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4. 小学校編:栄子


「栄子ー、カレンダーめくって!」


夕方、暖簾と提灯を出す母の声が出入口から響いた。私はカウンターの隅でめくっていたファッション雑誌の手を止め、柱にかかった工務店のカレンダーをベリッと一枚剥がす。


2000年。私は小学四年生になっていた。


「栄子、もう店開けるけん、片付けしないや」


エプロンをつけた母の視線が、カウンターに散らばる雑誌やカラフルなバインダーに向く。


「んー」


生返事をして、それらを抱えて店の奥へ。暗い階段を駆け上がり、自分の部屋へ飛び込む。

大きなクッキー缶の蓋を開けると、中にはクッキーではなくシールやメモ帳がぎっしり詰まっていた。エリちゃんや同級生と交換した、大切な宝物たちだ。


「…いい匂い」


エリちゃんからもらったリンゴの香り付きのシールを指でなぞる。甘酸っぱい香りがふわりと広がり、胸の奥まで幸せで満たされた。


エリちゃんは、いつも私の「好き」を分かってくれる。


『エーちゃん!これね、付録のレターセットなんだ。二つしかないから半分こしよ!……他の子にはナイショね』


そう言って、以前に私の好きな少女漫画の便箋を分けてくれた。たった二つしかないのに。――その“特別扱い”が、私はたまらなく嬉しかった。

バインダーをめくると、友達に書いてもらったプロフィール用紙が並んでいる。


『小林英里』『血液型O』『犬派』


『好きな食べ物・チョコレート』


『好きなタイプ・やさしいひと』


眺めるたびに、エリちゃんと自分の共通点を見つけては胸が弾んだ。優しくて、頭がよくて、一緒にいると心が温かくなる子。きっと大人になっても、おばあちゃんになっても、私たちは親友のままだ――そのときは本気でそう信じていた。


18時になると、私はまた店へ降りていった。

店内には常連客がちらほらいて、ビールや日本酒を手に、母のつくったモツ煮や刺身を楽しんでいる。


「はい、栄子」


カウンターの端に焼きうどんが置かれた。これが私の夕飯だ。

母と酔客を横目に、タバコの煙が漂う中で黙々と食べる。新しい客は最初こそぎょっとした顔をするが、女将が母だとわかると勝手に納得して何も言わなくなる。


「やぁ〜栄子ちゃん大きくなってぇ! ますます美人になったねぇ。お母さんそっくりだわ」


常連のおじさんやおばさんは飴やチョコをくれたり、「何か食べたいものある?おごっちゃるけん」と優しくしてくれるから、案外居心地は悪くなかった。


けれど、例外もいた。


テレビのブラウン管に映る背の低いアイドル4人組に夢中になっていたときのこと。母はトイレに立っており、カウンターには私ひとり。


「おう、栄子ちゃん」


しゃがれた声に振り向くと、黒いキャップにくたびれたラクダ色のジャケット、チェックのシャツを着た老人が立っていた。


――須田のジジイだ。


隣町の独居老人。わがままで近所と何度も揉めている要注意人物だと、大人たちが噂していた。


(お母さんがいない隙を狙ったな…)


小さな黒目の瞳で、頭からつま先まで舐めるように見られる。歯の抜けた笑みに、背筋を冷たいものが走った。


「…大きくなったなァ」


常連の人たちと同じ言葉なのに、どうしてこんなに気持ち悪いのだろう。

声に出せなかった。ただ怯えるしかなかった。


「…もう始まったのか?」


意味のわからない言葉を投げられた。小学生の私には理解できなかったが、大人になってから思い返すと――あれはわざと曖昧に濁した、相手に察せさせるための言い回しだったのだと気づいた。


「………」


母がトイレから戻って来た瞬間に須田はそそくさと安酒と漬物だけが置かれた侘しいテーブルに戻った。


(気持ち悪い…)


私は先ほど向けられた得も言われぬ不気味で湿度の高い視線が苦手で堪らなかった。


(ああ、早く明日になってエリちゃんと遊びたいな)


私は身体に纏わりつく不快感を取り除きたくて、お風呂に入るため店の奥に引っ込んだ。



「エーちゃん、これ読んだことある?すんっ……ごく面白いんだよ!」


教室でエリちゃんは、図鑑よりも分厚い本を胸の前に差し出した。


「児童書」だと言われても信じられなかった。これを子どもが本当に読むのだろうか。


「ふぅん……」


受け取った瞬間、腕にズシリと重さがのしかかる。ページをめくってみれば、文字がびっしりで挿絵すらない。


(えっと、白いヒゲのお爺さんがいて、太ったおじさんがいて……男の子がふたり?)


