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ナインボール

掲載日:2026/01/22

本作は、エブリスタの超妄想コンテスト、テーマ「銀」に投稿した作品です。

「ええと、その、なんて言うのかな、プロのビリヤードをする人のこと。する人は「er」をつけるから、ビリヤーダー?」


夫に出会った27年前、私が最初にした質問。

イヤイヤ期の赤ちゃんみたいな呼ばれ方をした夫は、しばらく目をまん丸にして、それから苦笑しながら、普通に「プレイヤー」と言うことを教えてくれた。

あれから27年、結婚してから24年が過ぎた。

お互いに歳をとるはずだ。


子供は作らなかった。

2人とも口には出さなかったけど、やはり勝負の世界に身を置いているから、浮き沈みが激しいという懸念が、お互いの胸にあったんだと思う。


プロのプレイヤーの妻をしておいてなんだけど、私はビリヤードのルールが未だによくわからない。

基本的にポケットにボールが落ちればいいらしいことぐらいはわかるけど、ゲームの種類と局面によっては落ちちゃダメなときもあるらしい。


夫は、日本ランカーで、国内に限れば、ビリヤードをする人たちの間で知らない人はいないくらいに強い……らしい。

夫の賞金とレッスン代、それからプールバーの収入で生活に困ることはないけど、私にわかるのは、ビリヤード台の手入れと球の磨き方くらいだ。


うちのプールバーには、夫が獲得したトロフィーや賞状が山のように並べられている。

もちろん自慢ではないし、夫は、それには全くと言っていいほど興味を示さない。

その地点まで到達したという事実が夫にとって大切であり、トロフィーや賞状は、きっと夫にとって映画の半券のようなものなのだろう。

これらのトロフィーは、ここが夫の店であることを示すとともに、夫のプロプレイヤーとしての腕前を示す品質保証書だ。

そして、その品質保証書のほとんどすべてが第二位入賞のものだ。


「シルバーコレクター」


一位になれない二位止まりの人を揶揄する言葉だけど、裏で言われている夫のあだ名だ。


夫には強力なライバルがいた。

10代の頃から切磋琢磨してビリヤードの腕を磨き合い、どんな大会でも、決勝か準決勝では、必ずそのライバルに当たったそうだ。


そしてそれは、今もそう。

名だたる大会では、必ず夫の前に立ちはだかる巨大な壁。

恐らく、少年の頃から数え切れないほど負け続けたであろう夫は、今も、彼に破れた時は、とても悔しそうな顔で、一人で耐えている。

何回負けても、何回届かなくても、やはりその顔をする夫のことを、私はとても愛している。


そんな夫が自分のプールバーでレッスンをする時、私が気づいたことがある。

それは、生徒がショットをするような、ふとした瞬間、夫は壁に掲げられた賞状や棚に飾られた数々のトロフィーを眺め、そして、その最後に、必ず私をじっと見つめるということだ。


その日、私がカウンターの中で在庫のチェックをしていると、夫がビリヤード台から離れ、使い込まれた1×2のキューケースを片手に、カウンターの1番左端の席に座った。

夫がそこに座る時は、今日の仕事はおしまいという合図で、私は黙って、お酒の弱い夫のために、極薄のジントニックを作る。


「今、少しいいかな?」

コースターの上にジントニックのグラスを置いた私に、夫は穏やかに声をかけた。

私は無言でうなずくとカウンターの下に手を伸ばし、オーディオの音量を少し下げた。

グラスの中の氷が小気味よい音を立てて崩れる。


「引退しようと思う。どうかな?」

どうと言われても、プロのビリヤードプレイヤーの引退時期の判断なんて、素人の私にわかるはずもない。

そう考えたけれど、夫が私に確認を求めているのは、共に生計を立てるパートナーとして、今後の生活の見通しを言っているのかもしれない。


私が在庫のチェック表を挟んだバインダーを持ったまま、しばらく考え込んでいたからだろうか、夫はジントニックに口もつけず、言葉を継いだ。

「まだ早いかな?」

「あ、あの、ごめんなさい。そうじゃなくて、今考えていたことを、そのまま伝えるね」


私は、素人だからプロのビリヤードプレイヤーの引退時期はよくわからないこと、プールバーの経営は夫が思っているより順調であること、もし夫がハウスプロとしてレッスンを続けてくれるなら生活に問題は生じないことを、身振り手振りを交えて一生懸命に説明した。

