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武侠小説:慧剣魔僧録  作者: ヤマダ


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第三話

 『酔猫居(すいびょうきょ)』の喧騒を離れると、墨石城(ぼくせきじょう)の夜は急に底冷えがした。


 街灯代わりの松明が、湿った煤煙に燻られて赤黒く爆ぜている。


「……おい、胤昭(いんしょう)。さっきの真珠、本当に良かったのかよ。あれ一つありゃ、この街の安宿に一年は泊まれたぜ」


 趙謙(ちょうけん)は懐手をして、石畳を叩く錫杖(しゃくじょう)の音に歩調を合わせた。


「阿弥陀仏。形あるものはいつか壊れます。……それに、墨公(ぼくこう)殿のことも知れましたしね」


 胤昭の声は、廃寺にいた時よりも心なしか柔らかい。


 趙謙は、その横顔を盗み見た。網代笠の影に隠れた口元が、わずかに綻んでいる。


「……その小宛(しょうえん)ってのは、あんたにとって、ただの妹弟子ってだけじゃないんだろう?」


 胤昭の足が、一瞬だけ止まった。


 だが、すぐにまた一定の歩幅で歩き出す。


「……それは、どういう意味です?」


「いやな、お前の話し方だよ。『ドジっ娘だ』とか『放っておけない』とか。ただの修行仲間を探しに来たにしちゃ、その瞳が必死すぎる。……惚れてるんだろ、その娘に」


 直球の問いに、夜風がヒュウと吹き抜けた。


 胤昭はしばらく沈黙を守り、それから静かに空を見上げた。厚い雲に覆われ、星一つ見えない墨石城の空を。


「……彼女は、私の光でした」


 その一言に、趙謙は息を呑んだ。


 「愛している」とも「恋い慕っている」とも言わない。


 だが、暗い寺の生活の中で、彼女の存在がいかに彼を支えていたか。その重みが、その言葉に凝縮されていた。


「修行に明け暮れ、仏の教えに身を投じる日々……。彼女が転んで墨まみれになるたびに、私の世界には色が灯った。……趙施主。私は僧侶です。欲を捨て、情を断つのが務め。ですが……」


 錫杖を握る指先が、白くなるほどに力がこもる。


「彼女がこの街へ戻ると言った時、私は止めることができなかった。……いや、止める資格がないと、己に言い聞かせた。それが、今のこの胸の疼きを生んでいるのであれば、私はまだ、仏の足元にも及ばぬ未熟者なのでしょうな」


 胤昭は自嘲気味に笑った。


 趙謙はそれ以上、何も言えなかった。


(……どうやら、相当なことに首を突っ込んでしまったな)


