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投稿に時間が空いてしまいすみません。
今回少し長めです。
それではみなさん良いお年を!
俺の野菜炒めがなくなるころには、今日会ったのが初めてとは思えないくらいシンのことを知れたと思う。
シンの生まれ故郷は南にあるコダンということ、顔は母親似で性格は父親似だが料理上手は母親譲りということ、得意料理は特大ハンバーグということ、小さい頃はエルダと料理をしていたが、いつもエルダが失敗するということ、収穫祭での劇の出し物で勇者役だったこと、その劇中に舞台から転げ落ちて怪我をしたこと。
どれもエルダを探すことに必要な話ではない。
なのに、シンのどうでもいい話の一つ一つが大切に感じるのは人間に興味が湧いたからなのだろうか。
「なんか俺の話ばっかりしてますね。シエンさんの話も聞きたいです」
「俺の話、か。シンみたいに話せることなんてないんだが」
「えー七百年も生きてたら沢山あるでしょ」
食べ終わった木皿を地面に置いた。
「まあ、ないわけではないが……」
「家族とか、友達とか、シエンさんの仕事も聞いてみたいです!」
シンの目が炉の火を反射して光る。
俺の話に期待を滲ませているように。
確かに七百年も生きて何もないわけはない。
でも、自信がない。
自分の記憶が本物かどうか。
「……実は、百年間くらいの記憶が思い出せないんだ」
期待の眼差しは困惑に変わり、キョトンとした顔で見つめられる。
「えっと、それってつまり記憶喪失ってことですか? 」
「そうなんだろうな」
自分のことなのにまるで他人事みたいだ。
シンも流石に驚いたようでかける言葉を失っている。
少しの間、沈黙が流れる。
何か話さなければと思うが、さっきから何を話したらいいか分からなかったから、今はもっと分からない。
結局、先に口を開いたのはシンだった。
「いつからないんですか?」
いつもの戯けた様子はなく、真っ直ぐに俺を見ている。
記憶喪失だ、なんて言われたらバカにしているのかと怒ったり、呆れて流したっておかしくない。それなのに、つくづくこいつは律儀というかお人好しというか、こう言う奴をなんて言うんだっけな。
「五百歳からの百年少しの間だ。この間だけ、思い出そうとしても思い出せない」
視界の端に火が映る。
真っ赤な炎。
記憶を失ってから俺は火を遠ざけるようになった。
「それより前の記憶はあるんですか?」
声に遠慮が混じっている。
「ああ、多分な」
「多分?」
「自信がないんだ、自分の記憶に。史実によると、俺の故郷は、俺が五百八十九歳の時に魔人によって壊滅させられたらしい」
他人事だ。
口に出してそう思った。
「壊滅の瞬間を俺は知らないし、以前の俺を知っている者はもういない。だから、俺が覚えている残りの五百年が本物なのか俺の空想なのか分からない」
空気が重くなる。
こんな話は、二人目の妻とした時以来だ。
彼女は、俺を気遣ってか興味がなかったのかそれ以上のことは踏み込まなかった。
シンは何か考えているのか、また言葉を失っているのか足元を見て黙っている。
いくら俺のことを知りたいと言っても、厄介話は御免だろう。
「暗い話をしてすまない。記憶を取り戻してからの百年ちょっとの話なら自信を持って話せるぞ。まあ、エルフの老人の世話をして過ごしただけだし、知っていると思うが、人間との結婚もしたからエルダの友人のお前にとっては聞きたくないこともあるかもしれないが」
シンは苦笑いを浮かべてなんとも言えない顔をしている。
少しは空気を変えれるかと思ったが逆効果だったようだ。
「その、エルフの老人ってどんな人なんですか?」
「俺の恩人のような人で、名はレイダンだ。レイダンとは俺が記憶を無くして彷徨っているときに出会った。頑固で愛想もない人だが面倒見がいいんだ。もうかなりの年だから俺が身の周りのことを世話している」
「シエンさんから見てお年寄りって、その人何歳なんですか?」
「正確な年は分からないが多分二千年は超えていると思う」
「二千?!」
驚いた勢いでシンの体が前屈みになる。
「人間が誕生するよりも前に生きてるってことですか……もはや神様みたいなもんですね」
