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婚約者が失踪した。
彼女の両親から手紙が送られてきたのは、結婚の一ヶ月前だった。
毎月決まって月の終わりに送られてくる彼女の文が途切れてから何かあったとは思っていたが、予想外であった。望まぬ結婚とはいえ、こうも大胆にこられるとこちらも呆気にとられるというものだ。どうやらここ一年の他愛のない文のやり取りは無意味だったらしい。手紙たちは小棚で窮屈そうにしている。
窓に目をやると、穏やかに揺れる海が見えた。
彼女はあの海の先にいる。まだ十七歳の幼い婚約者。やっと自分の意思で歩み始められるという年頃に結婚という枷は重いだろう。いっそのこと、逃げた先で自由に暮らしていけるなら、それはそれで俺としてはいいのだが。
とはいえ、ことの真偽はこの目で確かめなければ。
なんと言っても今日は十五日だ。
未来の父母からの手紙を懐に入れ、俺は蒼く広く深い海の底の先にいる彼女の元へ向かう。
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太陽が真上から少し西にある。
海は気持ち悪いくらい穏やかで、太陽に照らされてキラキラと反射している様子は、本来の荒々しさを隠してこちらに来いと誘われている気さえした。
「お客さん、これが最終便だよ。あと半月は帰って来れない」
帽子を目深に被り、白ひげを蓄えた老人が問う。
客は俺だけだ。
「ああ、そのつもりだ」
それだけ答えると、老人は返事の代わりに船を出した。相変わらずの無愛想ぶりである。
モーターが動く音がする。
船は最初こそ前進したものの、すぐに沈んでいった。丸窓からスポットライトのように漏れ出す光は、徐々に薄くなり、いくつかのランタンが船内を弱々しく照らしている。やがてモーター音もなくなり、船は、ただ静かに、しかし迅速に進んだ。
船に乗りながら彼女との今日までを思い出した。
彼女に――エルダ――に初めて会ったのは今から一年ほど前だった。俺の肩に頭の先があるくらいの小柄な少女で、薄く輝く紫色の髪が印象的だった。口数は多くは無いが俺を怖がっている様子はなく、落ち着いた雰囲気でしっかりと見つめ返す彼女は、十六歳にしては大人びて見えた。エルダは王都から離れた町の町長の娘である。町は山に囲まれた地形にある。人口は決して多くは無く、観光地に適した場所という訳でもない。そのため、町長の娘と言えど贅沢な暮らしはしていない。物心着く頃には家業の手伝いをしていた。彼女の年に似合わない落ち着きは、家族を支えられるように早く大人になろうとしているからだろうと思った。
会ったのはその一度きりで、それ以降は文通をしていた。別に会えない訳ではなかったが、会う必要性は感じていなかった。長くても四、五十年夫婦になるだけだ。無理に相手を知る必要もないだろう。手紙は結婚の条件の義務だからしていただけで、内容も半月の出来事を綴ったもので特別なことはなかった。そういった事務的なやり取りを通して、彼女はまだ子供ではあるが、結婚に理想を求める夢見がちな娘ではなく、現実的なタイプだと思っていたが……何年生きていても女の気持ちはよく分からない。
思わず深いため息を吐く。
俺は考えることをやめ、規則的に揺れる船に身を任せた。窓からはただ暗くどこまでも闇が覗いている。きっと海の中は冷たくて、とても生きてはいけないだろう。
それは俺も彼女も同じだった。
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どれくらい時間が経ったのだろう。大きな物音がして目を覚ました時には既に港に着いていた。
「お客さん、着いたよ」
老人は手早く荷物を下ろすと代金を受け取りすぐに引き返した。
