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「そのままでいてください」
凛とした声音が空気を冴え渡らせ、紫乃は一瞬手を止めてしまった。羽織をずらして視界が開けたとき、左手を前方に掲げる結月の姿が見えた。
「この身を寿星に亨す」
光に満ちていた空間が一気に重苦しくなる。じわりと畳に墨のようなものが滲んだと思った途端、それは黒薔薇を模した。
荊棘と薔薇が上方に伸び続けて白髪の青年を飲み込もうとする。しかし、触れる前に焼けて地面に落ちていった。それが幾度となく繰り返される。いつの間にかじわりと結月の白い毛先が墨色に変わって、紫乃は息を詰めた。しかし、冴えた声がその不安を一掃する。
「依代の君の名のもと、ここに正常を体現せよ」
弾かれるように黒薔薇が霧散し、光の粒子が青年の周りを舞う。その一連の光景はいっそ神々しかった。
しかし、結月の毛先と指先は黒ずんだままだ。彼の周りに満ちていた光が鳴りを潜めると、玄関口から忙しなく足音が聞こえてきた。
慌ただしく部屋に入ってきたのは暁斗だった。息を乱すこともなく、彼は結月と紫乃を見やる。
「表は散らした。じきに討伐隊の検分班がくるはずだ」
分かったと結月が返事をすると、暁斗の視線が紫乃に向いた。紫乃は頭に中途半端にかけられた羽織を慌ててどける。それを見届けると、暁斗が少し離れた位置に腰を下ろした。
「お話の途中でしたね。天宮家としてはぜひ紫乃様、ならびに住吉家と懇意にさせていただいと考えている次第ですが」
「こんなときに何を言っているんだ」
結月の声には明確な怒気がこもっていた。それと相反するような冷たい声が真正面からぶつかる。
「こんなときだからだ。この直近の禍弥の動向、お前はどう見ている?」
暁斗の指摘に結月は言葉を詰まらせる。しばらく誰も口を開かない。長い沈黙を経たあと、先に暁斗が口火を切った。
「この一週間、禍弥が帝都に出現することが多くなった。中央通りに及んだ例もある。帝都の端に現れることは多々あっても、中央までということは珍しい。考えられる要因は、お前と紫乃様の接触だ」
「わ、私、ですか?」
思いがけないところで自分の名前が上がって、紫乃はうろたえてしまう。暁斗はそうですと相槌を打つと、更に続けた。
「紫乃様と接触したことによってお前の禍弥化が寛解した。詳しいことは調べないと分からないが、何かしらの要因で紫乃様の異能が上手く作用したのだろう。禍弥が一番脅威だと思っているのは結月、お前だ。お前に強力な助力が加わるとなれば、禍弥はお前と協力者を本能的に排除し始める。……お前もそう推察していると思っていたが、違うか?」
部屋の中が痛いほどの静寂で満ちる。その沈黙は暁斗の問いに対する肯定と同義だった。
紫乃の全身から血の気が引く。確かにここ数日、近隣で禍弥が出現することが多かった。まさかそれが自分の異能のせいだなんて思いもしなかった。バクバクと心臓がうるさいぐらいに早鐘を打つ。
「紫乃様の身の危険を考えると、誰かがそばにいた方がいいのは一目瞭然。それなら……」
「僕は誰とも婚姻を結ぶ気はない」
「お前の望み通りのお方が現れたんだぞ。約束を反故にするつもりか?」
頭が痛い。体が異様に寒い。言い争う声がやけに遠く聞こえた。気を確かに持たなければと思うほど、焦燥に飲み込まれていく。強い眩暈に襲われた瞬間、紫乃の視界は暗転した。
ゆっくりと目を開けると薄暗い世界が視界に入った。紫乃は横になったまま辺りを見渡す。
部屋に置かれた行灯が柔らかく辺りを照らしていた。見覚えのない襖の柄を目にして、紫乃は自分が天宮家を訪れていたことを思い出す。ゆっくりと体を起こすとそばに水差しと鈴が置かれていることに気がついた。
それを見た途端、急激に喉の渇きを覚えた。強張っている手を何度か握ったり開いたりして解してから、紫乃は水を一杯いただく。水を飲んでようやくふわふわとしていた気持ちが落ち着いた。
人の気配はあるものの、誰も訪れる気配はない。わずかに逡巡したが紫乃は鈴を鳴らすことにした。チリンという涼やかな音が鳴ると、少ししてからカナエが姿を現した。
