文学少女の唇は、ヤケたパラフィン紙の味がする
平日の早朝、閑静な住宅街。
平凡な分譲住宅が建ち並ぶ、とある一軒の前に、この街には似つかない黒塗の高級車が今日も停まる。
そこから音もなく、一人の若い女性が舞い降りた。
乙女が身にまとうは、しわ一つない汚れ無き制服。
限りなく黒に近い濃紺のセーラー服。
膝下まで伸びた折り目真っすぐのプリーツスカート。
風にたなびく藍色のスカーフ。
この制服は、あの高貴な乙女たちが集うとされる名門女子高に通う者の証……
『私立 聖蹟百合ヶ里女学園(通称、聖女)』
手入れのゆきとどいた髪を腰まで伸ばし、清楚な佇まいを醸し出す。
整った顔立ち。スラリとした身体。
まさに彼女は高貴な生まれの、聖女の女学生だった。
この住宅街には全く縁が無さそうな彼女は、『本杉』と書かれた表札の門をくぐり抜ける。
まるで彼女を迎え入れるかのように、玄関は施錠されておらず、すんなりと扉を開けると中へと入っていった。
「おはようございます」
美しいのは彼女の顔だけではなかった。
上品な振る舞いから放たれる透き通るような美声が、部屋にこだまする。
間もなくして、パタパタと足音をたてながら、この家主の夫人であろう女性がやって来た。
「あっ、おはようございます。綾音さん!」
「失礼いたします」
綾音と呼ばれた乙女は、きれいに靴を脱ぎそろえ、慣れた足取りで上がりこむと、そのまま2階へと続く階段へと進んでいった。
「ごめんなさい、文代は今日、一段と寝起きが悪いようで……」
「そうですか」
綾音はフッと微笑んで、焦る夫人を尻目に階段を登ってゆく。
そしてある扉の前で立ち止まる。
軽くノックをすると
「フミ? ごきげんよう。入るわよ。
……とは言っても、聞こえてはいないでしょうけど」
と、言い切る前にドアを開け入ってしまう。
何の返事もない部屋の中には、一人の少女がいた。
この時間、社会人なら活動し始める時間。
しかし、まだ寝巻き姿の彼女はベッドに腰掛けながら、手にした文庫本を一心不乱で読み込んているのだった。
綾音は美しい顔立ちに似合わない大きな溜息をつく。
「フミ、もう何時だと思ってるの?」
そう口にしながら近寄るも、フミと呼ばれた可愛らしい少女はその言葉も耳に届かず、綾音の存在にも気づく素振りはない。
ひたすら小説を読み込み続けるのだった。
綾音は、読書を止めようとしない少女の前に来ると膝を付き、
何の前触れもなく突然、
慣れた手つきで少女のズボンを剥ぎ取った。
矢継ぎ早に、今度は上着まで奪い取るも、少女は無抵抗のまま文庫本から目を離さない。
二人が出会って数分も経たずに、少女は身ぐるみ剥がされショーツ一枚の姿に。
今どきの中学生でも穿かないであろう、色気のない無地で純白のコットンショーツ。
胸にはブラなど身に付けておらず、まだ膨らみかけの蕾の様な、控えめな乙女の胸が露わになる。
そんな姿にされつつも、悲鳴の一言も発せず、未だ小説に目が釘付けとなっている。
綾音は呆れたように、そんな姿を上から下まで舐めるように見渡す。
「目につかないところにもオシャレに気を使うことこそ、品格ある淑女たるもの。
あれほど、言い聞かせたのに……」
全く色気もなにもない下着姿に落胆する。
着替えさせる時間が無いので、今日のところはそのままスカートを履かせる。
「今日は……天気もよいことですし、この青空と同じ色の、これにしましょうか?」
綾音はタンスの奥深くに隠された水色のブラを引っ張り出す。
それを手際よく着せていく。
その間も、何の抵抗も反応もしない。
なすがままの少女。
すっかり制服姿に変身した少女の姿は、綾音と同じ装い。
そう、この少女も同じ聖女に通う生徒だったのだ。
