第8話:絶望する王子と、幸せな「お断り」
王城の謁見の間は、お通夜のように静まり返っていた。
ただし、並んでいるのは喪服の参列者ではなく、鎧を捨て、煤だらけになった騎士たちだ。
「……も、もう一度言え」
玉座に座るアルフレッド王子の声が震えている。
報告に戻った第三部隊長は、ガタガタと膝を震わせながら、床に額を擦り付けていた。
「は、はい……。エレナ様は、戻りません。戻る気はないと……」
「連れて来いと言っただろう! 王命だぞ! 力ずくでも引っ張ってこいと命じたはずだ!」
アルフレッドが叫び、手元のワイングラスを床に投げつけた。
赤い液体が絨毯に広がる。まるで、この国がこれから流す血のように。
「そ、それが……無理なのです」
「何が無理だ! 相手はたかが女一人だろう!」
「女一人ではありませんでした……! あそこには、伝説のフェンリルと……え、炎竜王イグニスがおりました……!」
その名が出た瞬間、室内の空気が凍りついた。
宰相が息を呑み、大臣たちが顔を見合わせる。
神話やお伽噺に出てくる、天災そのもの。人間がどうこうできる相手ではない。
「り、竜王だと……? 馬鹿な、なぜそんな化け物がエレナごときに……」
「『俺の専属医だ』と仰っていました。そして……『次に手を出したら、王都ごと地図から消す』と……」
ガタンッ。
アルフレッドが腰を抜かし、玉座から崩れ落ちた。
「ひ……」
顔面蒼白になり、口をパクパクと開閉させる。
地図から消す。
竜王ならば、それは比喩ではなく実行可能な「予定」だ。
エレナを連れ戻すどころか、これ以上関われば国が滅ぶ。詰んでいた。完全に、手詰まりだった。
「嘘よ……嘘ですわ!」
沈黙を破ったのはミリアだった。
彼女は信じられないという顔で、騎士隊長に詰め寄る。
「そんなのハッタリに決まってます! あの陰気なエレナお姉様に、そんな大層なコネがあるわけないじゃないですか! きっと幻影魔法か何かで脅しただけです!」
「幻影で俺たちの鎧が溶けるか! この火傷が見えないのか!」
隊長が焼け焦げた腕を見せると、ミリアは「ひっ」と悲鳴を上げて後ずさった。
「ど、どうするんですかアルフレッド様ぁ……。このままじゃ、呪いが治せません……私のせいになっちゃいます……」
「うるさい! 黙れ!」
アルフレッドは頭を抱えた。
窓の外を見る。王都の空は、呪いの瘴気でどす黒く淀んでいる。
エレナがいれば。
あの「痛い」魔法があれば、一発で晴れるのに。
彼女を追放したのは自分だ。彼女を罵倒し、傷つけ、追い出したのは自分だ。
「あ、あぁぁ……」
後悔という名の激痛が、遅すぎるタイミングで彼の胸を刺した。
しかし、エレナの魔法とは違い、その後悔が彼を癒やすことは永遠にないだろう。
◇◇◇
一方その頃。
王都から遠く離れた「森の隠れ家」では、穏やかな夜が訪れていた。
「ふふっ、綺麗な月」
私はテラスで、夜空を見上げていた。
足元ではポチが丸くなって寝息を立てている。イグニス様は「寝床を用意しろ」と言って、勝手に屋根の上でドラゴンの姿に戻って眠っている(おかげで暖房いらずだ)。
王都からの追手が帰った後、不思議と心は静かだった。
以前の私なら、「国が大変なのに、私だけ幸せになっていいのかな」と悩んだかもしれない。
でも、今は違う。
「私はもう、自分のために生きていいのよね」
手には、温かいハーブティー。
周りには、私を必要としてくれる、ちょっと変わった常連客たち。
激務も、理不尽な罵倒もない。
ここにあるのは、私が望んだ「スローライフ」そのものだ。
「さようなら、アルフレッド殿下。ミリア様」
私は王都の方角に向かって、小さくグラスを掲げた。
「せいぜい頑張ってください。私はここで、世界一痛くて、世界一優しいカフェを続けますから」
カチャン、とグラスを置く音が、心地よく夜に溶けていった。
私の新しい人生は、まだ始まったばかりだ。




