5ー4
外と内の境界線。影から見る外はいっそ眩しい。溶けてしまいそうだと不意に思った。その隣を一つの影が通り過ぎていく。
長い髪がさらりと風に流れ、揺れ踊る。紫乃は道の先で柔らかに微笑んでいた。
「結月さん」
たったそれだけ。けれど、その声が止まっていた足を動かした。門を越えて、暑い日差しの中へと足を踏み出す。
途端に視界が明るくなり、眩しくて目を細める。程なくして光に慣れ、結月は人が行き交う道に視線を向けた。
元気に走り回る子どもたち、人を乗せて運ぶ人力車や馬車。軒先で挨拶を交わす女性たちの姿が目にとまる。夏の香りを孕む温い風が通り過ぎ、頬と髪を撫でていった。ああ夏はこんなに暑かったんだと、なぜかそんなことを唐突に思った。幼い頃に見ていた四季折々の風景が脳裏に蘇る。
眩しくて暑くて、生命に満ちた季節。識を連れて外に出かけたときのことが鮮明に蘇る。恐れも《依代の君》の責務も知らなかった。萎縮せずに《天宮結月》として生きていた時代だ。懐かしくて、少しだけ息苦しい。
「行きましょう」
いつの間にか紫乃が横に立って手を握っていた。結月は驚いたが、すぐに微笑んで手を握り返す。二人は手を繋いだまま太陽の下を歩き出した。
乗合馬車に乗って住吉家の周辺までくると、紫乃の案内のもと二人で周囲を散策した。商店が立ち並ぶ区画なので通りはそこそこ賑やかだ。日用雑貨を取り扱う店、呉服屋、和装飾の専門店、駄菓子屋などが立ち並ぶ。様々な店を見ながら歩くだけでも楽しい。その反面、まだどこかふわふわとしていて実感がない。街中をきちんと自分の足で歩いているのにもかかわらず不安が浮かぶ。そのたびに紫乃が手を取り、指を絡めてくれた。
歩き疲れたところで紫乃がお勧めしてくれた甘味処で足を休めることにした。店内はそれなりに盛況だ。程なくして席に案内され、結月と紫乃はお品書きと睨み合う。あれこれ悩んだが、結局二人ともあんみつを頼んだ。
運ばれてきたあんみつは寒天、みかんや白桃、白玉などが彩りよく盛られていて見目鮮やかだ。器の奥に主役の餡が鎮座している。黒みつをかければ店自慢のあんみつが照りを増した。
白玉に餡を添えて食べると、上品な甘さが口に広がる。白玉の弾力のある食感が楽しい。寒天は口に含むとほろりと形を崩す。こうして外に出て誰かと食事を取るなんていつぶりだろうか。
「甘さ控えめで美味しいですね」
「夕凪亭の餡がお好きなら、ここもお口に合うんじゃないかと思って」
嬉しそうに紫乃が笑う。それだけで外に出かけてよかったと心から思った。あんみつを十分に堪能して、二人は店をあとにする。
「あー、母ちゃん! 紫乃姉ちゃんだよ!」
外に出たところで声をかけられ、紫乃が足を止めた。そこにいたのは幼い男の子を連れた女性だった。女性を見て紫乃は顔を綻ばせる。誰かと視線で問うと、彼女はそれを察してすぐに答えてくれた。
「道具屋の常連さんなんです」
紫乃の返答の間に女性と少年が早足で歩み寄ってくる。女性は紫乃に近づくと相好を崩した。
「紫乃ちゃん、久しぶりだねぇ! 急に嫁いだって聞いて、本当に驚いたんだから」
「三島さん、お久しぶりです。ご挨拶がないまま、すみませんでした」
頭を下げる紫乃に対して、いいんだよそんなこと三島は笑う。次いで紫乃に向いていた視線が隣に立つ結月に移った。ぽかんとした様子で見つめる三島に対して、結月は微苦笑を浮かべる。
「もしかして、旦那さんかい?」
「はい。和久結月と申します。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
