第五話
真余魁が「狂刀」を握り直すと、広間の空気が、にわかに鳴動した。それは彼が放つ殺気が、実体を持った内功となって空間を圧迫し始めた証であった。
彼にとって、目の前の武僧が背負う宿命も、その旅の目的も、もはや塵芥に等しい。
ただ、天下に轟く少龍寺の絶技をこの身で受け、それを捩じ伏せる──その一点のみが、彼の眼を血走らせ、狂おしく輝かせていた。
「来るがいい、坊主! その『金剛掌』で、俺の乾きを潤してくれよ!」
真余魁の巨躯が、爆発的な踏み込みと共に地を蹴った。石畳が砕け散り、振り下ろされた狂刀が、真空を切り裂く鬼哭のごとき咆哮を上げる。
それは単なる力任せの斬撃ではない。刃筋には、幾多の修羅場を潜り抜けて練り上げられた、精密かつ峻烈な殺意が宿っていた。
「阿弥陀仏──」
胤昭は不動。刃が脳天を割る寸前、彼は錫杖を軸に、柳の葉が風に舞うがごとき鮮やかな転身を見せた。
少龍寺が誇る軽功の極意、『一糸歩法』。
狂刀が空を切り、空気が爆ぜる轟音が鼓膜を打つが、胤昭はすでに真余魁の懐深く、死角へと滑り込んでいた。
一瞬の隙。胤昭の右掌が、吸い込まれるように真余魁の脇腹へと突き出される。
ドォッ!
『大力金剛掌』。内功を一点に凝縮したその一撃が、真余魁の重厚な筋肉を貫き、五臓六腑を直接震わせた。
並の武芸者ならば、即座に絶命する一撃。
だが、真余魁は、口角から一筋の鮮血を流しながらも、歓喜に顔を歪めて吼えた。
「ははっ! それだ! その重みこそ、俺が求めていたものだ!」
真余魁は、常軌を逸していた。
彼は受けた衝撃をあえて逃がさず、自身の体内で膨れ上がる苦痛をそのまま闘気へと変換したのだ。
その反動を利用し、独楽のごとく旋回しながら狂刀を真一文字に薙ぎ払う。
キィィンッ──!
胤昭は即座に錫杖を立ててこれを防ぐが、狂った獅子の怪力と刃に乗せられた「剛」の内功に、数歩の後退を余儀なくされた。
石畳に深く刻まれた足跡が、その衝撃の凄まじさを物語っている。
それから、数十合の打ち合い。死闘の中で、活路を見出したのは、真余魁であった。彼の狂刀が、胤昭の『刀剣不侵』のはずの肉体に、傷をつけていく。
「……さすがは『獅子狂刀』。さすがの胤昭でも……、ん? あれは?」
広間の熱気は沸点に達していた。
真余魁の全身から発せられる真気が、目に見える陽炎となって空気を歪める。
「さて、名残惜しいが、終わらせよう。受けてくれるよな、坊主!」
真余魁が吠える。狂刀が赤黒い光を帯び、まさに山を裂き海を割る勢いで、胤昭の眉間へと振り下ろされようとした。『獅子狂刀』の奥義『血河断流』である。
対する胤昭もまた、数珠を握り締め、少龍寺究極の防御功である『金剛不壊身体』の内功を全身に巡らせる。
両者が接触すれば、広間が吹き飛ぶほどの衝撃が走ることは明白であった。
その刹那、闇の中から一条の銀光が走った。
趙謙である。彼は戦場を駆ける疾風の如き身のこなしで、真余魁の背後、その死角へと音もなく潜り込んでいた。
「なっ…!?」
真余魁の背中はがら空きだ。胤昭を狙うあまり、防御をかなぐり捨てたその背を貫けば、勝負は一瞬で決する。
だが、趙謙の剣尖が向けられた先は、真余魁ではなかった。
「なっ……何奴だ!」
悲鳴が上がったのは、真余魁の背後で機を伺っていた彼の直臣であった。
「男たちの死闘は……邪魔するもんじゃねえよ」
その男は、主君である真余魁と胤昭が相打ちになる瞬間を狙い、密かに短剣を突き出そうとしていたのだ。
しかし、趙謙の剣は電光石火の速さでその男の喉元を貫き、汚れた野心を闇へと葬り去った。
ギギギィィィンンンン──!!!
