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武侠小説:慧剣魔僧録  作者: ヤマダ


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第四話

 道を抜けた先に、かつての栄華を拒絶するように風化した、墨石の廃墟が広がっていた。


 崩れ落ちた石柱が墓標のように並び、煤煙の代わりに夜の静寂が、粘りつくような重圧となってのしかかっている。


 その瓦礫の山の中央、あたかも千年の孤独を背負った石灯籠のように、一人の老人が座していた。


「……着いたぞ。あそこだ」


 趙謙(ちょうけん)が低く告げ、一歩前に出た。老人は微動だにしない。手にした細い鏨で、黒い小石を慈しむように、静かに撫で続けている。


墨公(ぼくこう)の爺さん。久しぶりだな。少しばかり、話を聞きに来た」


 老人は顔を上げなかった。だが、その枯れ木のように干らびた唇が、微かに歪んだ。


「……趙謙か。お前の足音を聞くのも久方ぶりだが……。どうやら、人探しをしているようだな。いや、必死になって探しているのは、そちらの坊主の方か」


 胤昭(いんしょう)の眉が、ぴくりと動いた。


 まだ一言も発していない。この老人は、趙謙の連れが纏う、尋常ならざる殺気立った「空気」だけで、二人の目的を察していた。


「さすがは墨公だ。相変わらず、鼻が利くらしいな」


 趙謙の軽口を無視し、胤昭が静かに、しかしその内側に灼熱の焦燥を孕んだ声で切り出した。


「墨公殿。単刀直入に伺いたい。……葉宛児(ようえんじ)という娘の行方をご存知か」


 墨公は、ようやくその手を止めた。


 深く刻まれた顔の皺の奥で、深淵を思わせる鋭い眼光が、射貫くような強さで胤昭を捉える。


「……宛児か。あの、石を打つ音さえ立てられぬ不器用でドジな小娘のことなら、知っておる。この街の墨石のすべてが、あの娘の流した涙を記憶しておるからな」


「彼女を知っているのですか!?」


 胤昭が、思わず一歩詰め寄った。錫杖の環が、彼の動揺を代弁するように激しく鳴る。


「ああ、知っておるとも。病弱の妹がいる娘だろう。尼僧上がりの身でありながら、泥の中で妹を養うために必死に石を運んでおったよ……」


 だが、墨公は冷たく鼻で笑うと、手元にあった黒い石を、地面へ転がした。


「……ッ! そうです! 彼女は……彼女は今どこにいるのですか!?」


「……帰れ」


 墨公の声は、氷のように冷徹だった。


「えッ!? なぜです! まだ何も……!」


「世の中、知らん方がいいこともあるというだろう。石の中に不純物が混じるように、真実の中には常に猛毒が混ざるものだ」


「お願いします! 私は彼女を連れ戻さねばならないのです。どうしても、知りたいのです!」


 胤昭の叫びが、廃墟の静寂を震わせる。墨公はゆっくりと顔を上げ、漆黒の空を見上げた。


「……石は真実を語るが、人は嘘を重ねてそれを埋める。坊主、お前さんが探している『真実』は、わしの手の届かぬ『闇』の中に落ちてるのさ」


 墨公は顎で、先ほど二人が歩いてきた、血生臭い風が吹き抜ける路地を指した。


「どうしてもというのなら、この街の黒道どもを束ねる男……『黒風門』の門主を訪ねるがいい。奴ならば、あの娘の辿ったすべてを、その懐に握りしめておるだろうよ」




 ✿ ✿ ✿




 墨公の廃墟を離れ、二人が辿り着いたのは、墨石城の入り組んだ路地裏にひっそりと佇む、看板もない古い武館だった。


 周囲は白道の息がかかった商店や役所が立ち並んでいるが、この一角だけは、まるで時間が止まったかのような異様な静寂に包まれている。


「ここだな」


 趙謙は、門の前に立つ二人の門番を見やった。


 先ほどの路地の連中とは放つ「気」の質が違う。黒風門の精鋭──門主の直臣たちだ。


 彼らは趙謙の腰の剣と、胤昭の錫杖を一瞥し、無言で道を塞いだ。


 趙謙が剣の柄に手をかけた、その時。


「……通せ」


 武館の奥から、低く、そして腹の底に響くような野太い声が届いた。


 まるで檻の中の猛獣が唸ったようなその響きに、門番たちは一瞬で殺気を消し、左右に分かれて深く頭を垂れた。


「……行きましょう」


 胤昭が先導し、重い石畳を歩く。


 武館の奥、薄暗い中庭のさらに先にある広間に、その男はいた。


 獅子狂刀(ししきょうとう)真余魁(しんよかい)


