7 高校生編1 :栄子
2006年――私はM市内の商業高校に入学していた。
綾子をはじめ、中学校からの顔ぶれもちらほら見える。年月が経ってもヒエラルキーは変わらず、仲間たちは相変わらず綾子の顔色を伺いながら群れていた。
かつて私のまわりをざわつかせた「ヤクザや他校の不良と繋がっている」などという噂も、気づけば自然に消えていた。
いつもの通り憂鬱な気分を抱えて教室に足を踏み入れる。
そこには、いつものように誰かの机に腰を掛けて談笑する綾子の姿があった。取り巻きが笑い声を上げ、けれど不思議と――私に向けられる視線はひとつもなかった。
「おはよう」
勇気を出して声をかけても、返事は返ってこない。嫌な予感がした。
妙に大きな声で綾子が唐突に叫んだ。
「な〜んか今日イライラする!なんでだろ!」
「うん、ウチも苛つく〜」
「それな、ムカつくぅ」
取り巻きたちが同じ調子で相槌を打つ。
空気は笑っているようで、私にはただ冷たい刃物のように感じられた。
(……ああ、ついに来た)
全身を針で刺されたみたいな、じりじりした痛みが肌にまとわりつく。
綾子の嫌がらせは、聞こえるように悪口を言う。あるいは――私物をゴミ箱に捨てる。
昼休み、トイレから戻ると机の中身が空になっていた。ペンケースもノートも、無造作にゴミ箱に沈んでいる。
(馬鹿のひとつ覚えかよ……)
舌打ちをしながら拾い上げると、綾子と取り巻きがこちらをチラチラと見て、にやにやと笑っていた。
背筋にまとわりつく悪意の気配。
泣くなんて論外だ。そんな姿を見せれば、あいつらは一番喜ぶに決まっている。
だから私はわざと腕を組み、脚を組み、睨みつけるように前を向いた。
綾子がいないと、取り巻きは意外と大人しい。目が合えばすぐに慌てたように逸らす。
腫れ物に触れるように、クラスの他の生徒も私を避けていた。
(……気持ちはわかるよ。私もそうだった)
そんな自嘲を胸に、紙パックのジュースをストローで啜っていると――。
痺れを切らしたのか、綾子が取り巻きを引き連れて目の前に立った。
「ちょっと来いや」
合図とともに取り巻きたちが私の腕を掴む。
無理やり立たされ、空き教室へと引きずられていった。
ほんの少し前まで「栄子カワイイ!」「ウチらズッ友!」なんて笑顔を向けてきた顔だ。
信用などしていなかったけれど、その変わり身の速さには呆れるしかない。
「痛えな、離せよ」
腕を振り払って綾子を見据えると、彼女は苛立ったように声を荒げた。
「ちょっと面が良いからって良い気になってンじゃねーぞ!前からその“特別です”みたいな態度、マジでムカつくんだよ!」
「ホントキライ」
「うちもそう思ってた」
取り巻きの声が重なる。
けれど、何年も綾子と一緒にいた私には、この女が何を一番嫌うのか、もうわかっていた。だから、迷わず言葉を突きつけた。
「嫉妬してんじゃあねーぞ、ドブス」
一瞬、空気が凍りついた。
取り巻きは目を見開き、綾子はぽかんとした顔をして……そしてその大きな顔を真っ赤に染めた。
「あとさ――お前の仲間、みんなお前が居ないとき、私と同じこと言ってんぞ」
パシンッッッ!!!
乾いた音が響いた。
綾子の平手打ちが頬を焼く。
「テメェ! ざけんなっ!」
怒声が飛ぶその瞬間、空き教室の扉が開いた。金髪で腰パン姿の男子生徒――名前は忘れたが、綾子の彼氏だった。
「お前ら、何しちょおや。やめろや」
彼は綾子を無視して私に歩み寄り、じっと顔を覗き込んだ。
「めっちゃ赤くなっとる……大丈夫か?」
私の身を案じる言葉だったけれど私の胸には響かなかった。代わりに、綾子の顔が歪む。
「なっ……なんで!なんでコイツの心配すんのォ?!ふざけンなよ!なんで皆、コイツばかり!!」
彼氏と綾子の痴話喧嘩が始まり、取り巻きはオロオロと視線を交わす。
(なんだこれ……馬鹿みたいだ)
私はその喧騒を背に、静かに空き教室を後にした。
私はこの日以来、学校を休むことが増えて、そのまま夏休みに入っていった。
察しのいい母は私を強く叱責することはなく、居酒屋の仕込みをしながら静かに言った。
「アンタが決めた事に私は口を出さん。ただ必ず…自分の行動で結果は出るけん…後悔の無いようにしないや」
私はただ黙って頷いた。
(高校だけは卒業しないとな…)
綾子達のアドレスもすべて消去した携帯の電話帳は数える程度しか残っていない。友達というものを失った今、誰からも呼び出されることはなかった。少し寂しさはあるけど、どこかせいせいした気持ちの方が強い。
家にいても暇だし、勉強しても頭に入らない。街に行っても綾子達に会うと思うと足は遠のく。
私が行き着いたのは、田木駅からほど近い町民会館だった。町役場と併設された建物には、小さな図書館や調理場、座敷の間があり、ときおり近所の高齢者の寄り合い場になる。
