8. 高校生編2 :英里
2006年、私は市内の進学校に通っている。
腰パンのヤンキーも、カバコ級の女ボスもいない。けれど、ヒエラルキーが完全に消えているわけじゃなかった。
しかし、いたって平凡な学校生活。
私は中学と同じく文芸部に入り、勉強の合間に小説を書いていた。何度かコンテストに応募したけれど、入賞は一度もなし。
(なんでだろ…やっぱり私、書き方が回りくどいのかな)
創作ノートには「魔法使い」「女主人公」とだけ殴り書きがしてあって、物語は一向に進まない。夏休みの午後、集中できない頭を切り替えようとカバンに参考書とノートを詰め込み外へ出る。
「行き詰まったら外の空気を吸え」――どこかの小説家が言っていた言葉に従って。
田木町会館の図書館は小さな施設だけれど、涼しくて人も少なく、私のお気に入りだった。中へ入ると、心地よい冷気が汗を冷やす。
(…あれ?先客?)
めったに若い子はいないはずのその空間に、茶髪の艶やかなセミロングの女の子が座っていた。長い睫毛、すっと整った横顔。
――エーちゃん?
思わず声が漏れると、彼女も驚いたように大きな目を見開いた。
「エリちゃ…」
「ひ、久しぶり!…木村さん」
懐かしい姿は少し痩せたようにも見えたが、それでも変わらず、まぶしいくらいに綺麗だった。嬉しいのに、どう反応していいかわからない。声をかけただけで精一杯で、距離感が掴めない。
(どうすれば自然なんだろ…?隣に座ったら迷惑かな、でも離れたらよそよそしいかな…)
そんな私の逡巡を見透かしたように、エーちゃんが口を開いた。
「え、と…ここ、座る?」
思わず心臓が跳ねる。
「う、うん…!」
そのお誘いに引き寄せられるように隣へ腰を下ろした。
「や…すんごい美人がいるなぁと思ったら木村さんでビックリしたよぉ」
私の言葉に対してエーちゃんは、少し恥ずかしそうに睫毛を伏せ、鈴のような声で呟く。
「ありがと。あとさ、…木村さんじゃなくて…もっと気軽に呼んでくれていいよ。『エリちゃん』」
「…うん。エーちゃん」
中学の頃の、遠目で見ていたクールな彼女とは違う。今は照れを含んだ笑顔を見せる柔らかさがあって、私は顔に熱が集まるのを感じた。これがツンデレの破壊力なのか。
「へへ、懐かしいね。そういえばエーちゃん、商業高校に行ったんだよね。あそこ制服が可愛いから、エーちゃんに似合ぅおっ!」
言いかけて、変な声を出してしまった。
だって、エーちゃんが泣いていたから。
必死に笑おうとしながらも、頬を伝う涙は止まらないようだ。
「あはは…あんなとこ、まじでサイアクだよ…ほんと…ひぐっ」
「ど、どっどうしたの!?何があったの」
私は慌ててハンカチを差し出す。洗っておいてよかった。
エーちゃんは震える声で続けた。
「綾子達に、面がムカつくって…シカトされたり…ノートとかゴミ箱に捨てられたり…」
その名前が出た瞬間、私の中で怒りが弾けた。
「えっ、カバコが!?あの水揚げされたボラみたいな顔が、このエーちゃんをムカつくって?! ありえない…どこまで性格ヘドロなん…!」
本気で腹が立った。
あの顔面性格破綻者――カバコ。美貌を誇るエーちゃんに嫉妬して、とうとう矛先を向けたのだ。しかも「顔がムカつく」?
(ならカバコは周囲の人間に慰謝料でも配ってまわらんかい!)
胸の底から煮えたぎる怒りに、私は思わず拳を握りしめた。カバコのせいで、エーちゃんが泣いている。
その泣き顔をどうにかして笑顔にしたくて、私は衝動のように言葉を口にした。
「エーちゃん…今から『あだ屋』行かない?」
返事を待つ間に胸が高鳴る。
けれど、エーちゃんは涙で擦れたマスカラの跡を気にすることなく、嬉しそうに頷いた。
――あだ屋。
私たちが子どもの頃、駄菓子やアイスを求めて通った店。
入口のガラガラとした引き戸をくぐると、懐かしい甘い匂いが鼻をくすぐる。
「マジ懐かしい…」
エーちゃんの目が、黒く滲んだ縁取りの向こうでキラキラしていた。私は胸がいっぱいになった。泣いていたさっきよりも、ずっと綺麗だ。
駄菓子コーナーの冷凍庫から、ソーダ味のアイスバーを二本取り出して購入する。
外のベンチに並んで座り、カリ、とかじる。爽やかな甘みと冷たさが口に広がる。
(エーちゃんと並んで食べるの…小学生ぶりだな)
噛みしめるように味わいながら、私たちは昔話をした。
あだ屋で買った卵型チョコの話。
開けても開けても犬が出なくて、二人とも同じ「トカゲ」が出たこと。同級生の笑えるエピソード、最近の趣味のこと…。
笑い声が自然と重なって、いつの間にか胸の奥を塞いでいた壁が崩れていく。
まるで、あの頃に戻ったみたいだった。
でも――私はもう、子どものままではいられない。今日限りの再会にしたくなかった。
勇気を出してみる。中学の頃には出せなかった勇気を。
「エーちゃん…あの、えっとさ…よければ…夏休みだし、これからちょいちょい…会わない? 課題もあるし、一緒にやったり…迷惑じゃなければ」
はやる気持ちが声に乗って、早口になる。
お願い、引かないで。心の中で祈る。
「迷惑じゃない!私も…あ、会いたい!」
エーちゃんの声は真っ直ぐで、私は心の中で思い切りガッツポーズをした。
彼女がポケットから携帯を取り出す。ラインストーンで飾られた、二つ折りのキラキラ光る携帯電話。
「エリちゃん、赤外線できる?」
「うん!」
私もスライド式の携帯を差し出し、赤外線通信でアドレスを交換する。ピピッと短い音がして、画面に「通信成功」の文字が浮かんだ。
その瞬間、嬉しすぎて、気を抜けば口元が緩んでしまいそうだった。
気づけば夕方になっていた。
私たちは分かれ道の前で立ち止まり、しばし互いの顔を見つめ合う。
夏の夕日が斜めから差し込み、エーちゃんの横顔をやわらかく照らしていた。
その笑みは驚くほど綺麗で、昔の印象そのままに可愛らしく、そしてどこか大人びて見えた。私はその笑顔に、心の底から安心した。
「エーちゃん…『またね』」
「うん…!『また』…」
たったそれだけの言葉が、どうしてこんなにも胸を満たすんだろう。
「またね」が、こんなに安心できる言葉だとは知らなかった。
エーちゃんも、少しでも同じ気持ちでいてくれたら――そう願いながら私は歩き出した。
夜。
ラジオをつけ、自室で机に向かう。勉強の合間に、私は何度も携帯を開いてしまう。
画面には、エーちゃんから届いたメール。絵文字がふんだんに散りばめられた、彼女らしい明るくて可愛い文章。
『エリちゃん✨️✨️今日はマジでありがと✨️すごく元気でた❤️080-☒☒☒-☒☒☒❤️』
読むたびに胸が温かくなり、自然と口元が緩む。ふと、ラジオから流れてきたバラードに誘われて、小さく口ずさむ。切なくも優しいその旋律は、窓の外の夜空と不思議と重なって聞こえた。
見上げれば、夏の雲の切れ間から三日月が静かに顔を覗かせている。
その光はまるで、私たちの「またね」をそっと見守ってくれているようだった。