人形のように着替えさせられたのにも関わらず、相変わらず本を手から離さない。
綾音は真横に腰掛けると、今度はブラシで寝癖だらけの彼女の髪をとかす。
黒く癖のない真っ直ぐな、それでいて柔らかく温かい髪。
時折、手触りを堪能しながら呟く。
「伸ばせば、きっと美しいのに……
長さがあれば、私が編んだり束ねてあげると言っているのに」
本人は洗うのが面倒だとか、寝癖が、とか理由を付けて髪を伸ばしたがらない。
綾音が伸ばすように提案して、ようやく肩に掛かるくらいまでに伸ばさせたのだった。
こうして身だしなみをすっかり整えられた少女は、まるでどこかのお嬢様のよう。
「さあ、フミ。そろそろ目覚める時間よ」
そう話しかけると綾音は、
長い髪を耳にかけ、
少女と文庫本の間に、顔を差し込み遮ると……
眠りの森の美女を目覚めさせるように、
ゆっくりと唇と唇を重ねた。
少女の温もりが唇を伝ってやって来る。
ほんの数秒の間、
頃合いを見計らって、
名残惜しそうに唇を離す。
すると……
少女の瞳に生気が宿り、ハッと我に返る。
「……あっ! 綾音さま!!」
「ごきげんよう、フミ」
初めて綾音の存在に気付く少女。
驚き飛び跳ね上がる。
「お、おはよう、ございます! わ、私、また……!?」
「早く支度しなさい。遅れるわよ」
「は、はい!」
二人の出会いは、新学期が始まって間もなくの頃。
学校への登校中の電車内でのことだった。
東京都内の未だ自然豊かな場所に、とある名門女子校が存在した。
幼稚園から大学までの一貫校であるこの学校は、私立 聖蹟百合ヶ里女学園(通称、聖女)。
元華族の家柄や、財閥や実業家、政治家の御令嬢が入学される名門校である。
ここに通う二年生の笠小路綾音は生粋のお嬢様。
父方は大財閥の流れをくむグループ会社の社長。母方は元華族の家系。
学園内には様々な生い立ちの生徒がいたが、綾音は正真正銘のお嬢様だったのだ。
自称社長令嬢や、良家の娘などとは違い、気品や振る舞い、容姿、美貌などどれを取ってみても完璧なまでのお嬢様。
この学園の生徒の模範と憧れとなる人物だった。
そんな彼女は毎日登下校は自宅の送迎車によって行うのだが、ある日のこと、車が点検修理のために使用できない日があった。
代車の手配を断り、気分転換を兼ねて珍しく綾音は電車で登校することにした。
通勤の人混みに溶け込み、車両に乗り込んだ綾音だったが、しばらくして同じ制服を着た生徒が、連結部近くで立っているのに気がついた。
おろしたての制服と、その背格好からこの学園の新一年生だろう。
小柄で華奢な体格の少女。
自分の昔の頃を追想し懐かしみながらその姿を見ていた時だった。
異変はすぐ起きた。
その子の背後に立った会社員風の中年男性。
異様に、不自然なほど、少女に体を密着させていたのだった。
普段電車に乗ることのない綾音でも、直感した。
痴漢!?
少女は恐怖のためか全く抵抗する様子も恥じらう姿も見せずに、無言で文庫本を開き読んでいた。
まったくの無反応だったのだ。
唯一行動があったとすれば、片手で文庫本を器用にページをめくりながら一心不乱に読み進んでいたことだ。
それをいいことに、男は腰を密着させたり、右手を制服内へと滑り込ませる。
か弱い少女に卑猥なことをする者、しかもそれが神聖な我が校の女生徒に対して。
ケトルのように一瞬にして怒りで沸騰した綾音は、気がついた時には、
「この人、痴漢です!」
と周囲に叫び、男を取り押さえていたのだった。
男は抵抗することもなく、おとなしく犯行を認め次の駅で降ろされると、駅員に連れていかれた。
綾音と少女も一度、事情聴取のため駅舎控室へと同行していった。
これで問題は解決……したかに思えた。
男も容疑を認め、警察も到着し、これ以上大きな騒ぎになることはなかったのだが、