人間はなんでもすぐに神格化するな。精霊にとって神は女神様だけだからよく分からない感覚だ。
「エルフは寿命が長いからな。それでもレイダンは長寿だ」
「知らなかったです。レイダンさんとはどんな風に過ごしてたんですか?」
レイダンとの日々は穏やかだった。
彼はテネブルの都市から離れた森で暮らしていた。
目的もなく変化もなく過ぎる時間。
植物が呼吸をするように、俺たちもそこでただ生きていた。
「レイダンは森に住んでいてその森の管理人のような存在だったから、彼の代わりに森の管理をしていた。とは言っても、過ごした中で異常事態が起こったことなんて、木々の成長が急激に進んで森が一時的に拡大したことくらいだが」
「え、それ結構やばくないですか? 森が急に大きくなるって怖いんですけど」
周りの木が急に成長することを想像したのか、シンは辺りを見回している。
「そんな大したことはない。魔力の過剰発生で起きたことだから魔力を減らせばいいんだ。そういうときのために俺たち妖精族がいるからな。テネブルの森にはたまにあることだし、ある程度時間をかければ適切な魔力量に調整することができる」
「俺が生きてきた状況と色々スケールが違いすぎていまいち頭に入ってこないです」
「そうか。魔法を使わない者にとっては理解しづらいかもな」
「ですね」
「……」
再び沈黙が流れる。
記憶喪失の話が出てから、さっきまでのシンの勢いがなくなった気がする。
こういうことになるから人付き合いはしたくなかったんだ。相手に気を遣わせるし、俺だって気分が良くない。
ーーなんであなたが悲痛な顔をしているの? あなたは私と違って未来があるのに。
一人目の妻の言葉が頭をよぎる。
――あなたと違って、私は結婚したら死ぬまで「シエン・ジェラールの妻」なのよ?!
当時、魔族がクラルテと和平条約を結んだ直後で、侵略の傷が癒えないクラルテでは、魔族だけでなくテネブル全体の印象が最悪だった。そのため、貴族たちは何があっても精霊族との結婚は避けたかった。だから、運悪く選ばれてしまった元妻は、若くして病気に犯されて命尽きるその瞬間まで俺との結婚を恨んだ。
彼女は知らなかっただろうな、俺に未来なんてないことを。
彼女のように守らなければならないプライドも異種族との結婚に心を痛める家族も貴族として果たさなければならない己の役割も、あの時の俺にもうはない。
過去がなければ未来だってない。そして、そうやって生き続けることは死んでいるのと同じだった。
自分でも自覚していなかったが、俺は、運命に足掻いて最後の最後まで自分を曲げず、家族に看取られて逝った彼女を羨んでいたのかもしれない。
本当はシンと話す時も得体の知れない羨望が渦巻き、その度に俺の卑屈な部分が顔を出す。
もうやめよう。
こうやって人と話す度に、この世界で何者でもない自分を自覚させられる。
そんな男と仲良くなろうなんてシンももう思っちゃいないだろう。
「そろそろ寝よう」
そう行って立ち上がろうとした、がーー
「あの」
緊張の混じる声で引き止められる。
「やっぱり話してもらえませんか? 記憶がなくなる前のことを」
正直ここまで踏み込んでくるとは思わなかった。
無配慮に聞いている様子ではない。
しかし、なぜか無性に腹が立つ。
「さっきも言ったが、記憶が確かではないんだ。そんな曖昧な話をしたって君の言う『仲を深める』ことにはならないだろう」
「そんなことは関係ないです。それに、もしかしたら話していくうちに記憶が戻るかもしれない」
裕福じゃなくても母親がいなくても父親と二人支えあって暮らして、友人に恵まれて真っ直ぐに育ったシンから言われると憐れまれているようだ。
「俺の記憶が戻るかどうかなんて、それこそ君には関係ないだろう」
「それは……」
シンの言葉が詰まる。
大人げないとは思ったが必要以上に関わらないためにははっきり言わなければ。
「数ヶ月共にするだけなんだ。俺のことは気にしなくていい。それに、俺は記憶が戻って欲しいなんて……」
記憶が戻って欲しいなんて?
焚き火の音が遠くなる。
俺は今まで記憶を取り戻したいと思ったことがあっただろうか。
思い出そうと努力したことは?
過去の記憶が曖昧で苦しんでいるはずなのに。
なぜ?
頭の中で渦が巻く。
俺は記憶を取り戻したくないのか?