(あそこならクーラー効いてるし、自販機もあるし…)
そう思って足を運んだ図書館には、司書のおばさんが一人いるだけで、ほかに人影はなかった。私は棚から手近な本を抜き、椅子に腰をおろす。偉人の伝記だったが、ページをめくっても内容は頭に入ってこない。
そのとき、背後から小さな声が響いた。
「あれ…?」
振り返ると、そこには小林英里――エリちゃんが驚いた顔で立っていた。
私はこの時、きっとエリちゃん以上に驚いた顔をしていたに違いない。
「エリちゃ…」
「ひ、久しぶり…!木村さん」
エリちゃんは中学の頃よりも髪が長くなり、手提げバッグには重そうな本が何冊も入っている。たしか市内の進学校に通っていたはずだ。私は勇気を出して声を絞り出した。
「え…と…ここ、座る…?」
「う、うん…!」
少し焦ったように隣に腰を下ろすエリちゃん。嫌がられなかったことに安堵する。
「や…すんごい美人がいるなぁと思ったら木村さんでビックリしたよぉ」
可愛いとか美人だとか、学校の大して知らない奴らに言われても響かない。けれど、エリちゃんに言われると、それは全く違う意味を持って胸に刺さった。むず痒く、少し照れくさい。
「…ありがと。あとさ、…木村さんじゃなくて…その…もっと気軽に呼んでくれていーよ…『エリちゃん』」
私の勇気を絞り出した言葉にエリちゃんはハッとして、小さく呟いた。
「うん…エーちゃん」
心臓が大きく跳ねた。
(うれしい…久々に呼ばれた…)
中学のとき、あの階段の場所で言えなかった言葉、聞けなかった言葉。まさかこんな場所で叶うなんて思わなかった。
「へへ…懐かしいね。そういえばエーちゃん商業高校に行ったんだよね。あそこ制服が可愛いからエーちゃんに似合っ…うおっ!」
「あはは…あんなとこ、まじでサイアクだよ…ほんと…ひぐっ」
締め付けていた紐がぷつりと緩んだように、涙が溢れ出した。
エリちゃんは慌ててカバンからハンカチを取り出し、私に差し出す。
「どっどっどうしたの!?何があったの」
小声で、けれど強い口調で私の顔を覗き込むエリちゃん。
私は子どもみたいに涙を流しながら、必死に言葉を紡いだ。
「綾子達に、面がムカつくって…シカトされたり…ノートとかゴミ箱に捨てられたり…」
その瞬間、エリちゃんの顔がみるみる険しくなる。
「え…カバコが?あの水揚げされたボラみたいな顔が…このエーちゃんの顔をムカつくって?!あ、ありえない…どこまで性格ヘドロなん…!」
エリちゃんの口から出る綾子への罵倒がなんだか面白くて、怒ってくれたことが嬉しくて、私は泣きながらも笑った。
「エーちゃん…!今から『あだ屋』行かない?」
「え…でもエリちゃん図書館で用があるんじゃ」
エリちゃんは立ち上がり私の腕に優しく触れた。
「いーの!今日はお休み」
そう言って図書館を一緒に出て行った。
通り過ぎた受け付けカウンターにいた司書のおばちゃんは居眠りをしていた。
『あだ屋』は田木町役場から歩いて五分ほど。正式には『足立屋』というが、地元の人はみんな「あだ屋」と呼んでいた。
日用雑貨も扱っているが、子どもたちのお目当てはやっぱり駄菓子。誰もが一度は通った、町のランドマークみたいな店だ。
「マジ懐かしい…まだあるんだ」
店内の景色は昔と大きく変わっていなかった。ただ、店主の足立のおばちゃんはすっかりおばあちゃんになっていて、時間の流れを思い知らされる。
「えらっしゃい」
エリちゃんはソーダ味のアイスバーを二本取り出しておばあちゃんに会計を済ませ、私に一本差し出した。
「外のベンチで食べようか」
「…ありがと」
涙とマスカラで汚してしまったハンカチを借りただけでなく、アイスまで奢ってもらって、少し申し訳ない気持ちになる。
しゃく、しゃく。
口の中でソーダの冷たさと甘みが広がり、夏の暑さをひととき忘れさせてくれた。
「小学生のころ、ここで卵型のチョコ買ったよね」
エリちゃんが笑いかけてくる。
「うん。人形が入ってるやつ。私ら犬が欲しくて一緒に買ったのに、出たの全然違って…」
私とエリちゃんの声が重なった。
「「トカゲ!」」
思い出して、二人で吹き出す。まるで昔と変わらない、あの時のままみたいに。
ひとしきり笑ったあと、エリちゃんは少し照れたように視線を落とした。
「エーちゃん…あの、えっとさ…よければ…夏休みだし、これからちょいちょい…会わない? 課題もあるだろうし、一緒にやったり…迷惑じゃなければ」
その言葉に、私は前のめりになる。
「迷惑じゃない!私も…あ、会いたい!」
心臓がばくばくとうるさく鳴っていた。
――やっと、素直になれた気がした。
綾子は本当は中学からずっと栄子をハブりたかったんです。でも中学時代、栄子には黒い噂があったし先輩に好かれていたから出来なかった。高校進学で噂と先輩との縁が薄くなったタイミングで行動に移したって感じですね。