問題の被害にあった少女が、まったく反応しないのだった。
体調や被害の状況などを尋ねても、一言も口を開かなかった。
目の焦点は一点、ただ文庫本に並んだ文字へと向けられるだけ。
綾音もいくら話しかけても、まったく話そうとしない。
まるで意識だけ小説の中へと飛び込んでいるかのように、魂が抜けた人形状態だった。
分かっていることは、この少女の生徒手帳からの情報のみ。
聖女の学生で新一年生の、名は本杉文代。
おそらくショックのあまり口がきけなくなっているのだろう。
周りはそう判断し、綾音もそう感じた。
両親にも連絡し、とにかくこの文代という子を安全な学校まで連れて行くことにした。
学校に連絡して、教師が車で迎えに来てくれるということなった。
控え室で待つ間、二人っきりとなる綾音と文代。
そこで綾音は、文代の意識を取り戻そうと、いろいろと試したのだった。
揺さぶったり、頬を叩いたり、耳元で声をかけたり……
文代の持つ本を取り上げようともした。
しかし、恐ろしいほどの力で文庫本を握り締め、放さないのだ。
恐ろしい程の没入感。
試行錯誤の末、まったく現状から進展せず、ついに諦め疲れ果てた綾音は、文代の隣に腰かけた。
小説に没頭する、まだあどけない表情の文代。
こうして落ち着いて、近くでまじまじと見つめると、確かに可愛らしい顔をしていた。
ほんの数ヶ月前までは中学生だった子だ。
身長も胸の膨らみも控えめな、まったくの純粋無垢な少女。
綾音にとっては、この文代という生徒とは初対面だった。
綾音の通う学園は、ほとんどの生徒が幼・少・中等部からエスカレーター式に進学してゆく。
それは綾音もそうだった。
さらに生徒は、親族が財閥や実業家、政治家であり、家族ぐるみの付き合いがあり、生徒同士はほとんどが顔見知りであった。
しかし、この文代という生徒は記憶にない。
そう言えば……
と、思いを巡らす。
噂で聞いたことがあった。
特待生。
年に数名、外部から優秀な生徒を一般公募の枠とは別に、推薦募集する当学園。
今年も高等部に一人存在したが、実は問題児だったという噂を。
学業や成績、人格的には申し分ないのだが、生活態度に著しく指導を有する点があるという。
それは、
遅刻が多く、
授業でも居眠りが多く、
休み時間も放課後も、ぼーっとして放心状態であることが多いという。
きっとこの子に間違いない。
痴漢のせいではない。
日頃からこんな状態なのだ。
ここで一つの疑惑が脳裏をよぎった。
この子はもしかしたら、意識を失ってしまう病気?
もしかしたら、脈や呼吸も一時的に停止しているのでは?
綾音は慌てて文代の胸に手を当てる。
柔らかく弾力のある胸の奥深くからは、確かな鼓動が伝わってくる。
では呼吸は?
口元に視線を向ける。
開きかけの薔薇の蕾の様な、血色の良い唇は、微かに呼吸の度に波打っていた。
もし呼吸がないようなら人工呼吸を?
とも考えていた綾音は……
一時の気の迷い。
ほんの僅かな好奇心。
この幼気な少女の唇がどのような感触をするのか?
という破廉恥な妄想が走る。
まるで痴漢をしてしまった男のような言い訳をしながら。
その誘惑に勝てずに、
顔を傾けると、
磁石の磁力に導かれるように、
軽く唇同士を重ねてしまった……
すると、
その一瞬の呼吸の遮断と、
文庫への視線の遮りが、
少女を現実の世界へと引き戻したのだった。
文代の瞳には生気が戻り、何度も瞬きをする。
急に意識を取り戻した少女に、困惑する綾音は後退りする。
「ごめんなさい。あまりにも夢中になっていたものだから……」
と言い訳を遮るようにして、文代は叫んだ。
「い、今! 何時でしょうか!!」
「え?」
「あ、あの! ここはどこですか!?