 獅子の如き逆立った髪と、岩のように盛り上がった筋肉を誇る巨躯。


 傍らには、その男の背丈ほどもある、分厚い鉄身の『狂刀(きょうとう)』が立てかけられている。


 だが、その荒々しい外見に反して、彼は机に広げた書状を静かに読み耽っていた。その瞳には、野蛮な力だけでなく、獲物を狙う狡猾な光が宿っていた。


「……さっきは部下が世話になったな。で、少龍寺の武僧に、しがない浪人。墨公の爺さんに唆かされて、俺のところへ何を探しに来た?」


 真余魁は顔を上げず、書状をめくった。


 広間には、墨石が焼けるような香炉の匂いと、拭いきれない血の香りが混ざり合っている。


「……葉宛児。私の師妹は、どこにいるのでしょうか?」


 胤昭の問いに、真余魁は初めて、その獰猛な口角を吊り上げた。


「宛児か……。あの、自分の影に躓いて転ぶような、不器用な尼僧のことか」


 彼はゆっくりと書状を閉じ、傍らの狂刀を引き寄せた。


 ズゥン、と床が鳴る。


「坊主。お前が探しているのは、その娘の『行方』か? それとも、彼女とこの街の白道の『真実』か?」


「……『真実』?」


 胤昭の声が、かつてないほどに低く、鋭く響いた。その殺気に応じるように、錫杖の環が一度だけチャリンと鳴る。


 真余魁はゆっくりと腰を浮かせた。


 その巨躯が立ち上がるだけで、広間の空気が物理的な重さを伴って膨れ上がる。


 彼は傍らの酒瓶を掴むと、ラッパ飲みで中身を胃に流し込み、豪快に袖で口を拭った。


「ああ。この街の『白道(せいぎ)』は、黒道(おれら)よりもずっと綺麗好きでな。汚れを見つければ、跡形もなく消し去らなきゃ気が済まねえ。……例えそれが、ただの不器用な尼僧の小娘であってもな」


 真余魁の瞳が、獲物を狙う獅子のように細められた。


「あの娘は、ドジだった。……あまりにドジすぎて、見てはいけないものを見てしまった。白道組織の連中が、自分たちの不手際で死なせた老婆──あの娘の母親の死体を、土に埋める現場をな」


「……っ!」


 胤昭の顔から、一瞬で血の気が引いた。握りしめた錫杖が、みしみしと音を立てる。


 趙謙は、嫌な予感を感じていた。


 真余魁の語る言葉には、嘘を吐く者の軽薄さがない。それに、彼に嘘を付く利点はない。無論、本当のことを言う利点もないのだが。


「奴らは、隠蔽のために娘を追った。娘は逃げたよ。転んで、泥にまみれ、それでも必死に妹の元へ戻ろうとしていた。だが……」


 真余魁はそこで言葉を切り、不気味な笑みを浮かべて一歩踏み出した。


「坊主。続きが知りたければ、来な。慈悲タダで貰えるもんなんて、黒道おれらにはないからな!」


 ガラン、と真余魁が狂刀を床に突き立てた。木造の床に亀裂が走り、凄まじい衝撃波が胤昭の頬をかすめる。


「……趙施主、下がっていてください」


 胤昭が静かに言った。その声には、もはや慈悲も迷いもない。


 ただ、この街の墨石よりも深く、冷たい決意がそこにはあった。


「……」


 趙謙はコクッと頷き、壁際へと身を引いた。


 広間の中央。月光の差し込まぬ薄暗い武館の中で、少龍寺の金剛と黒風門の狂獅子が、ついに正面から激突しようとしていた。

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