第八話 うしろの正面、狐の面(一)
サイタ、サイタと楽しそうな『声』が嗤う。
最愛だったあの人が変わっていった花を見た瞬間、『声』は信じられないとばかりに顔を顰めると、あの人が最期に遺された言葉を食した。
「直。お前の兄さまの書類が溜まってるんだけど」
「直の兄さまが酒場で使った費用。経費では落とせないぞ!」
「お前の兄が」
兄、兄と続く言葉に直の頭の中はゲシュタルト崩壊しそうだ。
自分をこの世界に引き留めた青年、兄さまは前の世界でいう警察組織の総監のような立場をしているのだが、面倒ごとばかりを起こし、そのツケが自称弟である直の元へと持ちこまれる。今日も自分の机の上が書類の束の山になっていることに、直はひとり泣きたくなった。今まで、兄さまの兄弟分だというワンコさんが、どれほどの苦労を抱えていたと知れば、申し訳なさから二度と彼に頭を上げられない気がする。書類仕事の半分以上は、直の仕事になった為、ワンコさんも以前よりも現場へと復帰出来るようになったことだけ、周りからしてみれば喜べることかもしれない。
自分はいつから家に帰っていないのだろう。兄さまから交友関係を作るためにも学校に通った方がいいと言われ昼は学校に通い、学校が終われば、兄さまたちの職場で仕事をしている。
兄さまの家から引っ越しをして、一人暮らしを始めたのはいいものの、職場に泊まりこんでいる日々が続いている為に、周囲からも家賃だけを払うだけなら兄さまの家に戻った方がいいのではないのかと言われるが、今、兄さまの暮らす家に帰れば負けたような気がして、帰れない家の家賃だけを払い続けている状況だ。
「相変わらず、あいつの仕事までしているのか」
黒い犬の面をつけている、ワンコさんが哀れみの視線を直に向ける。
「あの、ワンコさん。弟というなら本来、あなたが兄さまの弟のようなものじゃないですか。なんで、皆が皆、兄さまのやらかしを僕にばっかり押しつけるんですか」
「皆、お前がちびの頃から知っているから、用事を言いつけやすい。それに今は階級が一番、下だからじゃないか」
「そこは普通、慰めの言葉をかけるものじゃないですかね」
ワンコさんは乱暴に直の頭を撫でてくるが、小さいときと同じように頭を撫でれば、自分のご機嫌が取れるとは思わないでほしい。
「……今度、ワンコさんの奢りで、お腹いっぱい、ぼくにあんぱんを食べさせてください」
おちびと呼ばれていた頃とは違い、直の機嫌をとるにはこれくらいのことをしなければいけないのだと、ワンコさんに言うと、何故か、彼は笑いを堪えたように咳払いをする。
「それより、ぼくになにか用ですか?」
「事件だ、直。皆も集まれ」
ワンコさんの召集に各々、仕事をしている手を留めて、皆が彼の元に集まって行く。
「――さま。今回はどんなヤマですか?」
それぞれにお面を被った部下たちが尋ねる。未だ、彼らの名前にノイズが混じるのは未だに自分が彼方の世界に帰りたいという迷いが生じるせいかもしれないと、直は思い始めていた。
「お前たち、『伯爵令嬢の絵』のことは覚えているか?」
直は手を挙げると彼の目配せを受けてから、発言する。
「あの、兄さまが燃やしたやつ、ですよね?」
直がこの世界に慣れていない頃に遭遇した事件だが、未だにあの絵の気持ち悪さは忘れることが出来ない。あのときに知り合った麗子からは、たまに彼女の友人の娘、あさの様子を聞くが事件の影響はなく、健やかに過ごしていると聞き、安心している。
「あの事件で男爵が使っていた薬は、同時期に邏卒に捕まった男が生み出した代物だったんだ」
「ぼくは聞いてませんよね?」
「胸糞悪い事件なこともあり、情報は俺と――のところだけで止めていたが、今回の事件に繋がる可能性も出てきたから解禁させる。ひとりの慈善家の話だ」
親が亡くなってしまったり、居場所がなくなった子達を引き取り『家族』として育てていた、商家を営む裕福な慈善家がいた。彼は自分が暮らしていた洋館に彼ら住ませ、家族のように暮らしていたという。周りから立派だ、自分にはなかなか、出来ることではないという褒め言葉にも謙遜していたが、その姿は表向きの話だった。
ひとりの青年がある日、仲良くしていた近所の家に『自分はあいつに花にされてしまう』と助けを求めたらしい。青年の話によれば、子供の頃は大切に扱われていたが、家で生活をする為には、一枚の誓約書に署名を書かされたそうだ。そこには成人すれば被検体として研究に協力するという項目だったが、子供の頃は腹が満たされればいいと軽い気持ちで署名をしてしまったという。
