12. 社会人編:英里
ローカル線がゆっくりと減速し、『田木駅』に到着した。扉が開くと、帰宅途中のサラリーマンや学生たちが次々と降りていく。
私もその流れに混ざってホームへ降り立った。
久々に見る田木駅は、いつの間にか塗装が新しくなっていた。アイボリーの壁が夕陽を受けて、ほんのりと金色に染まっている。
「……ついにこの駅にも出来たか」
改札を抜けると、構内に海外チェーンのコーヒースタンドが出来ていた。ステンレスのカウンター、外国語で書かれた看板。
この小さな町には少し似合わないほど洒落ている。
私は喉が渇いたので、女子高生たちの後ろに並び、アイスコーヒーを頼んだ。
店内の奥からは、母親たちの笑い声が聞こえてくる。ブランド物のバッグを膝に置きながら、子どもを叱っている声。
「こらっ、お友達には優しくしなさい!」
そのすぐ後に、別の母親へと話題を切り替える。
「だからさぁ……中村さんって育ちがアレだから、息子さんも乱暴なのよねー」
「瑠香ちゃんママ、わかるわぁ、ほんと迷惑よねぇ」
品のある口調のまま、他人を刺すような言葉を吐く。その手はブランドバッグをやさしく撫でている。
(……子どもはちゃんと見てるぞ)
私は受け取ったアイスコーヒーを片手に、早々に店を出た。口に含むと、冷たさが喉を滑り落ちていく。少し苦い。でも、妙に懐かしい味がした。
駅前の風景も、変わっていた。
田んぼだった場所には新築の家が立ち並び、
畑は駐車場に変わっている。田木幼稚園の横の畑も、持ち主が高齢になって売ってしまったと聞いていた。
かつて見慣れた緑は、すっかり形を変えてしまった。
「パパぁー!」
小さな声に振り向くと、四歳くらいの女の子がサラリーマン風の男性に駆け寄っていく。
その後ろには、若い奥さんらしき人の姿。
(……あれ? あの人、小野田くん?)
同級生だった小野田くんが、柔らかな笑みで娘を抱き上げていた。頭髪が薄暗くなっている。その光景に時間の経過を感じる。
「さて、私も行きますか」
スマホを取り出し、『いま田木駅に到着!もうすぐ着くよ〜』とメッセージを送る。
数秒後、“既読”の表示。そして赤いリボンをつけた猫キャラクターのスタンプが、「は〜い」と笑顔を返してきた。
夕焼け色に染まる通りを抜けると、藍色の暖簾と赤提灯が目に入る。
『きむら亭』――。
(……変わってない)
私は目を細め、その懐かしい店構えを見上げてから暖簾をくぐった。
「いらっしゃ……あっ、エリちゃん!!!」
テーブルに小皿を運んでいた女性が、私を見るなり声を弾ませて駆け寄ってくる。
「エーちゃん……久しぶり!」
1年ぶりの再会。
エーちゃんは相変わらずの美人で、輝くように笑っていた。
地元のローカル番組で紹介されて以来、“美人すぎる店主”として話題になり『きむら亭』は密かな人気店になったと聞いていた。
「あらまぁ、小林さんちの英里ちゃんじゃないの!大人になったねぇ」
カウンターの奥から出てきたのは、エーちゃんのお母さん。少し白髪が増えたけれど、相変わらずサッパリとした美人だった。
「お久しぶりです。……あの、これお土産です」
私は包みを差し出す。
懐かしい香りが、ふっと鼻先をかすめた。
――帰ってきたんだな、私。
「ありがとうねぇ、英里ちゃん……栄子ー! あんた英里ちゃんにビール出しないや、ビール!」
「もー、出してるよ!エリちゃん、お酌するね♡」
カウンターの向こうで、エーちゃんがキンキンに冷えたジョッキを置き、瓶ビールをトトトッと注ぐ。泡がふわりと立ち上がる。その横には、揚げたての野菜の天ぷらまで並んでいた。