「お気づきになられてよかったです」
カナエは心底安堵した様子でそう言った。どうやら仕事を終えたあと、隣の部屋で待機していてくれたらしい。お医者様を呼んできますねと告げると、彼女はすぐさま部屋を後にした。
しんとした空気が心をざわつかせる。程なくして、白衣を着た五十代ぐらいの男性が訪れた。異能一族の中で医者をしている方で、天宮家もよく世話になっているのだという。
「今お辛いところはどこかありますか?」
「強いて言うなら……まだ頭が、ぼんやりしています」
診察は穏やかな雰囲気で始まった。血圧や脈などの測定から始まり、諸症状がないか確認すると医師は紫乃の手を取った。
「少々失礼いたしますね」
そう告げて彼は目を伏せる。何事かと紫乃が思っているうちにじんわりと気が同調するのを感じた。気の流れに干渉される感覚がする。どのくらい経っただろう。医師はゆっくりと目を開けると穏やかに微笑んだ。
「おそらく、異能を急激に使った反動が来たのだと思います。まだ、異能を使うにはあなた様の器が小さいのでしょう。鍛錬すればだんだんと器が大きくなり、負担が軽くなるのではないかと思います」
自分が倒れた理由については十分に理解できた。しかし、なぜ今まで異能が使えなかったのか腑に落ちない。それについての医師の見解はこうだった。
「元来、通るべきだった管が閉塞していたのでしょう。それが結月様の浄化の力で改善されたのではないかと推察します。紫乃様の以前の状態を診ていないので確証はありませんが、その詰まりはおそらく強力な呪詛だったのかと。よっぽどの力がない限りお相手様との相性にも左右されますから、仙道家の方でも呪詛を完全に祓うのは難しいと思われます」
医師の説明で長年の疑問がすとんと腑に落ちた。仙道家でも強力な呪詛を祓える力量がある者は限られる。仙道家の人間でも祓えない呪詛だったことから捨て置かれたのだろう。いや、それ以上に家門の矜持のために他へ依頼をするわけにはいかないと考えたと見える。しかし、今それを推し量っても意味はないのだと気がついて、紫乃は考えるのをやめた。
体自体に異常はなく、医師からは休息をよく取るように伝えられた。医師が退出したのを見計らってカナエが先に口を開く。
「ご家族様には紫乃様が体調を崩されたので、こちらで一晩様子を見させていただくという旨の連絡をしています」
父に連絡が入っていると聞いて紫乃は安堵する。聞けばもうずいぶん遅い時間で、屋敷の外はとっぷりと暗くなっていた。カナエが話してくれた通り、今晩は天宮家で厄介になるほかなさそうだった。
自分が置かれている現状を理解して、紫乃はカナエに頭を下げた。
「ありがとうございます。今日もご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」
「紫乃様が謝ることなんてありません! 紫乃様の調子が悪いことも気づかずにお二人とも言い争って、本当にもう……。その点は結月様にはきちんと私から進言しておきますから、安心くださいませ」
カナエは力拳を胸に当ててそう言い切った。使用人が主人に物申すなどありえなくて、紫乃はぽかんとしてしまう。それを察したのだろう、カナエは朗らかに笑ってみせた。
「ああ、大丈夫ですよ。至らないところはきちんと報告してくれと、結月様から仰せつかっていますので」
普通ならありえないことでも、この屋敷では日常なのだろう。結月がカナエたちと従来の主従とは違った関係――対等に近しい関係を尊重しているように感じられた。
思い返せば、今日の結月の言動の節々には紫乃に対する気遣いが感じられた。禍弥が屋敷に現れたときも、さりげなく自分を庇ってくれた。面と向かったとき、あれほどの無表情を見せていたのにもかかわらずに。紫乃は一日の様子を思い返して、ふっと顔を緩める。
「いえ、結月様には十分お気を使っていただいていました」
紫乃の言葉にカナエは目を見開き、そうですかと言って彼女は微笑んだ。
結月たちに話が及び、紫乃はかねてから気になっていたことを口にする。




