして実感できない。
代わってあげることもできない。
分かち合うこともできない。
でも。
なくすことなら、できる。
秀樹は知っていた。痛みを和らげるのではなく、まったくなくす方法を知っていた。
ただ、そうする勇気がなかった。
ずっと決心が付かなかった。
一歩を踏み出すことができなかった。
好きだ、と告げることさえできない自分が、本当にそんなことができるのか。
「僕は……ずっと好きだった。春香が、好きだ」
答えはない。
彼女の身体が眠りを欲していた。
「春香」
秀樹は優しく唇に触れた。
そっと。
思い出が蘇る。
初めて出会った幼い日。
公園で遊んだ日々。
養女として迎え、ひとつの家族になったあの日。
二人の思い出は一緒だった。
その胸に育んでいた想いもまた、同じものだった。
「そうだったのか」
秀樹は、春香の記憶を受け止めた。
彼女が持っていた思い出とともに、その時の感情まではっきりと伝わってきた。魂の隅々まで、共有することができた。
それが口づけによるものだと知っていた。時計のない自分は、誰かの時を壊すことができる。止めるのではなく、破壊する。
そして、奪う。
秀樹は涙を堪えきれなかった。溢れるものは、流れるに任せた。
心の底から湧き起こる悲鳴だけは押し殺した。泣き叫べば、彼女から受け取ったものが、どこかへ行ってしまいそうだった。
そんなことはさせない。
自分の中に、彼女との思い出と、魂の記憶をしっかりと繋ぎとめた。
大切にする。
ずっと、忘れない。
永遠に背負っていく。
僕は、人殺しなのだから。
彼女の時計はなくなった。
でも、胸の中にある彼女との時間は、生涯なくならない。