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13.(最終話) 社会人編:栄子


2016年。

壁のカレンダーに、赤いペンで大きく書かれた文字が目に入る。


――「エリちゃん☆」


それは、今日の印だ。もう一週間も前から、心がそわそわして落ち着かなかった。

だって、会うのは一年ぶり。


エリちゃんは、今は東京で働いている。

誰もが知る文房具メーカーの経理で、忙しい毎日を送っている。地元に帰ってくるのは、年に一度あるかないか。


(去年は、我慢できなくて私の方から会いに行っちゃったんだっけ…)


キャリーケースを引きずって、東京の人混みに揉まれながら。あの時の息苦しさと、再会の瞬間の安堵。思い出すだけで頬が緩む。

でも、東京で会うのと、地元で会うのはまったく違う。


今日は、私の店で、私の手料理でエリちゃんを迎える日だ。


「はやく来ないかなー」


スマホの画面を何度も覗き込みながら、私は厨房で包丁を走らせる。いつもより軽やかなリズムで、野菜を刻む音が響く。

そのとき、まだ暖簾も出していない扉がガラガラと開いた。


顔を出したのは近所のおばちゃん。


「栄子ちゃん、回覧板置いとくけんねー!」


「あ、はーい!ありがとうございます!」


手を洗い、カウンターに置かれた回覧板を手に取る。ページを開いた瞬間、視界がふっと静まった。


――『田木町会館 移転・取り壊しのお知らせ』


たった一枚の紙が、胸の奥を冷たく射抜いた。


あの場所が、とうとう無くなるんだ。思わず深呼吸をして、笑顔を作る。

今日は、泣く日じゃない。




「おじゃましまーす……」


19時過ぎ、控えめな声が店の扉の向こうから聞こえた。その声を聞いた瞬間、胸が一気に熱くなる。


「いらっしゃ……あ! エリちゃん!」


自分でも驚くほど高い声が出て、少し照れくさい。それでも小走りで玄関に向かう足は止まらない。

黒髪のボブ、流した前髪、シャツにスカート。シンプルなのに洗練されていて、眼鏡の奥の瞳は相変わらず真っ直ぐだ。


(かっこいい……)


仕事の疲れが滲む表情さえ、私には眩しかった。すぐにカウンターへ座らせて、揚げたての野菜の天ぷらと冷えたビールを出す。

グラスが小さく触れ合って、心がほぐれていく音がした。


「最っ高なんだけど!エリちゃんの料理、美味しすぎる……!」


「食べて、たくさん食べて!」


思わず声が弾む。デレデレしてるのは自覚してるけど、もう抑えられない。

だって――1年ぶりの、私の大事な人だから。


そんなエリちゃんと一緒に描いた『壁画』のこと…絶対に伝えないといけないから。

私は意を決して言ってみる。


「田木町会館ってさ、今年いっぱいで取り壊すんだって」



「……え」


眼鏡の奥の瞳に動揺の色が射し込んだのを私は見た。


「エリちゃん、今から行ってみない?」


少しの間を置いて、彼女は静かに頷く。


「……うん。行こう」


――あの夏に描いた『壁画』。

私は毎年一度、補修とコーティングをして、できる限りの手をかけてきた。けれど、それでも年々色褪せるのが早くなっていた。

建物そのものが古くなっているから仕方がない。

それでも、あの夏のかけがえのない『証』が消えるなんて――まだ、実感がわかなかった。


(……でも、それだけ年月が経っちゃったんだな)