「シエンさん」
シンの声で思考が停止する。
「今日会ったばっかりでこんなにズケズケ聞くなんて、俺のこと不躾な奴だと思ってます? それともお節介とか?」
シンが言わなそうな、少し棘の含んだ言い方に返答が遅れる。
「俺だって関わらない方がいいこととか超えちゃいけない一線は弁えてますよ。これでも各国歩いて商売してますからね。だから、会って初日の精霊の身の上話に首を突っ込むようなこと、いつもならしませんよ」
伏目で話す姿にさっきのような緊張感はない。
「でも、俺にとってシエンさんは、俺の大事な幼馴染の婚約者なんです」
そういうことか。
今までの行動に納得がいった。
この子は真面目で優しい子だ。きっと「幼馴染の婚約者」はシンにとって自分の友人のように扱わなければならない存在なのだろう。
「良くできた子だな」
思わず口からこぼれた。
皮肉のつもりはなかったがそう捉えられてもおかしくはない。まあ、エルダの婚約者としか見られていなかったことが、ほんの少しだけ残念には思ったが。
「人の話は最後まで聞いてください」
目を細めて口をへの字にしてムッとしている。
どうやら先があったようだ。
「シエンさんは長生きです。人間だけじゃなくて色々な種族と関わって生きてきたんだと思います。だから、シエンさんにとって俺は、一時の旅の案内人で、よくいる人間で、長い人生の中のただの通行人に過ぎない存在かもしれない。でも、俺にとってシエンさんは、俺が十七年間生きてきて親父以外で初めて一緒に旅する人なんです。きっとこの旅は一生忘れない」
シンの目線がゆっくりと上がる。
俺と目が合った。
「力になりたいんです。旅の相棒を気にかけるのは変なことじゃないでしょ?」
苦笑気味で、だけど屈託のない笑顔だ。
体の力がフッと抜けた。
傷がつかないように、壊れないように身構えていた腕に、そっと触れられたような気がした。
「でも、俺の記憶が本当かどうか証明出来る術はない。嘘は話したくないんだ」
何度も思い返す、穏やかで陽だまりのような温かな記憶。
孤独で何者でもない俺をいつも救ってくれた。
でも、それが全て空想だったら?
故郷が壊滅した時にショックで作り出した間違った記憶だとしたら。
何かの拍子で全部記憶を取り戻した時に、俺の唯一生きる糧になっているこの記憶が、あの人たちが本当はいなかったら?
そう思うと足がすくむみたいに、言葉にできない。
「つらいことを掘り返すみたいで申し訳ないんですが、シエンさんを知っている人はもういないんですよね?」
「ああ。みんな死んだ」
「だったら嘘かどうかなんて誰も分からないじゃないですか」
「そうだな?」
だったらなんだというんだ。真実が分からないままだから困っているんだ。
「それなら、シエンさんの今の記憶を本物にすればいいんですよ。もし記憶が戻って悪いことがあっても、今ある記憶が本物だと信じるんです」
「それは真実じゃないだろ」
「真実じゃなくたっていいんです。俺ら人間の周りは真実じゃないことだらけです。今度、精霊伝説とか呼んでください。きっと現実とのギャップがありすぎてびっくりしますよ」
例のごとくニヤリと笑う。
「ずっと正しくなくたっていいんです。時には真実より自分の信じることの方が大事だったりします。って、俺の親父が言ってました」
それに、と続ける。
「あなたを語れるのはあなただけなんですから」
なんの含みもない穏やかな声に懐かしさを感じる。
許された気がした。
何に対してかは分からない。
だけど、死んだように生きたこの百年から逃げ出してもいいと言われたようだった。
薪がなくなって火が弱々しく燃えている。
本当はずっと話したかった。
誰かに知って欲しかった。
俺はこんなふうに生きていたんだって。
「……家族がいたんだ、俺にも。父と母と兄が一人と、それに妹と弟も」
ぽつりぽつりと話す俺の話をシンは黙って聞いている。
思えば、こんな話レイダンにもしたことがなかった。
「今は全部話せないが、また気が向いたら聞いてくれるか?」
「もちろんです」
不意に上を見上げると、木々に囲まれて丸くなっている隙間から星が見えた。
父親と兄と訓練をした帰り、草原に寝転んで星を数えた記憶が浮かんだ。
記憶がなくなったあの日から今日までで初めて、この記憶が懐かしいと心から思った。