9. 高校生編3 :栄子
私たちのお決まりの集合場所は、田木町会館の図書館。一緒に勉強するのが習慣になっていた。
「エーちゃん、こっちの式はね……代入法が早いよ。ほら、こっちの y=2x+3 を、もう一つの式に突っ込むの」
エリちゃんはそう言って、ノートにさらさらと書き込む。
「え、えっと……こう、かな?」
「そうそう!正解!一回慣れたらゲーム感覚で解けるよ。エーちゃん、その調子!」
先生みたいに、いや、それ以上に優しい声で褒められると単純な私は喜んでしまう。
一段落ついて、休憩室のソファに並んで腰を下ろした。缶ジュースのプルタブを開けると、エリちゃんがこちらをじっと見ている。
「エーちゃん、ずっと思ってたんだけど……その爪、かわいいね」
「え?あ、これ?ありがと」
思わず口元がゆるむ。
「ネイルチップで、私がデザインしたんだぁ。夏だから爽やかに青チェック!」
英里は、ぱちぱちと瞬きをして、目をまんまるにした。
「えっ?!これ、売り物じゃなくてエーちゃんが作ったの?……すご、商品じゃん!」
「そ、そうかなぁ……」耳が熱い。
「うちにネイルチップいっぱいあるからさ。エリちゃんも付けてみない?夏休みだし……」
ダメかな、と恐る恐る視線を上げる。
けれどエリちゃんの瞳はキラキラ輝いて、期待でいっぱいだった。
「いいの?!付けたい!……もう、エーちゃんチョイスで任せる!てか、それがいい!」
あまりに前のめりな反応に、思わず吹き出してしまう。勉強してる時のきりっとした顔とは違って、今のエリちゃんは年相応に無邪気で。なんだか、そのギャップが可愛くて仕方がない。
――エリちゃんには、キラキラ派手なのよりシンプルで大人っぽいのが似合うかも。ブルー系……?いや、シルバーも悪くない……。
早くもデザインに悩み始める自分に、ちょっと笑えてきた。
「楽しみにしててね、エリちゃん!」
私の声に、エリちゃんはうん、と嬉しそうに頷いた。
※※※
「まさか本当に付けてくれるなんて……」
小さなテーブルを挟んで、エリちゃんが照れ笑いを浮かべる。
「当たり前じゃん〜」
私は自分のネイルセットを広げ、エリちゃんの手をそっと取った。
「しかも凄く綺麗……エーちゃん、もはやプロでは?」
エリちゃんは目を丸くして、机に並べたネイルチップを眺める。
私が彼女をイメージして作ったのは――澄んだ淡い青のグラデーション。派手になりすぎないよう、チップの半分だけに上品なラメを散らしてある。
「大げさ〜……でも、嬉しい」
私は小さく笑って、説明を添える。
「チップの長さも一番短いやつだから、勉強の邪魔にならないと思うよ。……ほら、接着剤を塗って、こうやって押さえて……」
爪にチップを載せ、指先を私の指で支えるように押さえ込む。それは作業なのに、まるで手を繋いでいるみたいで――。
(……手を繋いだのなんて、小学生……いや、幼稚園ぶりかも?)