あぁ……どうしょぅ……
また遅刻したら……退学に……」
「ちょっと、あなた。覚えていないの?」
「…………え?」
あの日以来、綾音は文代を家まで迎えに行き、叩き起こしてから車で一緒に登校するのだった。
こんな子、放っておけない。
これが綾音の始めの心境。
もともと車通学の綾音が、多少寄り道しながら文代を回収するだけのこと。
こうすれば文代が痴漢にあったり、遅刻する心配もない。
そして自分の手の届くところに置いておける。
何よりも文代にとっては、車内ではゆっくりと大好きな小説を読むことができるのだ。
後部座席に座る文代はいつものように、鞄から読みかけの文庫本を取りだし開く。
二人が会話をすることもあるが、たいていは文代が一人小説の世界へと入り込む。
その様子を肩を並べながら眺める綾音。
文代の小さな頭を優しく撫でる。
時には髪をとかしたり、
本を覗き込み一緒に読んだり、
制服のホコリを払ったり、
手を握ったり、つねったり、弄ぶ……
文代は意に介さず、微動だにしない。
文代はとても賢い子だった。
地頭がよく、勉強もでき、運動もそこそこ。
成績は悪くない。性格も良い。
さすが特待生といったところだ。
ただ一つ、問題が。
素行が悪いという烙印を、周囲から押されていた。
その原因は……
小説が好きすぎて、読み始めると没頭してしまい、意識が飛んでしまうからだった。
あの一件で全て説明がついた。
起床時、通学中にうっかり小説を読み始めたら、読み終わるまで意識が戻らず、遅刻してしまうのだ。
その間は、小説の世界に入り込み過ぎて、現実世界でなにが起きていたのかを把握できない。
本人は自覚していないこの特殊な体質は、文代曰く、最近から起こり始めたようだった。
昔から文学好きではあったが、中学の頃は普通に生活していたのだという。
そしてこの小説の世界へと吸い込まれた魂を現実世界へと呼び戻す手段は、現在のところ何故か“綾音の接吻”しかなかったようだ。
あと一回でも遅刻をしたならば退学。
文代は、そこまで差し迫っていたのだった。
それを救ったのが、まさに綾音の口づけだったわけである。
あの事件の直後、綾音は教師たちに文代の処遇を巡って直談判した。
特殊な体質には触れることはせず、文代の生活態度が優れなかったのは、通学中の痴漢が原因だったと。
それを苦しみ悩んでいたから、日頃生活に出ていたのだと。
今後は綾音が面倒を見るという条件の元、退学などの手段はとらないようにと説得した。
そのため学園への送迎は綾音が行ない、学内では文代から目を離さずに二人で共に過ごすことが多くなったのだった。
車は間もなく、学園前に到着する。
綾音は身だしなみを整えると、文代の読む文庫本を遮り……
そして優しく唇を塞いだ。
数秒間の唇同士の密着の後、名残惜しそうに離れていく綾音の口からは、甘いと息が漏れる。
まもなくして我に返る文代。
「…………ぁあっ!」
「フミ、もうすぐ着くわよ。準備なさい」
「は、はい!」
登校する生徒は正門をくぐり、一本の大河となって集約され学び舎へと流れていく。
そこに、正門前に横付けされた車から降り立つ二人に、周囲の生徒は黄色い声を上げる。
「綾音様だわ」
「今日も本当にお美しいですわねぇ」
「朝からお目にかかれるなんて、今日は幸運な日ですわ」
綾音の名と姿を知らないものはいない。
その姿は、生徒達の憧れと尊敬の対象。
そしてもう一人。綾音に付き添う文代の存在も、今となっては知らない者などいなかった。
しかし最初から文代の評価が高かったわけではない。
当初は、
「どこの馬の骨とも分からない部外者の平民風情が、この高貴な学園の聖域に踏み込むなんて!」
「学園一の才女と由緒ある家柄の綾音様をたぶらかし、
軽々しくお近づきになれない生徒がいるにもかかわらず、
一人一心に寵愛を受けるとは!」
などと罵詈雑言を浴びせられる日々。
特待生の問題児。
最初は誹謗中傷、嫉妬や妬みで、どす黒い憎悪の対象として見られていた文代。
しかし、次第に誰もが文代の持つ魅力に囚われていくことになる。
文代は感情豊かだ。
喜怒哀楽がハッキリとしていて隠すことをしない。
というよりも隠すことができない。
思った感情が表情に表れてしまう。
もちろん嘘も付けない。裏表もない。
それでいて、明朗快活で人当たりもよく、愛想の良い文代に理解を示す者も多く現れ始めていった。
ここに通う淑女たちは、幼い頃から英才教育を施され、人前では感情を表に出すことなく、常に微笑みを絶やさない事を良しとされてきた。
もちろん綾音もその中の一人だった。
そんな中で、子犬のように無邪気で表情豊かな文代の存在は、特異に映るのだった。
美しく聡明な女神様と、
天真爛漫な、明るく親しみやすい天使。
今や周囲からは、お似合いの姉妹様として、羨望の眼差しを受けるまでになってしまった。
綾音も例外なく、この天使の姿に惚れ込んでしまったのだった。
可愛らしい子犬のように、満面の笑みをたたえながら懐いてくる文代の存在は、綾音にとって拒む存在ではない。むしろ傍にいてくれることで、安堵感に浸れるような感覚に溺れるのだった。
それだけではなく、隙あらば自分の世界へと籠ってしまう文代を、目の届くところに置いておきたかったのも事実。
それは綾音の文代に対する、母性的な愛情表現だったのかもしれない。
「綾音さま?」
「どうしたの?」
昇降口へと向かう二人。
心なしか、いつも以上に注目を浴びているような錯覚に陥った文代は、綾音に尋ねるのだった。
「なんだか、今日は皆さん、私のことを……」
「いつものことでしょ?」
「あ、あの? もしかして、寝癖とかついてますか? 服に蜘蛛の巣とか?」
「そうね……強いてあげれば、フミの胸が少し大きく見えることかしらね」
「むね??」
首を傾げる文代は、胸元を広げ下を覗くと……
「あっ!」
お気に入りの隠しておいた宝物!
