第2話:辺境のボロ家と、最初の「痛い」お客様
王都を出てから三日。
私は乗り合い馬車を乗り継ぎ、大陸の北端にある「魔の森」の入り口に辿り着いた。
鬱蒼と茂る木々。漂う濃密な魔素。
普通の人なら尻込みするような場所だけれど、私にとっては懐かしい実家の匂いだ。
「さて、おばあちゃんの家は無事かしら」
森の奥へ進むこと数十分。開けた場所に、その小さな屋敷は建っていた。
かつて「森の魔女」と呼ばれた祖母が暮らしていた隠れ家だ。数年放置されていたせいで、壁は蔦に覆われ、屋根には苔がむしている。
……正直、ボロ屋だ。
でも、私には最高の城に見えた。
「まずは掃除ね。これくらいなら一瞬で終わるわ」
私は杖を振るい、屋敷全体をイメージする。
城で毎日、広大な大聖堂をたった一人で浄化させられていた経験が、こんなところで役に立つとは。
「――浄化・全域」
カッ、と白い光が屋敷を包み込む。
バチバチという音と共に、長年蓄積された埃、カビ、虫、そして建材を腐らせようとしていた腐敗の呪い(湿気)が、根こそぎ焼き払われた。
光が収まると、そこには新築同然にピカピカになった屋敷が佇んでいた。
窓ガラスは曇り一つなく輝き、蔦は綺麗に取り払われている。
「うん、完璧。やっぱり私の魔法は『掃除』に向いてるのよね」
城では「家具が焦げ臭くなるからやめろ」と怒られたけれど、ここでは誰にも文句は言われない。
私は鼻歌混じりに屋敷に入り、荷物を解いた。
王都で買い込んだ調理器具、こだわりの茶葉、そして大量の薬草の種。
テラスにお気に入りのテーブルセットを広げ、早速お湯を沸かす。
森の静寂の中で飲むハーブティーは格別だった。
「……幸せ」
一口飲んで、ほう、と息を吐く。
王都の喧騒も、殿下の罵声もない。あるのは鳥のさえずりと、風の音だけ。
これよ。私が求めていたのは、この平穏なのよ。
と、その時だった。
ガサッ、ガサガサッ。
近くの茂みが大きく揺れ、ドサリと何かが倒れ込む音がした。
私はカップを置き、警戒しながら近づく。
「……犬?」
そこには、銀色の毛並みをした巨大な狼――のような生き物が倒れていた。
大きさは牛ほどもある。普通の狼ではない。魔獣だ。
けれど、その体は酷い有様だった。
脇腹が大きく抉られ、黒い霧のようなものが傷口から溢れ出している。
(これは……マンティコアの毒? いいえ、もっと厄介な『壊死の呪い』だわ)
放っておけば、あと数時間で命はないだろう。
私はため息をついた。
せっかくのスローライフ初日に、死体処理なんてしたくない。
「ねえ、聞こえる?」
私はしゃがみ込み、狼の耳元で声をかけた。
狼がうっすらと目を開ける。金色の瞳が、怯えと威嚇で揺れていた。
「治してあげる。でも、先に言っておくわよ」
私は狼の鼻先に人差し指を立てた。
「私の治療は、すっごく痛いの。死ぬほど痛いのよ。暴れたら舌を噛むから気をつけてね」
狼は「グルル……」と弱々しく唸ったが、逃げる力も残っていないようだ。
私は覚悟を決めて、傷口に手をかざした。
「聖なる焼却」
ジュワアアアッ!!
私の掌から放たれた白光が、傷口の黒い霧に食らいつく。
その瞬間、狼がカッと目を見開き、絶叫に近い遠吠えを上げた。
「ワオオオオオオオッ!!??」
ビクンビクンと巨大な体が痙攣する。
無理もない。私の魔法は、傷口にこびりついた呪いを、高密度の魔力で物理的に「焼き切る」のだ。麻酔なしで焼きごてを当てられるようなものである。
殿下が「拷問だ」と泣き喚いたのも、まあ、分からなくはない。
「我慢して! 今、根っこを掘り出してるから!」
私は容赦なく魔力を注ぎ込む。
呪いがジジジと断末魔を上げ、灰になって消滅していく。
狼は白目を剥いて泡を吹いているが、ギリギリ意識は保っているようだ。偉い。
そして三十秒後。
「――はい、終わり」
私が手を離すと、そこにはツルツルに塞がった綺麗な肌があった。
黒い霧は完全に消え失せ、抉れていた肉も再生している。
狼はぐったりと地面に突っ伏していた。
……やりすぎたかしら?
さすがにショック死してたら目覚めが悪い。
「あのー……大丈夫?」
恐る恐るつつくと、狼がガバッと顔を上げた。
そして、自分の脇腹を確認し、立ち上がり、ブルブルと体を振るう。
次の瞬間。
「ハッ、ハッ、ハッ!」
狼は尻尾をプロペラのように回転させ、私に飛びついてきた。
「えっ、わ、ちょっと!」
押し倒され、顔中をベロベロと舐め回される。
そこに敵意は微塵もない。あるのは、爆発的な歓喜と感謝だけだ。
(……あれ?)
殿下たちは「痛い! ふざけるな!」と怒ったけれど、この狼は違う。
痛みの先にある完全な治癒を理解し、体が軽くなったことに興奮しているのだ。
呪いが骨の髄まで食い込んでいたから、よほど体が重かったのだろう。それが一瞬で消えたのだから、痛みなど些細なことなのかもしれない。
「よしよし、わかった、わかったから!」
私は笑いながら、狼の首元のモフモフを撫で回した。
銀色の毛並みは極上の手触りだ。これはいい。最高のクッションになりそうだ。
「君、名前は? ……ないなら、『ポチ』でいい?」
狼――伝説の魔獣フェンリルである彼は、その安直な名前に一瞬だけ不服そうな顔をしたが、すぐに「ワン!」と元気よく答えた。
こうして、私の薬草カフェ(予定)に、最初の常連客兼番犬が誕生したのだった。