真余魁の『狂刀』と胤昭の『金剛の拳』がぶつかり合う轟音の中、趙謙は冷ややかに剣を引き抜く。男の骸が音もなく崩れ落ちた。
轟音とともに、広間の空気が爆ぜた。
真余魁の『血河断流』が放つ赤黒い内功が、胤昭の黄金色の内功を力任せに圧し潰していく。
ギギギィィィンンン……!
さらに、金属が悲鳴を上げ、胤昭の右拳を包む金剛の内功が、ついに狂刀の鋭利な刃に割られた。
拳から鮮血が吹き出し、白い僧衣を赤く染める。
(……そろそろだな)
壁際で直臣を仕留めた趙謙は、血のついた剣を引き抜きながら、冷徹にその光景を断じた。
胤昭の武功は清らかで、一点の曇りもない。
だが、真余魁の武功は「人を殺し、生き延びる」ための泥にまみれた実戦の極致。
仏の教えよりも、獅子の牙の方がわずかに鋭かったのだ。
胤昭は膝をつき、激しい呼吸と共に肩を揺らした。錫杖を支えにどうにか上体を保っているが、その右拳は深く斬り裂かれ、震えている。
対する真余魁も無傷ではない。
胸元には胤昭の放った掌の跡が、痣となって黒ずんでいる。だが、彼は血を吐き捨てながらも、悠然と折れかかった狂刀を肩に担ぎ直した。
「ははっ……! 素晴らしい。少龍寺の若僧に、ここまで追い詰められるとはな。……坊主、お前さんの拳は重かった。だが、まだ『迷い』が混じってやがる」
真余魁は殺気を収め、満足げに鼻を鳴らした。それは、自分の欲を満たしてくれたものへの賛辞であった。
「……それで、胤昭は合格かな?」
趙謙が、剣に付着した血を拭き取りながら、歩いてくる。
「浪人。助かったぜ。お前のおかげで、最後の一撃を放てたからな」
「趙謙だ。礼はいいさ。男の闘いに割って入るなど、野暮な真似が許せなかっただけだからな。それで──」
「ああ、もちろん、合格さ。十分、満足できた。数年分の渇きが、潤ったよ。で、葉宛児の『真実』についてだったな」
胤昭はゴクリと唾を飲み込んだ。ただ、次に真余魁から発せられた言葉は、到底、納得できるものではなかった。
「葉宛児。彼女、死んだよ」
胤昭の瞳が、驚愕に見開かれた。趙謙は、やはりかという表情を浮かべた。
「……城外の廃棄場、墨石の残骸の下だ。……白道組織『清流会』の連中が、自分たちの『不手際』で殺しちまった母親の死体を、あのドジな娘に見られちまったのさ。隠蔽のために娘を追って、そのままな」
胤昭の指先が、目に見えて震え出した。錫杖の環が、ジャラン、ジャランと、不吉な葬送の鐘のように鳴り響く。
「……隠蔽。……死んだ……のですか」
「ああ。信じられねえなら、納骨堂へ行けよ。死体が残ってるはずだぜ」
その言葉に、趙謙は疑問を呈した。
「死体が残ってる? 母親の死体は埋めたのに?」
「ああ。それはな、母親に関しては『不手際』だが、娘に関しては違う。『公的』な理由を適当に付けて、殺したのさ。いや、『処刑』した……というのが正しいかもな」
真余魁は、床に転がった血塗れの簪を、つま先で胤昭の方へ押しやった。
「……彼女の妹は、まだ生きてるはずだぜ。さすがに、幼子を殺すのは気が引けたのか、寺に預けたらしい」