夜の道を、私とエリちゃんは並んで歩いた。

何度も通った、あの頃と同じ道。ただ、街の景色はずいぶん変わっていた。


「なーんかさ、この町も変わっちゃったね」


エリちゃんの言葉に頷きながら、私は向かいの通りを見る。

昔、一緒にアイスを食べた駄菓子屋――『あだ屋』の看板は、もう下ろされている。

空き地だった場所にはコンビニができ、白い光が夜道を照らしていた。

子どもの頃、「コンビニがあればいいのにね」って話していたのに、いざできてみると、どうしてだろう。胸が少しだけ寂しくなる。


「おー……会館、古くなったなぁ」


エリちゃんの声が、夜風に溶ける。


田木町会館の外壁は、昔よりもずっと汚れが目立っていた。出入口の横にある花壇。その背後の壁に、あの『壁画』がある。

私たちは、そこに立ち尽くした。


「エーちゃん……」


呼ばれた声が、少し震えていた。

私は何度もこの場所に来ていたけれど、今夜は違って見える。

街灯の光に照らされた壁画は、夜の闇にふわりと浮かび上がっていて、まるで夢の中の景色のようだった。


……いや、違う。


エリちゃんが隣にいるから、こんなにも綺麗に見えるんだ。

私は絵の端、ふたつ並んだ『A』の文字に目を留めた。私とエリちゃんだけが知っている、2人のサイン。


その文字を見つめていたら、胸の奥から記憶があふれ出す。

あの日の笑い声、絵の具の匂い、蝉の声。

エリちゃんの書いた小説。怯えていた私を、エリちゃんが抱き締めてくれたこと。

いつでも来るから、と言ってくれたこと。

そして、2人で夢中になって筆を動かした、あの夏。


――すべてが、ここにある。


「エリちゃん、私ね……あの夏のこと、ずっと忘れない。絶対、絶対忘れない。この絵も……エリちゃんが声をかけてくれたときのことも……」


涙が滲みそうになって、唇を噛む。

でも、それでも笑顔で言葉を続けた。


私にとっては、今もずっと生きてる“記憶”だから。エリちゃんが私の手を優しく握ってくれる。


「私だって……絶対忘れないよ」


夜風が2人の間を通り抜けていく。

手の温もりだけが、確かにそこにあった。

私はエリちゃんが大好きだから。


ずっと、ずっと――これからも。


2人の影が、壁画の上に重なった。

10年前に描いた、魔法使いの2人のように。




※※※




一週間後。


M駅のホームに、私とエリちゃんは並んで立っていた。


この一週間、ほとんど毎日会っていた。

それでも――


(足りないッ! 時間、過ぎるの早すぎでしょ……!)


胸の奥で叫びながら、私は無理やり笑顔を作る。

エリちゃんはまもなく来る特急電車に乗り、乗り継いで新幹線で東京へ帰るらしい。


東京。同じ日本なのに、どうしてあんなに遠いんだろう。もっと近ければ、毎日でも会いに行けるのに。

通えたら、野菜たっぷりの夕飯だって作ってあげるし、お部屋の掃除だってしてあげるのに――


(……いやいや、ヤバいって、うち)


自分で頭を振って、その重い妄想を振り払う。


「エーちゃん、ありがとうね。見送りまでしてくれて」


「え!? いーのいーの! 私が見送りたいってワガママ言ったんだから」


駅のスピーカーがざらついた音で、列車の到着を告げる。あと数分で、エリちゃんはこの町からいなくなる。私は笑ってるけど、胸の奥はずしんと重く沈んでいた。


「はぁ……次にエリちゃんに会えるの、いつになるんだろ。来年かなぁ」


「えー、そんなことエーちゃんが言ってくれるの、嬉しい」


エリちゃんはそう言って、そっと私の肩に触れる。指先が温かくて、その一瞬だけ世界がやわらかくなる。


「てか、バイバイするたびに言ってるかも……うち。すみませんねー、重い女でーす」


思わず冗談めかして言うと、エリちゃんが声を立てて笑った。


『2番ホームに、特急いくも号が到着いたします。黄色い線よりお下がりください――』


構内アナウンスが流れ、風がホームを抜けていく。


「エーちゃん……バイバイじゃなくて、『またね』だからね」


エリちゃんの声が少しだけ震えていた。

私は「うん」と頷いて、顔を上げる。

エリちゃんの頬が、うっすらと赤い。


「私、もっと仕事頑張る。いろんなことに負けないように強くなる。だから――」


言葉が一拍、途切れた。


そして、まっすぐな瞳で私を見つめながら、彼女は言った。


「――近いうちに、必ず『迎え』に行くからね」


「……へ?」


思わず間抜けな声が出た。

けれどエリちゃんはそれ以上何も言わず、到着した特急に颯爽と乗り込んだ。

私は言葉を飲み込んだまま立ち尽くす。

頭の中で意味を整理しているうちに、ドアが閉まってしまった。


「えっ、あ! マジで?!」


思わず叫んだときにはもう遅く、電車の向こう側でエリちゃんが笑顔で手を振っていた。

あの、少しズルくて優しい目で。


車輪がゆっくりと回り、列車がホームを離れていく。風が、私の髪をやわらかく揺らした。


「エリちゃん! “またね”!」


遠ざかる窓の向こう、エリちゃんの唇が動く。


――“エーちゃん! またね!”


声は聞こえなかったけれど、確かにそう言っていた。

電車のテールランプが遠ざかる。

私はホームの端で、ただ立ち尽くしていた。

風が吹いて、エリちゃんの髪の香りが一瞬だけ残る。


「……迎えに、来る…って……」


口の中で呟いた瞬間、胸の奥がドクンと鳴った。離れたのに、なんでこんなに心が熱くなるんだろ。

その言葉だけが、何度もリピートしてる。私はおもむろにスマホを取り出す。

画面を覗くと、待ち受けにしている写真が映った。


――ふたつ並びのAのサインが描かれた壁画。その“並んだA”が、いまも静かに寄り添ってる。まるで私とエリちゃんみたいに。


スマホをそっと握りしめ、私は顔を上げる。

風が前髪を揺らして、遠くの線路の先に光が滲んだ。


――迎えに来る。


そんなの、待つしかないじゃんね。




私は駅のホームから移ろいゆく空と、長く続く線路に目を細めた。






『ふたつ並びのAのこと』ーーー完。




最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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