ここぞという時に付けようと思っていた、勝負下着の水色のブラジャーが!?
これは綾音様と一緒に買いに行った時に、選んで買っていただいた大切な下着。
「な! なんで!?」
「フミ、大声を出して取り乱すなんて、はしたないですよ」
「す、すみません。で、でも!」
文代は頬を赤らめ、恥ずかしさで猫背になる。
「ほら、皆さんが見てますよ。ちゃんと胸を張って歩きなさい」
「む、胸を! はって!?」
狼狽える文代の、あまりの滑稽さに、思わず微笑んでしまう綾音だった。
学年もクラスも異なる二人は、授業以外の時間はほとんど二人で過ごすことが多い。
その様子は他の生徒からも目撃され、羨望の眼差しで見られた。
平凡な家柄の娘が、特待生としてこの学園にやって来て、一番の美貌と家柄を持つ容姿端麗のお嬢様に気に入られるとは。
まさにシンデレラストーリー。
綾音は二人でいる時は、文代のことをフミと呼ぶ。
本来学園内での、生徒同士の呼称は“様”か”さん”ずけ。
もちろん人前では綾音も“文代さん”と呼ぶ。
それだけ文代には特別な思いがあったのだ。
対して文代は綾音のことは尊敬の念を込めて、どこにいようと綾音さまとお呼びする。
文代にとっては命の恩人。
痴漢から守ってくれたこと。
学園内での不評を弁明し庇ってくれたこと。
綾音の為なら何でもする覚悟だった。
それ以上に人として憧れの対象で、いつか私も綾音さまのように、という思いが文代の心の中にはいつでも存在していた。
昼休みになり、中庭のベンチに座り昼食をとる二人。
初夏のさわやかな風が、二人を撫でていく。
お弁当を前にした文代は、万華鏡のように表情をころころと変化させた。
苦手な食べ物が入っていれば、今にも泣きだしそうな顔に。
好物が入っていれば、神に祝福されたかのような満面の笑みに。
それはそれは美味しそうに、食事をするのだった。
淑女たるもの、食事は澄ました顔で、会話もなく手早く済まさなくてはならない。
そう習った綾音には、文代の姿が新鮮でたまらなかった。
「フミ、そんなに慌てて食べないの。お弁当は逃げて行かないでしょ?」
「ふ、ふい、どむ……」
「食べながら話すんじゃないの!」
そんな幸せで満たされた文代の顔を眺めるだけで、綾音は満腹になりそうなのだった。
食事を終え一息つくと、文代は面白いものがないか周囲を見渡す。
そして、透き通る青空と新緑を見ながら、得意気に言う。
「まるで、“染め付けられたような空から深い輝きが大地の上に落ちた”みたいです」
「それは……誰の言葉かしら?」
「夏目漱石の“草枕”からです!」
「そう、漱石からなのね。でしたら……
“安心して夢を見ているような空模様”ね」
「綾音さま、それも夏目漱石の“三四郎”からですね?」
「さすがね、フミ」
褒められた文代は、エヘヘっと照れくさそうに笑う。
続けて、
「“からっと破ったように晴れ渡っていた空”」
「それは?」
「有島武郎の“或る女”です」
「“或る女”なら……“燃えるような青空”と言ったところかしら?」
