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2.  幼稚園編:栄子


田木駅の東口に面した商店街は、昼間はすっかり閑散としていた。

蕎麦屋と花屋がかろうじて暖簾を出しているくらいで、あとはほとんどシャッターが降りている。

けれど夜になると様子は一変する。スナックや小洒落たバーの看板が煌々と輝き、そこは小さな飲み屋街として息を吹き返す。


私の店『きむら亭』も、その中の一つだ。古びた赤提灯と、色褪せた藍色の暖簾。どこか懐かしさを纏った居酒屋である。


「もう仕込みしちょうの?早いがぁ」


キャベツを刻む手を止め、顔を上げる。カウンター越しには寝起きの母の顔。


「まだ寝てなって」


再び包丁をリズムよく動かす。

特製の味噌ダレに漬けたホルモンとキャベツの炒め物が最近人気で、週末は普段の倍の仕込みが要るのだ。


「ん〜…じゃあ甘えさせてもらうわ〜」


母は手をひらひらと振って住居スペースへ戻ろうとしたが、ふと立ち止まった。


「あ、そうそう。川崎先生、亡くなったらしいわ」


「……えっ」


思わず包丁が指をかすめそうになる。


「新聞のお悔やみ欄に載っとったわ。まだ若かったけん、ガンとかかねぇ」


そう言い残して母は奥へ消えていった。

私はキャベツを刻み続けながら、心の隅で昔の記憶を呼び起こされていた。




川崎先生。


さくら組の担任で、明るくて人気のある先生だった。けれど私にとっては、どうしても苦手な存在だった。



「栄子ちゃん、これで何度目かねぇ、遅刻」


笑顔のまま、しかし黒目の奥に苛立ちを滲ませていた。


「……」


言い返すこともできず、私は下を向く。小さなプライドだけが逆立ち、ただ叱られた事実だけが胸に突き刺さった。

教室の喧騒の中、先生は深いため息をつき、「いいよ、行って」と呟いた。


その直後――


「……ひとり親だけんねぇ」


背中越しに聞こえた言葉。意味は分からなかったが、決して良い響きではないことだけは直感した。


「エーちゃん、おはよ!」


エリちゃん。私が大好きだった幼なじみ。

彼女の顔を見るだけで、張りつめた肩がふっと緩む。エリちゃんがいなければ、私は幼稚園に行くことを拒んでいたかもしれない。


ある日の休み時間。川崎先生が教室の床に腰を下ろし、数人の女の子を周りに集めて絵本を読んでいた。ネコやブタがさまざまな職業に扮して描かれたページ。


「みんな、どのお仕事をしてみたい?」


川崎先生が問いかけた。


「ケーキ屋さん!」 「かんごふさん!」


女の子たちが次々と答える。


「お花屋さんがいいなぁ」


エリちゃんが笑顔で呟いた。

でも私は黙っていた。特に心惹かれるものがなかったからだ。


「栄子ちゃんは?」


思いがけず名指しされ、慌てて咄嗟に指差した。

ブタが白いチュチュを着て踊る――『バレリーナ』。

川崎先生は一瞬きょとんとした後、堪えきれず噴き出した。


「そ、そうなん…ぶふっ……」


その笑い声と、口から飛んだ細かい飛沫。


(なんで笑うの?)


(別のを選べばよかった)


(他の子の答えは笑わなかったのに)


涙が込み上げるのをこらえ、私はエリちゃんの手を引いた。


「お庭のニワトリ見に行こ!」




あの日の気まずさは今も胸に残っている。

先生はもう亡くなったから、なぜあの時笑ったのか、確かめることはできない。

驚きはしたものの、悲しいとも、ざまあみろとも何も思わなかった。

朝のニュースで聞いた見知らぬ事故死の報道と同じ程度の感情。


キャベツをボウルに入れて冷蔵庫へ仕舞い、私はひと息ついた。

濡れ布巾でカウンターを拭くと、古い木目には細かな傷が刻まれている。

この隅の席――私はいつもそこに座っていた。



幼稚園が終わると母の迎えで帰宅し、そのまま居酒屋のカウンターで過ごす。

母は仕込みに、私はスケッチブックに向かう。

包丁がまな板を打つ音で、ブラウン管テレビのアニメは聞き取りにくかった。


「あのねー、今日ねー、エリちゃんとねー」


「うん、うん」


お互い目を合わせず、手元を動かしながら交わす会話。それが母娘なりのコミュニケーションだった。今もそうだ。


「エリちゃんに絵、プレゼントする」



変身ヒロインのブルーを描いて渡すと、エリちゃんは本当に嬉しそうに笑った。

自分の絵が誰かを喜ばせる――その体験が、私の絵好きの始まりだった。


エリちゃん、今、何をしているのだろう。

カウンターの隅に腰掛け、私はふと天井を仰いだ。



実際に使われてる方言を使用してます。

読み難かったらすみません。

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