「雇っていただけるのであれば、もちろん引退後はこちらのハウスプロとして働かせていただきます」

少しおどけてそう口にした夫は、ジントニックをひと口飲むと、壁にかかった賞状を眺めた。


「そうしたら、引退のタイミングは任せてもらっていいかな?」

夫の言葉に私は笑顔でうなずいて、少し屈んでオーディオのボリュームを元へ戻した。

私の低い目線からグラス越しに夫が見える。

夫の視線の先を追うと、そこには、夫が手にした数々の銀色に輝くトロフィーがあった。


やがて月日が流れ、バーで定期購読しているビリヤード雑誌の片隅に「日付」と「名前」と「引退」とだけ書かれた、ほんの小さな記事が載った。

私は、夫が最後に何か大きなトーナメントに出場してライバルの彼をコテンパンに打ちのめすのではないか、少なくとも、そういう最後の挑戦のようなことをするのではないかと思っていたけど、夫はただ静かに協会に引退届を提出しただけだった。


そして、ハウスプロとしての夫の毎日が始まった。常連との相撞き、イベント、トーナメント運営、デモンストレーション、それから店の雰囲気づくりと、やることはいくらでもあった。


夫は、もともとこのハウスのオーナーだけど、トーナメントプロとして遠征していることが多かったし、レッスンの要望に応じて生徒のもとに出かけることも少なくなかった。

そんな夫がハウスにいてくれることで、場が盛り上がり、夫を目当ての来客もかなり増え、プールバーの経営は、前にも増して安定した。

夫はとてもよく働き、そしてその合間に、やはり賞状とトロフィーを眺め、最後に必ず私を見つめた。


そんな日常がスムーズに転がり出した頃、バーに一本の電話が入り、手を離せなかった私に代わって夫が電話に出た。

夫は、電話口で一言二言、話したあと、受話器の口を左手で押さえて私を振り返った。


「彼が来たいって言ってるけど、来てもらってもいいかな?」


「え? 彼って彼?」

小泉構文のような私の間の抜けた答えに、夫は苦笑しながら何度も首を縦に振った。

そのたびに、ほのかに暗いプールバーの灯りの下、夫の手にあるワイヤレスホンのボタンの蛍光色が短い残像をひく。


私は夫の顔をしばらくじっと見つめたあと、口を引き絞り、夫にシンクロするように何度も首を縦に振った。

それを見た夫は私にうなずき返し、その後もしばらく話し込んでいたが、やがて電話を切り、子機を持ったままカウンターの中に入ってきた。

「来月の十日、短い時間だけど来るって」

夫はそう言いながら、冷蔵庫に貼り付けてあるカレンダーに赤丸をつけた。


「あ、あのさ、ちょっと聞いてもいいかな?」

「何?」

カレンダーの前で子機と赤ペンを両手に持った夫は、私を振り返った。

「失礼なこと聞くかもしれないけど、嫌じゃないの?」

「嫌って、彼が来ることが?」

「そう」

「え? なんで?」

「な、なんでって‥。」

私は、思いもよらない夫の言葉に、手にした包丁を持ったまま、その場に立ち尽くした。

「ずっと負けていたから?」

夫の言葉に責める色はなかった。

ただ、言葉の通り、静かに事実を確認するだけだった。この色は銀色ですかと聞くように。

「確かに、超えられなかったことは悔しい。自分でも驚くほど負け続けたからね」

「う、うん」

「試合中も、彼が急にお腹を壊したりしないかなぁとか思ってた」

「だよね」

「うん。だけど、それと同時に、公平な競技の中での勝敗だから、彼自身に含むところはないよ」

「そっか」


新しいゲームが始まったのだろう、ビリヤード場からブレイクショットの音が響き渡った。

「ごめんね」

私が蚊の鳴くような声で呟いた言葉は、ぶつかり合う球の音に紛れ、夫に届いたのか分からなかったけれど、夫は優しく微笑んで何も言わなかった。


結論から言えば、彼はとても、こう、何と言うか、いい奴だった。

彼が来る日が近づくにつれ、最初は少しずつ、最後は熱烈なファンのように、私はインターネットや雑誌のバックナンバーで、彼について調べまくった。

ビリヤードの成績とは別に伝わる彼の人格は、絶対に営業用と信じたいけれど、ノブリス・オブリージュを体現する王者としてのエピソードしか見当たらなかった。


「個人的に親しいの?」