「最っ高なんだけど!」
瓶を片手にニコニコ微笑むエーちゃんは、店の壁に貼られたビールグラスを掲げるグラビアアイドルよりも、ずっと輝いている。
(おいおい、こりゃ天国ですな……)
「エーちゃんも飲もうよ!」
「え? じゃあ少しだけ!」
そう言ってエーちゃんはカウンターの奥から、小さめのグラスを取り出した。
私がそこにビールを注ぐと、ふたりで軽くグラスを合わせる。
――カチン。
泡のはじける音とともに、夜の空気が少し甘くなる。
「はー、おいし……って、エリちゃん早ッ?!」
「へへへ……ザルなもんで」
私はもうジョッキを空にしていた。
酒に強くないエーちゃんは、ぽかんとした顔でジョッキを見つめる。
「体に気をつけてよ〜、エリちゃん。なんか少し痩せたし……ご飯、ちゃんと食べてる?」
「あー……まぁ、食べてるよ。カップ麺とか」
その瞬間、エーちゃんの眉がピクリと動く。
カウンターの奥から、野菜スティックを取り出し、私の前にどんと置いた。
「もう! ダメっ! ちゃんと野菜も食べて!」
ぷくっと頬を膨らませて叱るその姿が可愛くて、つい笑ってしまう。
「あ〜、なんかイイ……もう一回言って♪」
「もーっ、ふざけないの!」
腰に手を当てて怒るエーちゃん。
そのやり取りに、カウンター奥のお母さんが声を立てて笑った。
「ほんと仲いいねぇ。栄子、あんたもう店は上がんな。久々に会ったけん、英里ちゃんとたくさん話しなや!」
「やったー! サンキューお母さん!」
「すみません、おばさん……」
お母さんに会釈しながら、私はほっと息をつく。エーちゃんの料理に、美味しいお酒。
隣には、大切な――本当に大切な親友。
「あのね、エリちゃん」
急に真顔になったエーちゃんが、少しだけ悲しげな声で言った。
「田木町会館ってさ、今年いっぱいで取り壊すんだって」
「……え」
その言葉に、心がひゅっと冷えた。
私たちにとって田木町会館は、“あの壁画”を描いた思い出の場所。あの夏、夢中で色を重ねたあの白い壁だ。
「建物の老朽化でね……移転するんだって。だから、今年で私たちの『壁画』ともお別れ」
十年前の夏。
私の小説をもとに、ふたりで描いた、あの物語の絵。後ろ姿の魔法使いたちが並んで歩く――あの壁。
「エリちゃん、今から行ってみない?」
「……うん。行こう」
夜風が少し涼しい。並んで歩く路は、昔よりも街灯が増えていて、舗装もきれいになっていた。でも、懐かしい匂いはまだ残っている。
町民会館の前に着いたとき、私たちは言葉を失った。壁は少し黒ずみ、ところどころにひびも入っていた。
けれど、そこに描かれた“私たち”は、今もちゃんと並んでいた。
「ああ……」
思わず声が漏れる。色は少し褪せても、確かに、あの頃のままの絵だ。
胸がきゅうっと締め付けられる。
「エーちゃん……」
「エリちゃん……」
エーちゃんが、壁の隅を指差した。
そこには、『AA』の文字。
ふたつ並びの“A”。
私とエーちゃんだけが知る、ふたりのサイン。
「エリちゃん、私ね……あの夏のこと、ずっと忘れない。絶対、絶対忘れない。この絵も……エリちゃんが声をかけてくれたときのことも……」
お酒がまわって、顔を赤くしたエーちゃんの目がうるんでいる。
――ああ、相変わらず泣き虫だな。
「私だって……絶対忘れないよ」
いかん、私まで泣きそうになる。
そっと手を伸ばし、エーちゃんの手を握る。
少し冷たい夜風の中で、二人の手のぬくもりがしっかり重なる。壁画の中の、あのふたりの魔法使いのように。
私たちは並んで、褪せた絵をいつまでも見つめていた。