和久というのは結月の母の旧姓だ。結月は立場が特殊なため、異能者以外と関わる場合はこちらで名乗ることにしていた。三島はまじまじと結月を見ていたが、やがて神妙そうな顔をした。
「はあ……。これはまた、すごい色男だね。しかし、体はどうなんだい? 大丈夫なのかい」
結月はわずかに目を見張る。病弱という話を聞いていれば、妻を養えない甲斐性のない男など蔑まれても致し方ないと思っていた。しかし、三島の言葉と表情は純粋な気遣いだと感じた。
「お気遣いありがとうございます。薬や食事など気を使ってもらっていまして、お陰様で最近はずいぶん調子がいいんです」
「それなら良かったよ。いい嫁さんもらったねえ」
「はい。自慢のお嫁さんです」
それは嘘偽りない本心だった。満面の笑みを浮かべて答える結月を見て、紫乃は頬に朱を注ぐ。そんな二人を前にしてお熱いねえと三島は嬉しそうに笑った。
「おい、あんた!」
そんな和やかな空気に割って入ったのは三島の隣に立つ少年だ。眉を吊り上げ、結月に向かってビシリと指を差している。歳は十に満たないぐらいだろうか。慌てて三島が少年の手を押し下げた。
「こら、失礼でしょうが!」
「あいさつなしで姉ちゃん取ってったヤツのほうが失礼じゃん!」
瞬間、少年の頭に手のひらが飛ぶ。頭を押さえながら少年は悔しそうな目で母と結月を見上げた。
「いろいろ大人にも事情があるの。紫乃ちゃんがいなくなって寂しいからって、難癖つけるんじゃないよ」
「だって……」
少年の目尻にじわりと涙が浮かぶ。紫乃は少年のそばに寄って屈み込むと、そっと頭を撫でた。
「急にいなくなってごめんね?」
「姉ちゃんのこと、みんな心配してたんだよ……」
涙が落ちる前に少年は目元を乱暴に拭った。そんな息子を見て三島が肩を竦める。
「みんな心配してたのは本当だよ。何度も言うけど、話が急すぎてびっくりしたんだから」
三島の言葉に紫乃が嬉しそうな、申し訳なさそうな顔をする。紫乃は立ち上がって居住まいを正すと二人に向かって深く頭を下げた。
「はい。ご心配をおかけして、すみませんでした」
「いや、こうして元気ならいいんだけどさ。それに逢瀬のところ声かけて悪かったね。邪魔者は退散するから」
三島がにっと意地悪めいた笑みを浮かべる。逢瀬と呟いて紫乃は再び顔を赤くした。言われてみればその通りなのだが、そういった経験に乏しくて今更ながらに気恥ずかしさが込み上げてくる。
顔を赤らめる紫乃を見て、少年の表情が険しくなる。彼は再び結月を見上げるとじとりと睨みつけた。
「……紫乃姉ちゃんのこと、ちゃんと大切にしろよ。できなかったら俺がかっさらっていってやるから」
もう一度、少年の頭に三島の平手打ちが飛んだ。紫乃の気立ての良さは重々承知していたが、ここまでくるとおちおちしていられないなと結月は思う。けれど、大切にしたいという思いは揺るぎない。
「肝に銘じるよ」
「お、おう……」
はっきりとした返答が以外だったのか、少年は戸惑いがちに返事をした。
「たまにこっちに顔出してくれると嬉しいよ。ああ、気は使わないで。元気にしていてくれたらそれで十分だから。じゃあね」
三島はそう言うと手を振ってその場を後にした。賑やかな空気が去って物寂しい。母子の後ろ姿が見えなくなるまで二人で見送った。
「気立てのいい方ですね」
「はい」
紫乃が嬉しそうに笑う。他人を褒められて自分のことのように喜ぶ姿が好きだなと思った。結月は改めて紫乃に向き直る。
「紫乃さん。せっかくなので一つ行きたいところがあるんですけど、いいですか?」
「もちろんです」
紫乃の迷いない返答が嬉しくも気恥ずかしい。再び乗合馬車に乗って、二人は目的地へと向かった。