そう尋ねた私に、キューの手入れをしていた夫は、しばらく上を見上げたあと

「下の名前も、うろ覚えなくらいかな」

そう言って、夫はクロスでシャフトを拭き取り、指先で感触を確かめた。

「ねぇ、下剤買っとこうか、強めなやつ」

私がそう続けると、夫は立ち上がってキューをラシャの上に置いてゆっくりと転がし

「え、なんで?お通じよくないの?」

と、トンチンカンな返事をして、キューの反りを確認していた。


予定よりだいぶ遅れてやってきた彼は、私たちに何度も繰り返し謝り、そして次のスケジュールから、予定よりも早く帰らなければならないことも併せて謝罪した。

バーカウンターにいた私はグラスを拭きながら、熱い十代の頃の話や、私にはわからないビリヤード論が始まるのを待っていたけど、一つ空けてカウンター席に座った二人は、前を向いたまま、揃って極薄のジントニックを飲みながら、ほとんど何も話をしなかった。

ただ、帰る時間が迫ると、彼は夫に1ゲームだけナインボールを誘った。


時間がないから、それはわかる。

でも、ナインボールはフロックがあるし、ブレイクエースもある。

もちろん、正式な試合じゃないし、場末のプールバーでのお遊びだけど、私は、二人が最後にナインボールをする意味を取りかねていた。


国内上位ランカー二人がプレイしたそのゲームは、驚くほど早く終わった。

彼の滑らかなコンビネーションショットで9番がポケットに沈み、勝敗が決した。

彼は最後にボールリターンに戻った9番を手に取りると、それを夫に手渡し

「キャロムに行くから」

そう言って店を出て行った。


次の世界を問うようなナインボールを手に、涙と微笑の間を揺れ動く夫の表情を、私は黙って見つめていた。

「ごめん、僕だけ浸っていて。意味わかんないよね、はたから見たら」

涙を押し切った夫は、手にしたナインボールを軽く投げ上げながら、カウンターに歩いてきた。

夫が席につき、ナインボールをカウンターに置くと、ボールはゆっくりとわずかに転がり始め、カウンターの脇に置いてあった銀の盾に触れて止まった。


「キャロムは、ビリヤードのゲームの系統の一つで、一般的にはスリークッションを指すんだ」

「スリークッション?」

「うん。スリークッションは簡単に言うと、ナインボールやエイトボールなんかのプール系統と違って、フロックやラッキーショットがあり得ないゲームなんだよ」

「厳密ってこと?」

「そうだね。プレイヤーの実力が正確に反映されるから玄人好みだね。だけど……」

「だけど?」

「儲からない。理解するのに時間がかかるし、一般ウケはしないから」

「彼は難しくて儲からない方にいくの?なんで?」


私が子供のように思ったことを口にするから、夫は少し困った顔をして、それから少し考え込むと

「僕が引退したからかな」

と言ってハイスツールの上で大きく背伸びをした。

新しく極薄のジントニックを作る私を、夫は背伸びしたまま見下ろして、にやにやしながら

「今、『彼より弱いあなたが引退したら、なんで彼が、せっかく儲かっている道を捨てて、難しくて儲からない道を歩み出すの?彼は修行僧か何かなの?』って思っているよね?」

と、預言者のように右手を私に向けて言った。


私は大きく目を見開き、心底驚いた。

「エスパー? エスパーなの?」

そう言った私は、きっと鼻の穴が最大口径まで開いていただろう。

夫は、そんな私の手を両手で優しく包み込み

「いつも一緒にいてくれてありがとう。君は僕の半身で、僕の唯一の背骨でもある」

そう言って、私の手を包んだまま、両手を自分の額に軽く押し当てた。


私は、夫の手と額の温もりを感じながら

「私に何かできることある?」

そう尋ねた。

すると夫は、しばらくして静かに手を離した。

そしてカウンターの隅に転がっていたナインボールを手に取ると、私の手に握らせて

「また立ち上がるときは、お願いすることもあるかも。だけど、今はとりあえず、そのポケットに入っている比較的強い下剤を薬箱に戻してきて」

そう言って、いたずらっぽく笑った。

そんな夫から受け取ったナインボールは、黄金の重さで銀色の輝きを放っていた。


(おわり)


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