「おっしゃる通りです! 綾音さま!」
こうやって小説からの比喩表現を取り出しては、文代なりの文学クイズをして楽しむのだった。
そして食後の一服……ならぬ、一読。
ベンチの背もたれに体重を預ける文代は、文庫本を片手に読書を始める。
綾音もそれにならって、読みかけの小説を取り出す。
一人小説の世界に入って行った文代を横目に、綾音は小説そっちのけで文代の横顔を眺める。
そのうち見るだけではなく、
腿を触り、
頬をなで、
手首を繋いだりと、
弄び始める。
これが綾音にとっての食後のデザートなのだ。
たまに本当に息をしていないんではないかという恐怖に襲われ、生存確認のために脈をとったりすることもある。
今日もそっと文代の左胸に手を当て、文代の鼓動を感じ取る。
その心地よいリズムに微睡む綾音は、残りの休み時間をそれで過ごした。
まもなく昼休みが終わろうとする頃、綾音はハンカチを取り出し、文代の口元を拭うふりをし軽く口付けをする。
ぅ……う~~ん、と大きく伸びをする文代は、
「え~っと、綾音さま? 今何時でしょうか?」
と寝起きのような声で尋ねる。
「始業10分前ね」
「えっ!? いけない! 急がないと!」
慌てて立ち上がる文代は、お弁当箱を派手にひっくり返す。
「慌てるんじゃないの、フミ」
「す、すみません!」
「気をつけて。また放課後に」
「は、はい!」
綾音は部活には参加していなかった。
そのかわり、今年度の生徒会の会長という役割を担っていた。
そして綾音の手引きで、文代も生徒会役員の書記というポジションを任せられた。
もともと賢い文代は、その期待に十分応えるほどの働きを見せてくれた。
それもこれも綾音さまの力になりたいという一心でのこと。
ほぼ毎日、二人の放課後は生徒会室で費やされていた。
そこには様々な生徒からの意見やクレーム、相談事などが舞い込んできた。
ある時には、新一年生の両親が娘の生活態度が心配で尋ねてきたことがあった。
入学してから以前にもまして感情表現が乏しくなり、やる気も起きなくなり、一切笑わなくなったというのだ。
病院に行っても原因不明として帰されるだけ。
ついに生徒会を頼ってきたと言うわけだ。
正直綾音にとっては専門外のこと。
丁重にお引き取り頂いたのだが、
「どうしたの? フミ?」
その場にいた文代が考え込む。
「いえ、ちょっと。
これ……似てるんです。小川未明の“笑わない娘”に」
「どういうこと?」
「環境が原因……かと?」
はたして文代の言った通りで、しばらくの間、親戚の家に預けて別の学校に通わせたら、感情を取り戻したという。
幼稚園から高等部まで同じ学園で、同じ顔馴染み。変化のない日常が彼女をそうさせたらしかった。
その生徒は、そのまま戻ることなく転校したのだった。
またある日、
姉妹でこの学園に通う姉が、相談しにやって来た。
病気で長期休学している妹が、メールで恋文を送っているとのこと。
しかしその相手がどうやらこの学園の生徒らしいのだ。
女子高であるこの学園で、相手は一体?
