第二話
煤けた木札が揺れる門をくぐり、趙謙が年季の入った木の扉を蹴るようにして開けた。
途端、熱気と安酒の臭い、そして墨鉄を削る際に生じる焦げたような鉄の香りが、塊となって押し寄せてくる。
「おい、店主! 生きてるか!」
趙謙の怒鳴り声に、店内の喧騒が、わずかに引いた。
そこには、一日の労働を終え、顔や腕を真っ黒に汚した職人たちが、ひしめき合うように座っていた。
彼らの視線が、趙謙の後ろに立つ、場違いなほど真っ白な肌の武僧──胤昭に注がれる。
「……趙謙か。死神がお前を連れてくるのを忘れたらしいな」
店の奥、厚い樫の木でできた帳場の向こうから、岩のように頑丈な体格の男が顔を出した。
店主の魯である。
彼は趙謙を一瞥し、それから胤昭の首にかけられた数珠を、値踏みするようにじろりと眺めた。
「そいつは、お前の新しい飼い主か? 随分と上等な身なりをしてやがる」
「阿弥陀仏……。飼われているのは、私の方かもしれませんよ?」
胤昭が穏やかに、しかし芯の通った声で応じると、職人たちから小さな失笑が漏れた。
趙謙は構わず、職人たちの背中をかき分けて帳場の隅、一番端の席を陣取った。
「……こいつは胤昭。まあ、俺の友だな。いつものを頼むよ。今日は二倍だがな」
趙謙の発言に、胤昭は目を丸くした。さっき出会った男を友と言ってしまう趙謙に、少しの動揺とそれを覆い尽くす喜びを覚えていた。
そんな胤昭を他所に、店主は、鼻を鳴らしながらも手際よく二つの杯を置き、並々と酒を注いだ。
「友だと? 趙謙、お前の『友』の定義は、酒を一筒恵んでくれる奴のことだったはずだが……まあいい。坊主だかなんだか知らんが、酒場に来たなら、酒は飲むよな?」
「阿弥陀仏……。慈悲に感謝いたします」
言われた胤昭は静かに手を合わせ、躊躇うことなく──なんなら、趙謙よりも早く杯を口にした。
趙謙の発言に一瞬だけ見せた動揺を、酒の熱さで誤魔化すように。
趙謙は酒を一口煽り、わざと大きな声で切り出した。
「ところで魯の親父。……『小宛』という娘を知ってるか。いや、小宛は法名か。俗名は……」
「葉宛児です」
「……だそうだ。彼女は、数ヶ月前にこの街へ戻ってきた娘らしいんだが、何か知ってることはないか?」
店主は杯を拭く手を止めず、怪訝そうに眉を寄せた。
「……葉宛児? 聞いたこともねえな。この街にゃ、毎日何十人も行き倒れの浪人どもが流れ込んできちゃあ、石の下に埋まっていくんだ。いちいち名前にかまっていられるかよ」
趙謙は、食い下がった。
「おいおい、そんなはずはないだろ。彼女は尼僧だ。それなりには、目立つはずなんだが……。なぁ、お前ら! 誰か、葉宛児って娘を見かけなかったか!」
趙謙が店内の職人たちに声を張り上げる。
だが、返ってきたのは、槌を打つ音に混じった冷ややかな沈黙と、数人の失笑だった。
「葉宛児? 知らねえな。そんな殊勝な名前の女、この精錬所界隈にゃいねえよ」
「尼僧だと? 似たような坊主頭のガキなら、昨日裏路地で野垂れ死んでたがな」
誰も、知らない。
この街の喧騒の中に、彼女の居場所など最初からなかったかのように、人々の記憶は滑り落ちていく。
胤昭は、手元の杯を見つめたまま、一言も発さなかった。握りしめた錫杖が、微かに、震えているようにも見えた。
店主が溜息をつき、身を乗り出して趙謙に囁いた。
「趙謙。……本気でその娘を探すつもりなら、こんなところで油を売ってても無駄だぜ。この街の『石』と『人』の動きをすべて、それこそ石の裏の虫一匹まで把握してるのは、あの方しかいねえ」
「……墨公の爺さんか」
「ああ。あの偏屈じじいなら、その娘がどこの鉱脈に沈んだか、あるいはどこの権力者の奥底に消えたか……石の言葉を聞くように教えてくれるだろうよ。もっとも、門前払いを食らわなけりゃの話だがな」
趙謙は、隣の胤昭を見た。
胤昭はゆっくりと顔を上げ、趙謙に視線を合わせた。その瞳には、先ほどまでの穏やかな光は消え、代わりに底の見えない、冷たい決意が宿っていた。
「……趙施主。行きましょう。その『墨公』という方の元へ」
趙謙は、嫌な顔を隠すことなく、浮かべたが、決意の固まった胤昭に負け、泣く泣く席を立った。
「金はツケで頼む」
「殺すぞ?」
「胤昭」
「仕方ありませんね」
「まあ、どっちが払うでも──」
「……ツケでお願いします」
「……お前ら、出口を塞げ。誰一人、通すなよ」
「「任せな、親父」」
店主の号令とともに、それまで酒を煽っていた職人たちが、示し合わせたようにガタガタと椅子を鳴らして立ち上がった。
煤に汚れた巨躯が、唯一の出口である古びた扉を塞ぐ。その手には、護身用の鉄槌や研ぎ澄まされた墨石のノミが握られていた。
「おいおい、冗談だろ、親父。友人の坊さんの前で、そんな物騒な真似はよせよ」
趙謙が引きつった笑いを浮かべるが、店主は帳場の奥から、ずっしりと重い肉切包丁を取り出し、まな板に突き立てた。
「冗談なもんか。この街じゃ、石も酒も、そして情報もタダじゃねえ。……趙謙、お前一人のツケならともかく、その上等な数珠を持った連れを逃がすほど、俺はお人好しじゃねえんだよ」
一触即発。職人たちの殺気が、酒の匂いと混ざり合って充満する。
だが、その中心に立つ胤昭は、焦る趙謙とは対照的に、ゆっくりと錫杖の先を石畳に置いた。
「……阿弥陀仏。趙施主、どうやらこの街の門を叩くには、経典よりも『誠意』が必要なようですな」
胤昭はそう呟くと、懐から一粒の、濁りのない白い真珠を取り出した。それは墨石城の黒い空気の中で、異様なほど清らかに輝いた。
「これを。……ツケの代わりと言っては何ですが、私の『苦行』への代金として受取りください。残りは、趙施主の飲み代にでも」
店主は、投げられた真珠を空中で掴み、その重みを確かめた。
職人たちの殺気が、潮が引くように消えていく。店主は鼻を鳴らし、包丁を抜いて背後の棚へ戻した。
「……ケッ。坊主、お前、案外いい性格してるな。おい、道を開けろ! 死に急ぐ野郎どもの邪魔をするな!」
扉が開かれ、冷たい夜風が吹き込んできた。
趙謙は「助かった……」と胸を撫で下ろしながら、胤昭の肩を叩く。
「あの真珠、結構な値打ちだったんじゃないか?」
「……こんな所で立ち止まっていられませんからね。それに、仏様なら許してくれるでしょう」
平然と言い放つ胤昭の背中を追い、二人は墨石城の深い夜へと消えていった。




