第六話
武館を出ると、墨石城の夜風は驚くほど冷たかった。
先ほどまでの熱狂が嘘のように静まり返った路地で、趙謙は、前を歩く胤昭の背中を見つめていた。
その背中は鉄のように硬く、だが、どこか薄氷のように危うい。
「……胤昭。奴の話を、全部信じるわけじゃないだろうが……」
趙謙が慎重に言葉を選んで投げかける。
だが、胤昭は立ち止まらなかった。錫杖が石畳を叩く「ジャラン」という音が、先ほどよりも一層、冷たく響く。
「……彼は、あそこまでして嘘を吐く男ではないと思いますよ」
胤昭の声には、感情が一切失われていた。
「『処刑』……。白道が、正しき道を歩む者たちが、自分たちの汚点を隠すために、彼女に罪を着せて殺した。……阿弥陀仏。これがこの街の『正義』なのですか、趙施主」
「……俺に聞くな。俺は最初から、仏も正義も信じちゃいない。それに、人違いって可能性も……いや、悪いな」
趙謙は言いかけて、謝った。
「……良いんですよ。そうですね……、人違いという可能性も、ありますね」
二人は、沈黙を宿したまま、街の端にある納骨堂へと向かった。
そこは、引き取り手のない死体や罪人として処刑された者たちが仮置きされる、この街で最も忌まわしい場所の一つだ。
重い石造りの扉を開けると、死臭と墨石特有の焦げたような匂いが混ざり合った腐敗した空気が漏れ出してきた。
いくつもの筵が敷かれた冷たい床の隅に、それはあった。
一際小さな、痩せ細った亡骸。
胤昭が、ゆっくりとその顔を覆っていた汚れた布を捲る。
そこにあったのは、修行時代の面影を辛うじて残しながらも、苦悶と絶望に歪み、そして無惨にもその命を散らした、葉宛児の、小宛の顔だった。
「……」
趙謙は、すぐに外へ出た。その配慮が、正しい選択だったのかは、分からない。もしくは、逃避であったのかもしれない。
静寂が、納骨堂を支配した。
直後、胤昭の膝が、折れた大樹のように崩れ落ちた。
「……ああ、ああ……ああああああ……っ!!」
それは、言葉にならない慟哭だった。
人を救うために、正しき道を進むために、己の欲を削り、仏の慈悲を血肉としてきた十年間。
夏の夜も、冬の朝も、ただ誰かの救いになればと念じ続けた経典の言葉が今、腐り落ちた小宛の指先一つさえ温められない現実に、胤昭の魂は絶叫した。
音を立てて、あまりに明白に、彼が信じた世界が、彼の愛した仏が、瓦解していく。
これまで彼を支えていた「正しさ」という名の背骨が、白道組織の振るった卑劣な刃によって粉々に砕かれ、内側から体を突き破っていくような痛みが彼を襲った。
「…………あ゙あ゙あ゙ァァァっ!」
彼は血のついた彼女の手を握りしめた。
少龍寺の絶技を練り上げたその掌は、ただただ無力であった。
胤昭が流した涙は、床に落ちると同時に、街を包む煤煙に溶けて黒く染まった。
納骨堂の外で待つ趙謙の耳に、一度だけ、錫杖の環が、激しく鳴る音が届いた。
………
……
…
「……悲しんでいても、仕方がありませんな、趙施主」
納骨堂から出てきた胤昭は、ポツリと呟いた。
その声は、驚くほど平坦で、凪いだ海のように静かだった。その瞬間、趙謙の背筋に、氷を流し込まれたような戦慄が走った。
胤昭の瞳から、光が完全に消え失せていたからだ。
「……おい、胤昭。あんた、まさか」
「趙施主。……妹さんは、まだ生きていると言いましたね。案内をお願いします。……今の彼女にできる唯一の供養を、しに行かねばなりません」
✿ ✿ ✿