しかも休学しているにもかかわらず、まるで学園生活を楽しんでいるかのような内容。
相手はいったい誰なのか突き止めて欲しいという願い。
これも綾音にとっては、とてもではないが対応できない問題。
しかし文代は何かを感じ取った。
「フミ? なにを考えてるの?」
「ちょっと、気になる点が……」
「気になる点?」
「太宰治の“葉桜と魔笛”という話なんですけども……」
文代の思った通りで、妹の恋人という人物は最初から存在していなかった。
妹は、通うことのできない学園での生活を思い描き、架空の恋人を作りメールをやり取りしていただけだったのだ。
文代は持ち前の文学知識で様々な問題を、名探偵さながらに解決していくのだった。
そんな姿に綾音も感心し、信頼していくのだった。
「おさきに失礼いたします。綾音様」
「ごきげんよう」
厳かな空間が広がる生徒会室。
生徒会の会議が終わり、役員たちは次々と退出していく。
最後まで残るのは生徒会長の綾音と、書記の文代。
これもいつもの光景だった。
最初は周りの者も、綾音に気を使って先に帰るようなことは出来なかったが、いつしか意図的に残ろうとしているような思いが垣間見え、気を遣い時間になれば二人を残し、下校するようになった。
議事録を取りまとめる書記の文代は、どうしても最後まで仕事が残ってしまう。
それを見守る綾音。
「フミ? あとどれくらいで終わりそうなのかしら?」
「は、はい。あと一時間ほど頂ければ……」
「そう。ではここで待ってますから」
「申し訳ありません」
こうして広い空間に文代のペンを走らす音だけが響く。
それを聞きながら、お茶を飲み黙って座る綾音。
もうそろそろ、その時がやってくる。
腕時計をチラッと確認して、文代に目を向ける。
集中力を切らした文代は、必ず隠し持っている文庫本を取り出し、読み始めるのだ。
そしてまた一人だけの世界へと旅立ち、気がつくと日も暮れ、仕事も終わっていないということが多々あった。
何度もそのことで綾音から叱られていたが、小説を読むこと、こればかりはやめられないのであった。
綾音にも本当に止めさせようという気持ちはない。
もし文代に改善されたら、この大切なフミ鑑賞会を失ってしまうのだから。
そしてついに文代は綾音の目を盗んで、書類をまとめるふりをして文庫本を取り出し、禁断のページを開いてしまう。
それを気付かないふりで横目で眺める綾音は、フフッと鼻で笑う。
文代は仕事を放棄して、小説の世界へと旅立つ。
日も傾き、赤い光が生徒会室を照らす。
そろそろ頃合いかしら、と綾音は文代の後ろへと回り込む。
熱心に読み進める文代の背後から、腕を伸ばしそっと抱きしめる。
顔を髪に埋めると、安物のシャンプーの石鹸の香りが鼻を包む。
小さな胸が呼吸によって上下する。
人形のように黙り込んでいるが、たしかに心臓の鼓動が一定のリズムで鼓動しているのが分かる。
顎を文代の肩に乗せ、横顔を覗き込む。
こんな事をしても気付かない。
まだあどけない少女の顔を、視線で撫でるように弄ぶ。
耳に息を吹きかけても、
耳たぶを軽くかじってみても……
そうして、
文代の真っすぐ向けられた視線を追っていく。
そこには規則正しく並んだ文章が並ぶ。
単なる文字の羅列に過ぎない無機物の文庫本。
それに意識が吸い込まれるくらい夢中になる文代。
私にでさえも、このような熱い視線を向けることはないというのに。
私といても、これほど魂が吸い込まれるほど、魅了されることはないというのに。
なのに……
これは嫉妬だ。
その感情は綾音にも十分承知していた。
醜く敬遠されるべき負の感情。
完全無欠のお嬢様にも、その感情は生じた。
あろうことか、綾音は人でも動物でもない、書物に対して……
抱き締める腕に、力がこもる。
強引に文代の体をこちらに傾けると、唇を重ねた。
目覚めさせるように、下唇を軽く甘噛みし揺さぶるようにして。
程なくして意識を取り戻した文代は、あっ! っと小さな叫び声とともに、掛け時計に目を向ける。
もうこんな時間!
またやってしまった!
という後悔が全身を包む。
そして眼前の視界に見当たらない綾音さまのお姿。
もしかして愛想つかされて先に帰られてしまった!?
