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武侠小説:慧剣魔僧録  作者: ヤマダ


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第一話

 芳醇な酒──もとい「苦行の水」が趙謙(ちょうけん)の喉を焼き、腹の底を熱くさせた。


 廃寺の冷え切った空気が、その一献でわずかに和らぐ。


「ふぅ……。で、武僧さんよ。あんたほどの腕利きが、こんな煤けた街に何の用だ? 仏の教えを広めるためなら、辞めといた方がいい。俺みたいな仏を信じない奴ばかりだからな」


 廃寺を吹き抜ける風が、火の気のない堂内に砂を運んでくる。


 胤昭(いんしょう)は、趙謙から受け取った干し肉を飲み込むと、先ほどまでの饒舌さを嘘のように消し、じっと闇の奥を見つめた。


「趙施主(せしゅ)。……実は、この街にいる知人を探しておりましてな」


 その声は、読経のように低く、それでいて重い。


 趙謙は、酒の余韻を楽しみながらも、隣に座る男から放たれる「圧」が変化したことに気づいた。


 泰山のような不動。だが、その山肌には、今にも崩落しそうな、鋭い亀裂が隠されているような気配があった。


「知人、ね。こんな煤けた石の山に、坊さんの知り合いが、わざわざ住み着いてるのか?」


「ええ。小宛(しょうえん)という、私の師妹(しまい)です」


 趙謙は、記憶の糸を手繰った。


 だが、この街には星の数ほどの人間が流れ込み、そして消えていく。特に、石の加工場や市場で働く女たちの名など、しがない浪人の耳には届かない。


「……悪いが、聞いたこともない名だ。この街じゃ、名も持たずに石を砕いてる連中がごまんといるからな」


「左様ですか……。まあ、無理もありません」


 胤昭はわずかに口角を上げたが、その瞳は笑っていない。


「何か、特徴とかはないのか?」


「そう……ですね。ドジっ娘とかですか……。あ、実は、私は少龍寺(しょうりゅうじ)の弟子なのです。つまりは、彼女も少龍寺の弟子ということで、尼僧のような見た目の人は俗世には、少ないと思うので、それが特徴と言えますね」


「ほお。やはり、少龍寺の弟子か。そんな名門の門弟が、寺を出るなんて、反抗期もほどがあるぞ?」


「ハハッ……。違いありません」


 胤昭はそう言って、再び釈迦如来像を見上げた。


「趙施主。私は、彼女を連れ戻しに来たのです。……これ以上、彼女が痛い思いをせぬよう……師兄(しけい)として、連れて帰らねばならないのです」


 その言葉の端々に、執着に近い切実さが滲む。


 趙謙は、それを感じながらも、指摘することはない。


「……その師妹は、愛されているな。羨ましい限りだ」


 胤昭は立ち上がり、傍らに立てかけていた錫杖(しゃくじょう)を静かに握り直した。


 ジャラン、と鳴ったその一打は、夜の帳が下り始めた廃寺の沈黙を冷徹に切り裂く。


「愛されている、か。……そう見えるのであれば、仏様も少しは救いを与えてくださるかもしれませんな」


 胤昭は自嘲気味に微笑むと、網代笠を深く被り直した。笠の影に隠れたその瞳は、夜の闇夜と同化していた。


「さて、夜明けを待つのも一興ですが、急ぎの案件ですからね。趙施主、この街で人を探しをするのなら、まずはどこへ向かうべきでしょうか?」


 趙謙は、空になった水筒の残り香を惜しむように鼻を鳴らすと、よっこらしょと重い腰を上げた。


「そんなもの……古今東西、情報の集まる場所は酒場と決まってる。知らん奴の口を割らせるなら、まずは酒を流し込まねば話にならんだろう」


「酒場ですか? 阿弥陀仏……忘れているようなので念のために言っておきますが、私はこう見えても僧侶なのですよ」


「ああ、そうだったな。じゃあ、俺からも忘れているようだから言わせてもらうが、この『酒』は一体全体、どこの誰が持ち歩いていたものなんだ?」


「おや、言ったはずですよ。それは酒ではなく、私の内功によってできた『苦行の水』だ、と」


 胤昭は何食わぬ顔でそう言い切ると、


「助言、感謝いたします、趙施主。おかげで進むべき道が見えました」


 そう言い残すと、胤昭は趙謙の返事も待たず、迷いのない足取りで一人、廃寺の敷居を跨いで夜の闇へと踏み出していった。


 その背中には、他者を拒絶するような、ひどく鋭利な孤独が張り付いている。


「おい、待てってんだ! ……ったく、人の話を聞けよ、あの坊主」


 趙謙は、吐き捨てるように呟くと、慌ててその後を追った。石畳を叩く錫杖の音が、すでに遠ざかっている。


「そっちは市場の裏通りだ、行き止まりだぞ! いいか、行くなら北門近くの『酔猫居(すいびょうきょ)』だ。あそこの店主は人がいいんだ。あんたみたいな胡散臭い坊主の説法でも、酒の一杯くらいで聞いてくれるさ」


 追いついた趙謙が、胤昭の前に回り込んで、肩で風を切る。


 胤昭は足を止め、網代笠の奥から、意外そうに趙謙を見つめた。


「……趙施主。何を?」


「酒を半分寄越したツケだよ。この街で迷子になった坊さんを釈迦様へ送り返すのは、寝覚めが悪くてかなわんからな。ほら、来い。あそこはな肴もうまいんだ。……あ、奢りはしないからな」


 趙謙は鼻を鳴らし、煤煙に煙る街の灯を目指して歩き出した。


 胤昭は一瞬、何かを言いかけ、それから静かに微笑んで、その背中に続いた。

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