真余魁に教えられた古寺は、墨石城の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
建物の至る所が腐り落ち、本尊であったはずの石仏も首が落ちて転がっている。
「阿弥陀仏……。新たな迷い人で?」
本堂の隅から、煤けた衣を纏った老人が現れた。この寺を辛うじて守っている管理人だというその男の瞳には、慈悲も希望も枯れ果て、ただ諦念だけが宿っていた。
「じいさん。ここに運び込まれた娘……葉宛児の妹はどうした」
趙謙が尋ねると、管理人は奥にある、隙間風が吹き抜ける小部屋を指差した。
「……あの子なら、上に寝かせてあるよ。だがな、無駄なことはしなさんな。ここ数日、水一滴、粥の一杯も喉を通っちゃいない。姉が連れ戻しに来るのを、ただ息を潜めて待っているだけだ」
趙謙は、胤昭の横顔を盗み見た。
だが、胤昭は何も答えず、吸い寄せられるようにその小部屋へと歩を進めた。
薄暗い部屋の隅、埃にまみれた筵の上に、その小さな命はあった。
かつて小宛が、背伸びをしてまで守ろうとした妹。
だが、そこに横たわっているのは、もはや人間というよりは、人間の抜け殻のようだった。
「……」
胤昭は、少女の枕元に膝をついた。
その瞳は、先ほど納骨堂で見た小宛の死に顔と同じ、冷たい虚無を映し出している。
趙謙は、意識を失った少女の額に触れ、そのあまりの冷たさに指を弾ませた。
「『陰寒枯脈』……。よりによって、そんな業の深い病か」
体内を巡る血さえもが凍りつき、経絡が枯れ木のように干らびていく奇病。
これに抗うには、太陽のごとき熾烈な陽の気で、一寸ずつ氷を溶かしていくしかない。
「趙施主。これを使ってください」
胤昭が懐から取り出したのは、古びた、しかし気品漂う紫檀の小箱だった。
蓋を開けると、堂内を包む煤煙を瞬時に払い除けるような、清浄で甘い香りが立ち込める。
箱の中には、深紅の光を放つ一粒の丹薬が鎮座していた。
「……おい、よせ。まさか、それは少龍寺の『大還丹』じゃないだろうな」
趙謙の目が、驚愕に見開かれた。
少龍寺に伝わる至宝中の至宝。死の淵にある者の命を繋ぎ、一粒で数十年の内功を増進させると言われる伝説の霊薬だ。
「……ええ。寺を去る際、薬蔵から持ち出してきました」
「馬鹿か、お前! こんなもの、持ち出したと知れたら少龍寺の全僧兵が血眼になって追ってくるぞ。……いや、それ以前にだ。『大還丹』は、ただ飲ませりゃいいってもんじゃない。熾烈な陽の内功で丹を溶かし、全身の経絡へ導かなきゃ、こいつの熱で内臓が焼け爛れるぞ」
胤昭は自嘲気味に、震える自らの掌を見つめた。
その拳は、敵を砕く『大力金剛掌』を極めながらも、他者の体内に繊細な気を送り込み、経絡を癒やす『柔』の操作には向いていなかったのだ。
「……私の内功は、あまりに『剛』に過ぎる。私が触れれば、この子の脈を焼き切ってしまう。……趙殿。趙施主の澄んだ内功なら、この丹薬を正しく導けるはずだ」
「……っ。冗談じゃない。俺を少龍寺の追っ手との共犯者にするつもりか」
趙謙は吐き捨てたが、その視線は、うわ言で「おねえちゃん」と繰り返す少女に向けられていた。
この薬を使わなければ、彼女は今夜を越せない。だが、使えば最後、少龍寺という巨大な権力と、武林の掟を敵に回すことになる。
「……趙施主。お願いします。どうか、どうかお願いします」
胤昭が、深く、静かに頭を下げた。
かつての食えない坊主の面影はない。ただ、己の罪と絶望をすべて背負って膝をつく、一人の男の姿があった。