焦燥感に駆られ、綾音を追いかけようと慌てて席を立ちあがると、椅子が後方の何かにぶつかり止まる。
振り返るとそこには、窓の外を眺める綾音さまの姿が……
沈みゆく夕日に照らされて、輪郭が炎のように燃え上がるそのお姿が、まるで不動明王のように怒りで満ちているかのように文代には見えた。
鳴き声に近い声で、
「あ、綾音さま……?」
と、絞り出す。
声に反応し綾音が、長い髪を鞭のようにしならせながら振り返る。
「もう……こんな時間ね」
抑揚のない声。
「も、申し訳ありません! わ、私!」
「以前あれほど忠告したわよね。ここで小説を読むようなことはしないと」
「は……はぃ」
文代はまるで余命宣告を受けたかのように、顔を湿らせる。
綾音さまに見放されたら。
生きてはいけない。
まさに本当に余命宣告。
「フミにとっては、私よりも小説の方がそんなに大切なのかしら?」
「い、いえ! 決してそのような!」
「では私と小説と、どちらか一つを取るとしたら?」
「そ、それは……」
もし猫耳が生えていたならば、ペタンと塞ぎ込むくらいの怯えよう。
小刻みに震える体は、これ以上揺らすと、目に溜まった涙が溢れんばかり。
私と小説、どちらか一つ選べるはずがない。
そんなことは綾音自身も知っている。
だからこその問い。
わざと意地悪をし、文代の困り果てる姿を見て、愉悦に酔いしれるのだった。
「そう、なら仕方ないわね。それ相応の罰を受けてもらいましょうか」
「はっ!? は……ぃ」
「私がよいというまで、口を開いて言葉を発してはいけません」
返事をする代わりに、必死に顔を縦に振る文代。
「よいこと? ほんの数分、口を開かないこと」
夕陽が逆光とになり綾音の表情は怒っているのか悲しんでいるのか分からない。
叱られた子犬のように、上目遣いで様子をうかがう文代。
なにをされても致し方ない。
自分は綾音さまを裏切ったのだから……
覚悟を決めた文代に、ゆっくりと綾音の顔が近づいてくる。
いつ平手打ちがきてもいい覚悟していた文代。
しかしその素振りも見られず、拳の代わりに美しいお顔が迫りつつあることに怯える。
息を呑むほどの眉目秀麗。
止まる様子もなく、一直線に襲ってくる。
そして遂に、恐怖よりも困惑が上回った瞬間、思わず叫んでしまう。
「あ、綾音さまぁ! お顔が! 顔が!!」
「誰が口を開いてよいと?」
海老反り体勢で回避しようとする文代の両肩は、いつの間にか綾音に掴まれていた。
容赦なく近づく唇は、真っすぐ文代の口を捕食しようと迫っている
まな板に載せられた魚のようにもがく文代。
「んっ! んん~〜!!」
固く閉ざした口の奥から、声にならない唸り声を上げる。
その悲鳴に蓋をするかのように、
そっと、
綾音は文代の唇を、
啄んだ。
文代の体がビクンと飛び跳ねる。
まな板の上の魚は、心臓を一突きされたかのようにピクリとも動かなくなる。そして死んだそれのように、大きく見開く瞳には光なく濁ってゆう。
綾音には刹那でも、文代には永遠とも感じる時間。
綾音の唇は、ゆっくりと文代を解放する。
その湿った唇からは、柔らかい言葉が流れ出す。
「フミ、また今度、同じことしたら、もっと厳しい罰を与えますからね」
文代は夕陽のように赤く、熟れたトマトのようにぐちゃぐちゃな顔を、何度も縦に頷く。
恥ずかしくて、小説があったらのめり込みたい。
この現実から一刻も早く逃れたかった文代は、机に投げ出された文庫本を拾うと、ペタンと力なく椅子に腰かけ、そのグルグル回る目を使って小説を読もうとする。
しかし小説への逃避はできない。
何故ならば、本が上下逆さまで読むことすらままならないからだ。
それでも、狼狽してそのことに気づかない文代は、必死に文字を目で追うのだった。
その滑稽な姿が、狂おしいほど愛おしく思えて、綾音は恍惚とした表情を隠しきれない。
文代にとってはファーストキス。
ロマンも感傷も何もあったものじゃない。
ただただ、恥ずかしさでいっぱいで、なにか柔らかいものが触れた感触しか思い出せない。
あとは目の前に迫ってくる、麗しき綾音さまの顔。
それを思い出すと、頭の中に夕日が落ちてきたかのように熱く、意識が真っ白になり、顔を隠すように文庫本で覆う。
綾音にとっては、毎日の日課に過ぎないこの行為。
ただいつもと違ったのは、
いつもの潤い満ちた唇ではなく、
まるで古書店の本棚に長年鎮座してある埃に埋もれた文庫本の、
あの赤茶色に日焼けしたパラフィン紙の様に、
ほこりっぽくパサつき、
そして、
苦い味がしたのであった。
この作品に興味をお持ちいただき、最後までお読みいただき、ありがとうございます。
知る人ぞ知る、私の別の投稿作品の作中作を短編化したものです。カクヨムに投稿するにあたって、こちらにも載せてみた次第です。
どれだけ需要があるのか試験的な作品です。
ではまたどこか別の作品で、お会いしましょう。
ごきげんよう。