ふと顔を上げると、エリちゃんの優しい目と視線が重なった。
「エーちゃんの今日のネイル……人差し指と薬指、私に付けてくれるデザインと似てるね?」
「……あ、バレちゃった?」
私のは桜色。色は違うけれど、模様はお揃い。やばい、引かれたかもしれない――そう思った瞬間。
「なんかイイね……!嬉しい」
エリちゃんは少し頬を染めながら笑った。
その一言で胸の奥がじんと熱くなる。
「嬉しいのは、こっちなのに……」と声に出せないまま、私は視線を彼女の指先に戻した。
「うわぁ……!綺麗!付けたら印象が全然違う〜!ありがとう、エーちゃん!」
エリちゃんは両手を照明にかざし、きらきら光る爪を眺めては何度も嬉しそうに笑う。
勉強を教えてもらってばかりの私には、これくらいしか返せないけど……少しは役に立てた気がして、胸が弾んだ。
「ねぇ、エーちゃん」
エリちゃんの声が、不意に真剣になる。
「昔ね……エーちゃんがオシャレの話をしたがってたのに、私、うまく出来なくて……ゴメン。
私は相変わらずで、エーちゃんのセンスに追いつけるか分からないけど……でも、今のエーちゃんの好きなこと、ちゃんと知りたいって思ってる」
目頭が熱を帯び、胸の奥までじんと広がる。
私は慌てて首を振った。
「謝らないで……!こっちだって、エリちゃんの好きな物を否定したようなもんだし。
……うちも、エリちゃんの好きな物、知りたい。馬鹿だから、理解できないかもだけど……」
言葉を交わすうちに、ふたりの視線が絡まる。静かな休憩室で、時が止まったみたいだった。
私たちの間に、もう壁なんてない。
かわりに芽生えつつあるのは――やさしくてきらめく何か。
※※※
セミがけたたましく鳴く午前中、私はエリちゃんの部屋でDVDに前のめりになっていた。
エリちゃんが小学生の頃から好きだった分厚い児童書の実写映画シリーズ。相変わらず読書は苦手な私でも、映画なら頭に入りやすい。いや、正直に言えば――
「面白すぎるんだけど…!」
そう叫ぶと、エリちゃんはなぜか得意げに胸を張った。
「でしょ?!」
箒で飛び回る魔法使いたちの迫力あるシーンに、息をのむ。やがてエンドロールが流れ、麦茶を飲み干した私がふう…と息をついたその時だった。
「エーちゃん、絵…描いてみない?」
「え?」
唐突なひとことに、私は目を瞬かせる。
「私の知り合いがボランティアで公民館の壁に絵を描くことになってて、手伝ってほしいって言われたんだ。エーちゃん、絵が好きだったし…どうかな?」
「んー、手伝いなら…いいよ」
小学生以来、まともに描いていない。落書き程度しかできないけど、嫌いじゃない。手伝いくらいなら、と私は頷いた。
――けれど状況は一変する。
「うん、栄子ちゃんメインで描いてみようか!!」
「ええええ!!?」
目の前の大人――ボランティア員のナオコさんは、公民館の花壇に面した壁を笑顔でパン!と叩いた。
「元々ここの壁画は子どもに描いてもらう予定だったんだよね。でも全然集まらなくて…英里ちゃんに声を掛けて正解だったわ!」
豪快に笑うナオコさんと、「いいじゃん!」と笑うエリちゃんを交互に見て、私は焦る。
「やば!でもっ、うち、まともな絵なんてほとんど…」
「チャレンジしてみな若者!大丈夫、私がサポートするから!」
「エーちゃん、ナオコさんはプロのアーティストさんだよ。良い機会だと思うな…!私も手伝う!」
エリちゃんがそう言うなら。背中を押してくれるなら――
「な、ナオコさん!よろしくお願いします!エリちゃんも!」
決心したその日から、私はほぼ毎日エリちゃんと公民館に通うことになった。勉強を図書室で済ませたあと、壁画のデザイン案に頭を悩ませる日々。
「ヤバい…まじでヤバい…!ただでさえ勉強で頭パンパンなのに…デザイン考えるとか……!」
「……リタイアする?」
エリちゃんが挑発するように私の顔を覗き込む。わざとらしいのはわかってる。
「しない!」
久々に押し入れから引っ張り出したスケッチブックは、半分以上が白紙。
その白いページに、私は猫や花を描いては――納得いかず、大きくバツ印をつける。
横を見ると、エリちゃんはノートパソコンを手元も見ずに打っていた。指が軽快に動く姿は、なんだか大人びて見えてかっこいい。
「…エリちゃんは何してんの?」
「ん? へへ…チャレンジしてるエーちゃんに影響されたってわけさ」
私は首を傾げ、パソコンの画面を覗き込む。
『エイミーはエレノアの小さい手を握って、その宝石にも似た青い瞳を覗き込む――』
「……小説?」
思わず声に出すと、エリちゃんの頬がかすかに赤く染まる。それでも視線は逸らさず、キーを叩く音を止めない。
「そ、書きかけで止まってた話があってね」
ああ、そうだ。エリちゃんは昔から絵本や小説が大好きだった。中学の時にも、小説を書き溜めたノートがあったことを思い出す。
「そーなんだ…」
私が壁画を描くと決めたことが、エリちゃんの背中を押せたのだとしたら――嬉しい。
(がんばれ…エリちゃん)
私は姿勢を直し、再びスケッチブックに向き合った。