 趙謙はわざとらしく大きな溜息をつくと、歩みを速めた。


「……説法かと思えば、ただのノロケかよ。ほら、急げ。墨公の爺さんは夜更かしらしいが、機嫌を損ねると石を投げつけてくるからな」


 二人の影が、より一層深い闇へと続く、北の廃墟へと続く道に伸びていった。




 ✿ ✿ ✿




  『酔猫居』を離れ、二人は街の北側に位置する廃墟へと続く坂を登っていた。


 この辺りは街灯もなく、墨石を運ぶ荷車の轍が、深い溝となって暗闇に沈んでいる。


「……止まれ」


 趙謙が低く、短く言った。


 闇の向こう、物騒な剣を腰に差した四人の男たちが、趙謙たちの行く手を塞いでいた。黒道の連中である。


 その鋭い眼光が、趙謙を射抜いた。


「ここから先は、俺たちの領分だ。通るなら、相応の礼をしてもらおうか」


 一人が静かに歩み出る。その足運びに、無駄はない。


 趙謙は何も答えず、ただ静かに剣を抜いた。抜き放たれた刃が、月のない闇をわずかに切り裂く。


「悪いな。今は手持ちがなくてね……」


 不敵な笑みを浮かべた趙謙に、「そうか」と一言、黒道の男たちもまた、剣を抜いた。


 趙謙の剣先がわずかに震え、空気を震わせる。


 それは単なる手の震えではない。丹田(たんでん)から練り上げられた内功(ないこう)が剣身に伝わり、発せられる「剣鳴(けんめい)」であった。


 対峙する男の一人が鼻で笑い、


「見せかけの武功程度で、我が『黒風剣法(こくふうけんぽう)』を防げると思うな!」


 と叫ぶや、地を蹴った。


 その剣筋は凶風のごとく荒々しく、趙謙の喉元をめがけて一直線に突き出される。


 趙謙は一歩も引かず、身をわずかに翻すと、剣を斜め下方から跳ね上げた。


 『一字慧剣(いちじけいけん)』の第一招式『撥雲見日(はつうんけんじつ)』の型である。


 趙謙の放った一撃は、重厚な内功を孕んでいた。


 剣と剣がぶつかり合う鈍い音とともに、火花が闇に散る。男は腕に痺れを感じ、驚愕に目を見開いた。趙謙の剣筋は一見して軽やかだが、その裏には大河のごとき滔々(とうとう)たる内功が隠されていたのだ。


 もう一人の男も即座に動く。横から趙謙の腰を断たんとして、長剣を薙ぎ払う。趙謙は左足のつま先を軸に、独楽(こま)のように旋回した。


 『燕子穿雲(えんしせんうん)』の型である。


 黒道の男が、追い打ちをかけようとしたその瞬間、趙謙の剣先が予測不能な軌道を描いた。


 三つの剣影が同時に現れ、男たちの胸元の要穴を突く。これこそが『一字慧剣』の秘技、一瞬の隙に三つの命を奪うといわれる変幻自在の連撃であった。


 男たちは辛うじて剣を戻して防いだが、その衝撃で数歩後退を余儀なくされる。暗闇の中、趙謙の双眸だけが冷たく、そして鋭く光り続けていた。


 趙謙と黒道二人が戦闘を繰り広げる中、胤昭は錫杖を地面に突いたまま、動かない。月光の届かぬ闇の中、胤昭は一本の枯れ木の如く静止していた。


 手にした錫杖が地を突く微かな音さえしない。その内斂された呼吸は、あたかも周囲の空気と一体化したかのようであった。


 業を煮やした黒道の二人が、左右から挟撃を仕掛ける。


「死ねッ、禿坊主!」


 一振りの剣は「力劈華山(りきへきかざん)」の勢いで脳天を割り、もう一振りは「推窓望月(すいそうぼうげつ)」の変え技で脇腹を狙う。どちらも急所を穿つ、容赦のない凶刃であった。


「阿弥陀仏……」


 低く、重厚な念仏が響く。胤昭は動いた。いや、動いたと見えた瞬間には、すでにその体は柳が風をいなす如く、わずか数寸の幅で剣筋をかわしていた。


 これは、少龍寺(しょうりゅうじ)に伝わる軽功(けいこう)の神髄、『一糸歩法(いっしほほう)』。敵の剣尖が僧衣の端をかすめるが、鋼の刃は虚空を裂くのみである。


「……胤昭。黒道を相手に手加減などいらん。覚悟を決めろ」


 三つの剣影で敵を翻弄していた趙謙が、鋭い叱咤を飛ばす。その瞬間、一人の男が胤昭の着地際を見定め、捨て身の突きを放った。


「──致し方ありませんな」


 胤昭の双眸に、一筋の鋭い光が宿る。彼は逃げるのをやめ、右掌を静かに垂直に立てた。


 これこそが少龍寺(しょうりゅうじ)七十二絶技(しちじゅうにぜつぎ)の一つ、『大力金剛掌だいりきこんごうしょう』。


 男の剣が掌に触れる寸前、胤昭の掌から爆発的な内功が噴出した。パァンと乾いた、まるで竹が割れるような音が闇に響き渡る。


 剣身は激しく震動し、その振動が男の腕の経絡を逆流して突き抜けた。


 男が驚愕に目を見開いたときには、胤昭の掌はすでに男の胸元──『膻中穴(だんちゅうけつ)』に吸い込まれるように着弾していた。


 ドォォン!


 鈍く、しかし体の深奥にまで響く衝撃。男は叫ぶこともできず、全身の骨が軋む音を立てて数歩後退し、そのまま糸が切れた人形のように崩れ落ちた。


 外傷はない。しかし、その内臓は剛力無比な内功によって、完膚なきまでに震わされていた。


「……行きましょう」


 胤昭は錫杖を一度だけ鳴らす。その音は冷たく、しかし、情け容赦を忘れられない表情が浮かんでいた。


 趙謙は鼻で笑い、慌てて逃げていく黒道たちを一瞥し、血振るいした剣を鞘に収めると、墨石城のさらに深い闇へと足を進めた。


「最初からそうすればいい。……まったく、少龍寺の連中はお堅くてかなわん」

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