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1. 幼稚園編:英里


S県M市田木町。

その名のとおり田畑が広がり、青々とした稲の葉が風にそよぐ町だ。

何年も使い古されたローカル線の電車に揺られながら、私はシートのバネが軋むたびに身体に伝わる不快感に顔をしかめた。早く降りたい、と心の奥で念じる。 

窓の外はすっかり夕暮れ。

住宅街、公園、空きビル――そして一瞬だけ、幼稚園が視界に入った。


『たきようちえん』


稚拙な平仮名の看板は、今もあの玄関に掲げられているのだろうか。

目を閉じると、二十数年前の記憶がよみがえる。



1995年…私、小林英里こばやしえりは、地元で唯一の田木幼稚園のさくら組に通っていた。自宅から徒歩十五分。

幼稚園は田んぼと畑に囲まれていて、登園のたびに麦わら帽子のおじさんが畑から手を振ってくれた。


「英里ちゃん、おはよう!」


赤いギンガムチェックのエプロン姿、よく笑う川崎先生が玄関で迎えてくれる。膝を曲げて子どもたちに目線を合わせるその笑顔は、毎朝の安心だった。


「おはよーござます」


私はアンパンの顔をしたヒーローがプリントされた靴を脱ぎ捨てるように下駄箱へ。小さな靴が並ぶ空間は決していい匂いとは言えず、わざとらしく鼻をつまみながら『さくら組』の教室に駆け込む。


「おはよー」


「おはよ!」


同級生のトモちゃんやナナちゃんが声をかけてくれる。教室の中はすでに散らかり放題。積み木を奪い合う男子、塗り絵に夢中な女子。本やブロックが散乱した部屋は、まるで小さな動物園のようだった。


(エーちゃん、まだ来てない…)


エーちゃん。木村栄子きむらえいこ。駅前の居酒屋「きむら亭」の一人娘だ。博打好きの父親は栄子が生まれてすぐに蒸発し、母親と二人暮らし。

私は母や叔母が居間でみかんを食べながらそんな田舎ならではの噂話をしているのを聞いたことがあるけれど、真実は本人達にしか分からない。

ただ一つ確かなのは、お母さんが忙しいのか、エーちゃんはよく遅刻をしていた。


私はお気に入りの絵本――黒いカラスがパンを作るお話――を床に広げ、何度も読んだ結末をまた追う。知っているはずなのに、初めて読んでいるような気持ちに戻れたのが不思議だった。


「はい、みなさんおはようござ…あッ!」


川崎先生が教室に入った途端、床のブロックを踏んでよろめいた。赤いブロックを拾い上げ、きゅっと眉を寄せる。


「みなさん! お、か、た、づ、け!」


その声に、わっと子どもたちが散り散りに動き出す。私も慌てて絵本を抱え、棚へ戻そうとした。


ガラガラ――。


教室の扉が開き、エーちゃんが現れる。

焦げ茶色の髪をイチゴのゴムで二つ結びにした、お人形の様に可愛らしい女の子。先生に何か言われて少しむすっとしていた顔が、私と目が合った瞬間ぱっと咲いた。


「エリちゃん! おはよー!」


「エーちゃん! おはよ!」


両手を広げて迎えに行く。胸の奥が温かくなる。会えただけで嬉しくて仕方なかった。


「おい!エーコ!またチコク〜!いーけないんだ、いけないんだー!」


小野田くん。やんちゃで声の大きい男子が、エーちゃんの顔の前で人差し指を突きつけて囃し立てる。

エーちゃんは一瞬で笑顔を消し、眉を吊り上げて睨み返した。


「こら、小野田くんやめなさい!」


川崎先生が声を上げ、教室はやっと落ち着きを取り戻す。

私はそっとエーちゃんに耳打ちした。


「今日は変身ごっこしようね」


私たち女の子の間では、土曜朝の変身ヒロインアニメが大流行していた。お菓子やシールも全部揃えたいくらい夢中になっていた。


「エリちゃん!うち、レッドするね!」


昼休み、校庭。エーちゃんが腕を組み、高らかに役を宣言する。


「うん、じゃあうちはブルーちゃん!」


冷静で賢いブルーは、鈍臭い私の憧れだった。


「いくわよ!ブルー!怪人を倒せー!」


居るはずも無い即興の怪人を追って走るレッド。その後ろ姿を必死に追いかけながら、私は心から笑っていた。


その時――


ゴッッッ!!


顔に衝撃が走った。視界が揺れる。

足元にサッカーボールが転がっていた。


「エリちゃん!」


駆け寄るエーちゃんの声が焦りに満ちる。鈍痛と共に鼻の奥から血がつっと垂れ、地面に赤いしずくがポタリと落ちた。


(は、はなじ…)


痛みより恥ずかしさが勝った。大好きなエーちゃんの前で情けない姿を晒す。胸の奥に得体の知れない不快感が膨らみ、せきを切ったように涙があふれた。


「う、う…あああああーーー!」


泣き止めない私の前に、ボールを取りに来た小野田くんが立ちすくむ。


「……オレじゃない」


逃げ腰の彼を、エーちゃんが両手を広げて遮った。


「小野田くん!逃げるな!謝って!」


揉み合いになり、小野田くんは尻もちをつく。


「あ…あ…ぅ…うわぁぁーーん!」


彼も痛みより恥ずかしかったのか、顔を歪ませ泣き出し、私もしゃくり上げながら声を上げる。


「どうしたの!もー!」


駆け寄ってきた若い先生が私たちを抱える。

鼻血と涙でぐしゃぐしゃの私と、泣き叫ぶ小野田くん。騒ぎの中、振り返ると、エーちゃんだけは目を逸らさず、真っ直ぐに私を見ていた。



――二十年以上も前のこと。


なのに思い出すと今も胸がきゅっと締めつけられる。

私は目を開け、再び暗い窓の外へと視線を移した。もうすぐで田木駅に着く。



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