出だしから登場人物が多すぎて、頭が混乱する。私は慌ててその本を閉じ、机の引き出しから別のものを取り出した。

店の常連のお姉さんからもらったテレビ雑誌。表紙には、私の大好きな男性アイドルグループ5人が、笑顔でレモンを持って並んでいる。


「エリちゃん、この中で誰派?せーの、で指さししよ!」


私の提案に、エリちゃんは笑ってくれた。だけどその笑顔の影に、ほんの少し困惑の色がにじんだ気がして、私は思わず視線を逸らした。


(……嫌だったのかな)


この辺りから、少しずつ何かがズレ始めた気がした。

今まで秒針のようにぴったり合っていた私たちの呼吸が、ほんの少し遅れていくように。


――そんなある日。


エリちゃんや女子たちと教室に入ると、後ろの席で男子たちが「やべ!」「隠せ、隠せ!」と騒いでいた。

ニタニタ笑いながら、何かを後ろ手に隠す。特に私が嫌いな小野田が、芝居がかった声で「何でもありませ〜ん」と嗤っていた。


(……絶対ろくでもないことだ)


胸に苛立ちが積もる。名指しされたわけでもないのに、居ても立ってもいられずに歩み寄った。


「なに隠したの!見せなよ!どうせ私の悪口でしょ!」


小野田を押しのけると、男子の一人が紙を握りしめていた。


「ひゃ〜こえ〜!栄子ゴリラ!」


「うるっさい!」


怒鳴った拍子に、その紙を女友達が奪い取り、私にパスしてくれる。女子だけで取り囲みながら広げてみると――。


「あ!やべぇ!!」


男子の声はもう耳に入らなかった。


そこには落書きみたいな字で、くだらない「ランキング」が並んでいた。


『彼女にしたいランキング』


『性格が悪そうランキング』


『暗そうランキング』


私は一番下に目が止まった。


――『暗そうランキング1位・小林英里』。


(違う……!エリちゃんは暗くなんかない。ただ大人しいだけで、私を笑わせてくれるのに)


俯いたエリちゃんの姿が胸を締めつける。私は紙を握りつぶし、小野田に投げつけた。


「小野田!みんなに謝れ!」


「うわー!栄子ゴリラが怒ったぞ〜!」


小野田はニヤニヤ笑いながら廊下へ飛び出す。私はムキになって追いかけた。背後で同級生たちの悲鳴や笑い声が響き、教室中が騒然とする。

男子トイレの個室に逃げ込んだ小野田を追い詰め、ドアを蹴りつける。


「出てこいってば!」


中から、楽しげな声が返ってきた。


「うわー!栄子が男子トイレに入ったぞー!変態だー!」


(ほんっとにうざい!)


女子の中には「私も男子キラーイ」と同調してくれる子もいた。でもその子が男子の方を盗み見しているのを、私は知っていた。

心の奥では男子に興味があるくせに、表面上は「嫌い」と言う。

でも私は本気で嫌いだった。

エリちゃんを傷つける男子なんて、絶対に。



――2002年、6年生になった。


私はエリちゃんとクラスが別れた。

目の前が真っ暗になって、体に鉛がついたみたいに重い日々だった。でもエリちゃんは「毎日一緒に遊ぼうね」と約束してくれた。

だから少しは前を向けた。

そんなとき声をかけてきたのが瑠美ちゃんだった。


「ねえ、エーちゃん!これ可愛いね!」


私の髪に留めていたクマの髪留めを指差す。


(お小遣いで買ったやつだ……褒められた)


「ありがとー!瑠美ちゃんのそのデニムスカート、え、ブランドもの!?すごい!」


得意げに笑う瑠美ちゃん。憧れのキッズブランドを全身にまとっていて、キラキラして見えた。


「みんなでさ、アクセのカタログ見よ?ネイルもたくさん載ってたよ!」


「え、見る見る!」


その日から、私は瑠美ちゃんたちと過ごすことが増えた。お洒落の話、アクセサリー、髪型。私が大好きで、誰にも話せなかったことを夢中で話した。

気づけば、昼休みを一緒に過ごすのはエリちゃんではなく瑠美ちゃんグループになっていた。


廊下でエリちゃんとすれ違っても、なんとなく気まずくて、挨拶程度しか話せなくなった。


(……でも仕方ないよね。クラス違うし、エリちゃんにも別の友達いるだろうし)


そうやって言い訳して、自分を誤魔化した。


「ねぇ、漫画ばっかり描いてる子ってさ、オタクだよね〜!ほら……」


瑠美ちゃんが視線を送った先には、ノートに漫画を描いている同じクラスの内木さんと相田さんがいた。

瑠美ちゃんの隣の子たちはクスクス笑って頷く。


「うん、オタクって無理〜」


心臓が早鐘を打つ。何も言えずにいた私と、瑠美ちゃんの目が合った。


「……あ、はは。ねー!」


笑って同意した瞬間、瑠美ちゃんは楽しそうに笑った。胸がズキズキする。


私は男子にはハッキリと言いたいことが言えるのに、なぜ女子には同じように出来ないんだろう。

私はいつしか、あんなに大好きだった絵を描くことをやめてしまった。


だけど、どんなに時間が経っても。

あのリンゴの香りだけは、まだ私の記憶の奥で消えないままだった。



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