3ー4
「……今日はこのへんでお暇させていただきます」
「茉莉花」
結月が茉莉花を追おうと席を立つ。その途端に結月の体が傾いで、咄嗟に紫乃は手を伸ばした。体の重みで崩れ落ちそうになったが、結月がギリギリのところで踏みとどまって事なきを得る。
「……すみません」
結月の顔色は先程よりもいっそ白くなっていた。早く寝所につれていったほうがいいと思ったが、結月の体は思った以上に重く、冷え切っていた。
「ちょーっと失礼」
そんな二人の間に割って入ったのは識だ。彼は素早く結月の腕を自分の肩に回して体を支える。しかし、結月はそんな識から逃れようとした。
「いい、自分で動ける……」
「びっくりするぐらい真っ白な顔をしている人の言うこと、信用できると思う?」
識の指摘に結月は口を噤んだ。何も言えなくなった結月を一瞥してから、識は紫乃に視線を戻す。
「紫乃様。すみませんが、カナエさんに声をかけていただけませんか? 布団を用意してもらいたくて」
「はい」
紫乃は慌ててカナエを探しに行った。台所で夕食の下ごしらえをしていたカナエに布団を用意してほしい旨を伝えてから、紫乃は一度玄関へと向かう。当然、そこに茉莉花の姿はなかった。
追いかけて詫びを言うつもりだったのだろうか。認めてほしいと懇願するつもりだったのだろうか。そんなことを彼女が望むはずもないことぐらい、紫乃も分かっている。ただ、帰り際に見た茉莉花の表情が胸に突き刺さって頭から離れなかったのだ。
寝所に向かうと結月は既に横になっていて、そばには識とカナエが控えていた。よほど無理をしていたのだろう、すぐに寝入ってしまったのだという。兄を見つめる識の横顔はとても神妙だった。
「顔色あんまり良くないかなって思ってはいたけど。相変わらず無理しているんだね」
「……はい。何もして差し上げられないのが、心苦しいです」
静かにカナエが返す。そうだねと識が相槌を打って、会話は途切れた。しんとした空気が部屋の中を満たす。
紫乃は静かに腰を上げると、結月の右手側に移った。何事かと識が様子を窺っている気配を感じるが、今は気にかけている場合ではない。
布団の中から結月の手を出して握る。彼の手は思っていた以上に冷え切っていた。おそらく呪詛の影響で気の流れが滞っているのだろう。紫乃は両手で結月の手を包み込むと、目を伏せた。
ここ連日、異能を使ったせいだろうか。結月との気の同化は驚くほど滑らかに進んだ。凪の海に浸っていくような心地で、気の流れに集中する。
以前詰まっていた末端の管がまた細くなっていた。そこが上手く流れるよう、気の流れを統御する。ゆっくりと、慎重に。詰まってしまった管に気が流れ始めるのを感じて、紫乃は目を開けた。
ちょうど目の前に座っている識と視線が合った。彼は兄を一瞥してから、慎重に口を開いた。
「……異能を使ったんですか?」
「はい。いくらか調子が戻るといいんですけど……」
結月の顔を改めて見ると先程よりも表情が和らいでいるようで、紫乃は一人安堵する。
視線を感じて顔を上げると識がじいっと見つめていて、紫乃は内心うろたえてしまった。続けて、好奇が宿った声音が降りかかってきた。
「ちなみに俺だとどんな感じですか?」
「え、ええと……」
それはやってみてほしいということだろうか。突然の申し出に紫乃は逡巡したが、期待の眼差しを受けておずおずと識の隣に戻った。手を取って目を伏せ、気の流れに意識を集中する。しばらくしてから、紫乃はゆっくりと口を開いた。
「気の同化はしやすい方だと思うんですけど、流れを調整するのが難しいです……」
「はは。自由奔放で俺らしいや」
識はからりと笑うと手を離す。そろそろ俺もお暇しますと告げると、彼は立ち上がって玄関へと向かった。紫乃とカナエは慌ててその後を追い、玄関先で識を見送る。
「紫乃様、兄上のことを頼みます。何かあったら呼んでください。俺にできることはしますんで」
「……はい。今日はありがとうございました」
紫乃が礼を言うと、識は手を振ってその場を後にした。賑やかだった屋敷が一気に静かになって物寂しい。屋敷の中へ戻るとカナエが心配そうな面持ちで紫乃に声をかけてきた。
「あの、紫乃様もお体は大丈夫ですか?」
尋ねられて、今更ながら紫乃は自分に意識を向ける。そういえば、今日は検分をしてきたうえに結月に対しても異能を使ったが、倒れるようなことはなかった。連日異能を使ったおかげで、少しだけ体が慣れたのかもしれない。
「はい、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
「何かあったらすぐ仰ってくださいね」
釘を差すようにカナエに言われてしまい、はいと紫乃は返事をする他なかった。休んでいていいと言われたものの、手持ち無沙汰の方が落ち着かなくて、紫乃はカナエとともに夕食の支度を始めた。
カナエに手伝いを申し出たとき、奥様にそんなことをしていただくわけにはいきませんと慄かれたなと思い出す。結局、結月に家事の手伝いをしていいか申し出て、好きにしていいと言ってもらえた。カナエは始め不承不承で応じたが、料理の合間に話をするのが楽しかったようで、今はこうして隣に立たせてもらえている。天宮家の嫁としたら正しい振る舞いではないのかもしれない。それでもこうして自由にさせてくれるところはありがたかった。
本家から戻ってきた周平にも今日の成り行きを伝えた。彼は複雑そうな表情で、そうですかと一言だけ返した。周平はもともと暁斗の幼馴染みだと結月から聞いている。結月と茉莉花の関係も了承済みなのだろう。
夜の仕度を済ませ、紫乃は寝所へと向かう。結局、結月は目を覚ますことなく夜を迎えていた。昼間よりも顔色がいいのが救いだろうか。
紫乃は隣に敷かれた布団に潜り込む。余計なことかもしれないと思いつつも、横向きになって結月の左手を取った。手はまだ、冷たい。彼の淡々とした声と表情が脳裏に蘇る。
――僕はおそらくあまり先が長くないでしょう。
結月の姿と亡き義母の姿が重なった。急激に死というものが身近に迫ってきて、手をきゅっと握りしめる。
誰かが死ぬ間際に立ち会うのは怖かった。大切な人がいなくなるときの空虚さが、何よりも息苦しかった。
明日、目を覚ました結月と話ができますようにと祈りながら、紫乃はそっと目を瞑った。