時刻は午後四時くらいだろうか。一年ぶりに訪れた王都グロワール。以前以上に活気があり、建物も新しいものが増えている気がする。人々の賑わいを横目にここから更に離れたエルダの住むソワ町に向かうための馬車を探す。着く頃には暗くなっているだろう。彼女の両親には申し訳ないが、事情が事情だからしょうがないだろう。
乗り場に着くと適当に目に付いた馬車の御者に声をかけ乗った。正直、こんな非効率的な手段を使わないといけないのは面倒だが、それがこの国のルールなのだから仕方ない。
俺はまた箱の中で単調に揺られる。
少し経つと王都の街の賑わいはなくなり、家々や畑のある場所に出た。以前来た時はすぐに眠ってしまったから気づかなかったが、栄えているのはあくまで王都の中心地で、少し離れれば農作物が育てられている田舎だった。夕暮れ時だからか畑仕事をする大人の姿はなく、子供が家の近くで駆け回っている。家の煙突からは煙が出ていて、何かスパイスの匂いがする。さっきまでいた都会の喧騒とは無縁のようだった。
この国には貴族制があり、平民はほとんどが農家や漁師で、その他に職人、医師や商家のような専門的な職業に就く者もいた。この場所もいずれは開発されて街の一部になるのだろう。豊かな畑は石畳の道になり、その上を馬車が走る。農民の住む木造の質素な家は取り壊され――洋服屋、レストラン、劇場――グロワールがもっと栄えれば他国からの客人も来るはずだから宿泊所も立つだろうか。そして、他国との取引を行い、何らかの工事が建ってこの国を黒い煙が覆い尽くすかもしれない。そうやって、人間は短い人生の中で幾度となく破壊と構築を繰り返す。どうせあと数十年したら新しくできる街も壊されるのだろう。
また無駄なことを考えた。
少なくとも彼女が生きている間は、その煙が届かないことを祈った。
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日が暮れ、控えめに光る街頭が見える。ソワ町に着くととアーチ状の看板があり「歓迎する」の文字が薄っすらと書いてあった。一年前の記憶を頼りにエルダの家を目指す。大きくはあるが塗装が剥がれかけ、年季の入ったシンプルな家。彼女を含めた五人家族が住むには十分な大きさだ。
家の前についてベルを鳴らすと、エプロンをつけた小太りな女性がでてきた。
「夜分遅くに申し訳ありません。エルダさんの婚約者のシエン・ジェラールと申します。旦那様はいらっしゃいますか? 」
恐らく家政婦だろうか。以前には見かけなかった。疑っている様子だったので、エルダの父親からの手紙を見せた。夜遅くに尋ねてきた大柄の男に警戒を解くことは無かったが、彼女は渋々家主を呼びに行った。
しばらくすると、家の中からバタバタと忙しい音が近づいてきた。
「シエン様!わざわざお越しいただけるなんて…! 」
家同様、町長にしては質素な麻のシャツを着た白髪混じりの男が慌ててやってきた。
「いきなり押しかけてしまい申し訳ないです、モルガン殿。エルダさんが心配で、いてもたってもいられなくなってしまい」
改めて俺を見るモルガンはどこか訝しげだ。
俺の言っていることを疑っているわけではないだろう。
正確には俺自身を疑っている。
「見慣れない姿で申し訳ないです。外だと目立つので人間の姿になっているのです」
黒い短髪に汚れた麻の服を身に付け、日焼けした肌と平凡な焦げ茶色の目に少し猫背気味な姿は、どう見ても畑仕事に勤しむ人間の農民の姿だった。
「元の姿に戻ります」
まだ疑いの目で見つめるモルガンを安心させるために微笑み、本来の姿に戻る。
短い黒髪は銀色に流れる長髪になり、ビー玉のような透明感のある深い碧眼、浅黒い肌は日焼けを知らないきめ細やかな白い肌に変わった。ローブは上質な絹でできていて、とても平民には手の届かない代物だ。姿勢を正すと大柄なだけでなく、バランスのとれた肉体だと分かる。
そして、何より特徴的な長く尖った三角の耳。
「改めまして、シエン・ジェラールです」
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