研究に参加することになったと話すきょうだいから、もしも自分が帰って来なかったらみてくれと、日記を託された彼は自分たちが実験材料として引き取られたことを知り、青年は慈善家の目を盗み、逃げ出してきたと話す。
通報を受けた邏卒が慈善家へ青年の話を確認しに行けば、すでにもぬけの殻だった家を見て、彼は全てが露見したのが分かったのか、ただ、自分は客の要望に合わせて薬を作っていただけだと邏卒を怒鳴りつけた。
引き取った子供が大人になれば、花に変えたあとで薬を作る。それがどのような効果が現れるのかを実験も兼ねて、闇市にも薬を回していたらしい。儲かるどころか大損だと、呆れたことに、反省するどころか青年が逃げたことに損害を払え! と怒っていたらしく、邏卒は改めて、詳しい話を交番所で聞くことになった。そのあとは軍部上層部、兄さまたちの組織、花影までに情報が渡った。
逃げられた青年は、きょうだいのように育ってきた子たちが保護されたことを聞くと、安堵のあまり涙ぐんだらしい。ひとつだけ、兄さまたちが気になったのは、青年がひとりの弟をやけに気にしていたことだったが、彼が口にはしなかったことで、大したことはない情報だと判断した。
こうして、慈善家が刑罰を受けることで一応の解決した。闇市で回っていた薬も全て、回収したという。
しかし、最近になり、ある女学校で『エス』を誓っていた相手の前で花になり、自分の想いが真実であるかを確かめる、少女たちの言葉でいう『儀式』が密かに行われているという情報が入ってきたらしい。そこに以前、ふたつの事件に関わる薬が使用されているのではないかと、軍部から直々に兄さまに『これは人の世を乱す事柄ではないか』との相談があったという。
人の事件は人が解決するものと兄さまたちは判断をしているが、兄さまの上司の憂いになりそうなら手を貸すようにしている。この件は自分たちが入るべきだと、兄さまとワンコさんは判断をしたらしい。
「ワンコさん。『エス』ってなんですか?」
「ああ、直も知らなかったか」
「シスターの頭文字を取った、女の子同士の特別な関係のことをいうらしい。それで、あいつはどこに行ったんだ?」
「にい……」
彼を呼ぼうとして兄さまの姿をみて固まった直とワンコさんの呆れて出たため息が重なる。
「なんだ、その格好は」
「この姿の私も可愛いだろう?」
白い狐の面を被り、いつもより身長を小さく化けて、女学生の袴を着ている兄さまは髪につけている大きなリボンを見せるようにくるんと回る。髪も女学生たちの間で流行りの髪型にしている辺り、芸が細かい。
周囲をみたが、兄さまの部下たちは、嫌な予感を察したのか既にいなくなっている。
「どうだ?」
「兄さまは女性にもなれたんですね」
何度か、兄さまの変幻をみたことがあるものの、女性に化けた姿を直は初めて見た。
「ああ、変幻は私の得意分野だからね」
兄さまが女学生に化けたことに嫌な予感がして、また書類仕事に戻ろうとはするものの、ワンコさんと兄さまが両方で腕を掴んで押し留められてしまう。
「直、分かっているよね?」
「わ、ワンコさん」
彼の顔を見るが、ワンコさんは諦めろというように首を横に振る。
「直の役割は、私の妹だよ」
「あのぼく、学校が……」
「大丈夫、大丈夫。学長はご存知だからね。学校と仕事が重なった場合は仕事を優先出来るように話してあるから」
やっぱり、女学校に潜入しなければならないのかと、直は自分の分まで用意をされていた袴を見て脱力する。
マリアから事前に協力を得ていたようで、既に直の為に用意をされた色違いの袴が取り揃えられている。
「何色がいい?」
兄さまに可愛らしい桃色の袴を体に当てられて、直は渋々、地味な藍色の袴を手に取る。
「りぼんは黄色がいいな」
その場で着替えてしまうと、直は兄さまとワンコさんに自分の姿を確認して貰う。
「こ、これ、男だって気づかれるんじゃ」
姿見で自分の姿を映すが兄さまとは違い、男子学生が趣味で女学校の袴を着ているようにしか見えない。この姿を見られれば、自分の方が邏卒に捕まってしまうんではないかと直は思ってしまう。
「大丈夫じゃないか?」
「ああ。少年にも見える少女ってことで、女学校では人気が出そうだな」
「兄さまは」
兄さまは直の唇を人差し指で留めると笑う。
「姉さま」
もう演技は始まっているのかと、直は普段、呼んでいる『兄さま』を『姉さま』と言い換える。
「姉さま。これからどうするんですか?」
「あささんと合流する」
「あさちゃんと?」
「今、彼女は件の女学校に通っているんだ」
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